聖日礼拝 『ペンテコステのメッセージ』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7~12節
新約聖書 使徒言行録2章22~42節


 

主イエスが復活されてから50日目の日曜日の朝の出来事でした。ペトロと共に立ち上がった11人の弟子たちは、エルサレムの人々に向かって恐れることなく、大胆に、力に満ちて主イエスの復活をのべ伝えました。その説教を聞いた人々は心を打たれ、ペトロの勧めの言葉を聞き入れて、人々は悔い改めて、洗礼を受けました。その日、主イエスを信じる人々の群れに加わり、その仲間となった人は3000人に及んだのでした。

これがこの世界にイエス・キリストの教会がはじめて誕生した、ペンテコステと呼ばれる日の出来事です。

主イエスは一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶと言われました。主イエスが十字架で死なれ、一粒の麦として地に落ちて死んだ結果、それから50日以上が経った、ペンテコステの日に多くの実を結ぶに至った、その多くの実りこそ教会です。

この日、弟子たちの先頭に立って、集まっていた群衆に向かって語ったのはペトロでした。彼が聖霊に満たされて、力強く語る説教によって教会が誕生しました。

ペトロたちがこの朝、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」、「あなた方に知っていただきたいことがあります」と言ったのは、何だったのか。2章4節に、弟子たちの上に聖霊が降ったとき、様々な言語で、聖霊が語らせるままに彼らが語った、その中身、内容が14節以下に書かれていることだということになります。

ペトロは言います。22〜24節。それはナザレのイエスのことでした。その説教は聖書の詩編の引用を挟んで、最後にこう語られます。32節、33節。
ペトロは、このとき、人々の前に立って主イエスの復活について語る自分たちを、主イエスの復活の証人と呼びました。主イエスの復活の証人とは、復活なさった主イエスに出会ったという意味で、復活の出来事についての証人でもありますが、それとともに、ペトロを含む弟子たちが、かつて主イエスを見捨てて逃げ去り、ペトロに至っては主イエスを三度知らないと言って、主イエスを否んでしまった、あの臆病で、弱い者たち、大きな罪を犯して、その罪責と挫折と、絶望の中から到底立ち上がることができないと思われていた者たちが、別人のように立つようになったのです。エルサレムの人々の目に、立ち上がっている弟子たちの姿が映っており、人々の耳に、彼らの力強い説教が聞こえているのは、もし、主イエスが復活していなかったら、復活された主イエスが天に昇り、そこから聖霊を注がれていなかったら、あり得ないことだったのです。エルサレムの人々がこの朝、弟子たちについて見聞きしていることは、主イエスの復活がもたらしていることだったのです。

この朝、人々の前に恐れなく、大胆さと、勇気を持って立ち上がったペトロの足は震えなかったのか、心は震えなかったのか、声は震えなかったのでしょうか。もし、最後の夜に主イエスを三度知らないと言ったペトロを見たあの女中が、この朝のペトロを見たら、同じ人とは思えなかったでしょう。ペトロにしても、この朝、今まで一度もしたことのない、生まれて初めての説教、何を語ったら良いか、準備が果たしてあったとも思えない説教に臨んだのでした。のちにユダヤの最高法院で祭司長たちの前に立たされたとき、ペトロたちは「無学のただびと」と蔑まれたのでした。確かに彼は学問をしたこともないガリラヤの漁師上がりの人間に過ぎなかったのでした。
ペトロが人を恐れてもおかしくなかったのに加えて、彼の心のうちには、もっと大きな自分自身の罪に対する恐れがあったでしょう。自分の熱心さを信じきっていた彼は、大言壮語して、自分だけは躓かない、死んでも主イエスの後に付き従うと言いながら、自分が、どれほど脆く、あっけないほどにサタンの前に屈してしまったか、それを繰り返すのではないかという恐れを拭うことはできなかったと思います。

ペトロが彼の説教を聞いた人々から、「私たちはどうしたら良いのですか」と問われた時、彼はこう答えます。「悔い改めなさい、めいめい、主イエスの名によって罪を赦していただきなさい」。しかし、この言葉は、誰よりもまず、ペトロ自身に語り聞かせられるべき言葉ではなかったでしょうか。

ペンテコステは教会が誕生した日でした。その日、3000人の人たちが新しく仲間に加わりましたが、3000人が加わった群れは最初120人ほどでした。しかし、それは120人のすでに悔い改めていた人が、まだ悔い改めていない人に、悔い改めなさいと勧めて、新たに3000人が加わったとか考えて、果たして良いのでしょうか。

今でも、教会の伝道は、すでに神と救い主イエス・キリストを信じている人々が、まだ主イエスを救い主と信じていない人に向かって、あなた方も罪を悔い改めて、救いに入ってくださいと呼びかけることであると、そう考えている人がほとんどではないかと思います。しかし、果たしてそうなのでしょうか。

今日の説教の題は「ペンテコステのメッセージ」という題です。ペトロが説教したこの朝の中心的メッセージは36節でした。これは何を語っているのでしょうか。
神はこの世界にキリストとして、救い主としてナザレのイエスをお送りになりました。しかし、神の民イスラエルの全家は、神から送られた主イエスを十字架につけて殺してしまったのです。神がこのお方について、この方こそ世界を救うお方であることを「証明」しておいでになったにも関わらず、イスラエルの全家は、神から送られた方を受け入れることに失敗してしまったのです。ところが、その失敗は、神があらかじめご存知だったことであり、その失敗は神のご計画だったというのです。その十字架につけてイスラエルの民が殺したイエスを、神は復活させて、救い主メシアとして立ててくださったというのです。つまり、神はイスラエルの失敗を通してイスラエルを、ひいては全人類、全世界を救われるというのです。

このメッセージはわたしたちに何を告げているのでしょうか。
弟子たちが復活の証人としてこのメッセージを語っていること、このメッセージが復活の証人である弟子たちを通して語られているということに注目したいと思います。

先ほども、復活の証人ということの意味について申しましたが、別の角度からお話ししたいと思います。エマオの弟子たちの話です。二人の弟子は、最初、主イエスが復活しておいでになるのに、目が遮られて、彼らとともに歩いておいでになる旅人が主イエスであるのがわかりませんでした。その彼らの目が開けて、それが主イエスであることがわかったのは、いつだったでしょうか。どのような場面においてだったでしょうか。それは「パンを裂かれたとき」だったと書かれています。パンが裂かれる、そのとき、彼らの目が開けたというのはどういうことか。パンが裂かれる、その行為、そこで裂かれるパンは、主イエスの十字架の死を連想する場面です。

私たちが主イエスの復活に目を開かれ、信じられない頑なな心が砕かれるのはいつか、何を通してか。それは自分の罪、自分が神さまに背いたこと、主イエスを捨てたこと、知らないと言ったこと、その結果、自分自身が、神から捨てられて、死んでゆくほかないものであることを知るときではないか。そのように自分自身が神から呪われて、捨てられて死んでゆくべきものであること、しかし、そのようなわたしのために、主イエスがわたしと同じ死を死んでくださったこと、何の罪もないこのお方が、わたしのために死んでくださったこと、それがわたしの罪を赦していただくためだったと知るときではないでしょうか。

その主イエスを神は復活させられたのです。神の民が拒否してしまった、受け入れることに失敗してしまった、そのお方を、神が救い主として立てられたのは、救いが人間の功績やわざによってもたらされるものではないからです。ただ、主の計り知れない愛といつくしみ、憐れみを通して与えられる罪の赦しによって救いが与えられるということです。

それは素晴らしい恵みだと言わざるを得ません。なぜなら、このお方の前で、救いの道が閉ざされている人は一人もいないからです。失敗しない人は一人もいないからです。すべての人は多かれ少なかれ、皆失敗します。パウロがいう通りです。

伝道が前進するというのは、120人の教会が3000人以上に人数的に増えてゆくことでしょうか。そうではないと思います。その考え方のどこがおかしいか、どこに問題があるのか。ペンテコステの朝、ペトロが人々に悔い改めを呼びかけたとき、悔い改めるべき罪びと、主イエスの十字架のあがないの死と愛によって罪を赦されるべき、罪びとの第一人者、先頭に立つ罪びとは、悔い改めを呼びかけるペトロ自身だったのです。今もそうだと思います。わたしたち教会ほど、神様の前に失敗を重ねている者たちがあるでしょうか。

伝道は、わたしたち教会が、すべての人たちに向かって、わたしたちは主イエスによって罪を赦された復活の証人です、罪を赦されてもう一度立ち上がることを許される者たちです。みなさんも私たちとともに、神さまの愛と赦しにあずかりましょう。そう呼びかけたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。