聖日礼拝『神は速やかに裁いてくださる』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇121章1~9節
新約聖書 ルカ福音書18章1~8節

 

ウクライナで戦争が勃発したのは2月24日未明のことでした。それから今日でもう25日が経過したことになります。突然の攻撃に驚かされ、家を焼かれ、故郷を離れざるを得なくされた3百万にものぼるウクライナの人々はもちろん、信じがたい思いでロシアによるウクライナ侵攻のニュースを聞かされ、心を痛め続けている私たちも、また私たちだけでなく、世界中の人々も、さらにウクライナに攻撃を仕掛けたプーチン大統領の膝元のロシアの人々をも含めて、数多くの人々が、平和を求める祈りを祈り、一刻も早い停戦を求めて祈ってきました。

自分たちにできることは何もないけれど、祈ることはできる。だから祈ろうと言ったりしてきました。そのように言う反面、祈っても、果たして私たちの祈りが神様に聞かれるのだろうかと言う戸惑いをも感じているということはないでしょうか。

神様は私たちの祈りを聞いてくださるのだろうか。もしも、私たちにできることは祈ることしかないのだとすれば、その祈りがなかなか聞かれないなら、私たちは無力感、あるいは絶望感を抱くのではないでしょうか。私たちの祈りをローソクに例えれば、ローソクがだんだんと短くなって行って、ついには燃え尽きるように、私たちの祈りの火もいつしか消えてしまわないでしょうか。

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」

私たちは、自分たちもまた気落ちして、祈ることをやめてしまいかねないことを知っています。そういう私たちに主イエスは今日読んでいる「やもめと不義な裁判官」のたとえを語ってくださったのです。

主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」と言われます。
主イエスは「絶えず祈りなさい」と言われるのでなくて、「絶えず祈らなければならない」と言われています。それはなぜでしょうか。なぜ、私たちは「絶えず祈らなければならない」のでしょうか。主が「絶えず祈らなければならない」と言われる、その理由はなんでしょうか。

このたとえで、訴えに耳を傾けようとしないのは誰でしょうか。やもめの要求をききいれようとしないのは誰でしょうか。それは不義な裁判官です。主イエスはこの裁判官を、誰にたとえようとしているのでしょう。
それは私たちが祈るときに、その祈りを聞かれる父なる神さまでしょうか。主イエスは私たちが祈りを捧げている神さまを、やもめの訴えに耳を貸そうとしない不義な裁判官になぞらえておいでになるのでしょうか。

主イエスは弟子たちが、「私たちに祈ることを教えてください。祈るとき、私たちはどのように祈れば良いのでしょうか」と問うたとき、それに答えて、「祈るときはこう祈りなさい」と言って教えてくださった祈りが主の祈りです。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

この祈りを私たちが父なる神さまに捧げるとき、神さまは私たちのその祈りをなかなか聞いてくださらないということが果たしてあるのでしょうか。ましてや、この祈りと願いを祈る私たちに対して、不義な裁判官のような態度を取られることがありうるでしょうか。

いいえ、父なる神は、誰よりも熱い思いを持って、この祈りが祈られることを期待し、この祈りが祈られることを喜び、この祈りを聞き入れ、実現しようとされるのです。この不義な裁判官は、父なる神の正反対の姿を映し出している鏡にすぎません。

主イエスは最後に言っておられます。「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでもほうっておかれることはない、速やかにさばいてくださる」。

詩篇121篇4節に「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」とあります。

主イエスは弟子たちに「絶えず目を覚まして祈りなさい」と言われました。弟子たちが、また私たちが目を覚まして祈るのは、私たちの祈りを聞かれる神様が、眠らず、まどろむこともなく、私たちのために目を覚ましておいでになるからなのです。私たちは、目を覚ましていなければなりません。それは私たちのために目を覚ましておられる父なる神様の前で、私たちが眠りこけることは許されるべきではないからです。

このたとえに出てくるやもめは祈る私たちのことをたとえています。では、このたとえに出てくる不義な裁判官とは誰のことでしょうか。このたとえには他に、やもめを苦しめている相手が出てきます。しかし、不義な裁判官は、やもめを抑圧し、苦しめている当人ではありません。そのやもめを苦しめている相手から、やもめを守るべき立場の人です。地上に正義を実現する務めと責任を与えられている人です。

このたとえに出てくる不義な裁判官は言います。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。」

ある人は、このたとえは教会と国家の関係を教えていると言います。やもめに例えられているのは教会で、不義な裁判官に例えられているのは国家だというのです。不義な裁判官になぞらえられているのが、国家だとしたら、その国家について、使徒パウロはローマ書13章で、国家は神によって立てられ権威だと教えていますから、このたとえでは、神によって立てられている国家が、それにも関わらず、自らに権威を与えてくださった神を畏れないということを言っていることになります。

国家は神によって正義を実現するために権威を与えられているのに、国家がそのつとめを少しも果たそうとしない場合、教会はどうすべきなのでしょうか。

このたとえに出てくるやもめは執拗に正義の実現を求め続けます。裁判官が、うるさくてかなわない、これ以上自分を悩ますことはしないでくれと言って降参するまで訴え続けると言います。

神様は、ご自分が権威を与え、正義を実現する務めと責任を託した国家が、神の僕としての責任とつとめを果たさないとき、何を求められるのかといえば、まず教会が国家にそれを要求することをお求めになるのです。

神さまは地上に正義が行われることを、国家以上に断固として要求されるお方です。地上に平和を実現することを、誰よりも願われるお方は神さまなのです。それゆえに、私たちは、その神さまのこどもたちとして、教会として、神の御心としての正義と平和の実現を祈り求めようとするなら、国家に対して、あなたは神のしもべなのだから、与えられた務めと責任を果たすよう要求すること、聞かれるまで執拗にそれを訴え続け、求め続けることをやめてはならないのです。

私たちは気落ちしないで良いのです。この世界を支配しておいでになる神様は、ご自身のみ名に必ず栄光を帰されるお方だからです。
それゆえ、絶えず「み名を崇めさせ給え」と祈りましょう。昼も夜も祈り続けましょう。神様は速やかにさばいてくださるでしょう。
そして、正義と平和が実現する、神の国を求めて、「み国を来らせ給え」と祈りましょう。
国家が神によって与えられた正義と平和を実現するつとめを果たすよう、要求し続けましょう。
また、さらに、私たちのつとめをも喜んで果たしましょう。それは、ウクライナの女性が神様によって置かれた場で、自分に与えられた務めに誠実に生きる姿ではっきりと示され、証されているように思いました。
私たちにとって、自分の与えられた場で、隣人に誠実に仕えて生きる生き方をすることは、まさに祈りだと思います。

父と子と聖霊の御名によって