聖日礼拝『天の下の出来事にはすべて定められた時がある』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉3章1~8節
新約聖書 マタイによる福音書23章29〜36節

 

わたしたちは昨年2021年の一年間、コヘレトの言葉3章1節を年間聖句として心に覚えながら歩みました。過ぐる一年、繰り返しこのみ言葉を思い巡らして月日を送りました。
わたしたちが過ごした2020年の初めから、2021年の終わりにかけての2年間は、世界中が同じ苦しみを味わった時でした。これまでにも、アフリカで恐ろしい伝染病が広がっているというようなニュースを見聞きすることはありました。でも、それは遠い世界の、遠い国の出来事だと受け止めていたのではないでしょうか。しかし、今回は違いました。北の果てから南の果てまで、世界中、新型コロナ感染症の影響が及ばないところはどこにもなかったからです。

その意味で、わたしたちはこれまで経験したことのない特別な時を過ごしてきたと言えます。2020年から2021年にかけて、わたしたちは歴史的時代の一ページを全世界の人たちと共有したのです。この2年間、わたしたちがパンデミックと呼ばれる新型コロナウイルス蔓延に直面させられる中で体験したことを、もし、一言で言い表せと言われたら、どんな言葉で表すでしょうか。

新型コロナ・ウイルスが流行しはじめた頃、世界中で改めて読み返された一冊の本がありました。フランス人作家アルベール・カミュの書いた「ペスト」という小説です。ペストという病気は恐るべき感染症であり、その病気は人間社会に様々な不条理をもたらします。
カミュがその小説でペストによって社会にもたらされる「不条理」を通して描こうとしたのは、第二次世界大戦中、ヒトラーのナチスによってもたらされたユダヤ人迫害という不条理のことでした。

人がペストにかかれば、その人は隔離されます。その人自身が遠ざけられ、危険な存在になります。その人と関わりを持つ人は、それによって自分自身を危険にさらすことになり、さらに自分の周りの人々を危険に巻き込むことになります。でも、ペストに感染することに何らかの道義的責任があるのでしょうか。ペストに感染した人に、注意を怠ったあなたが悪いと言うことができるのでしょうか。そうは言えなかったはずです。ペストに感染したからといって、本人には何ら落ち度もなく、責められる理由もないのに、ペスト患者になったら、その人の存在までもが否定されるような、存在そのものが他者にとって危険をもたらす悪であり、呪いであるような扱いを受けること、それはまさに不条理そのものです。

ナチスドイツのもとでユダヤ人はまさにペスト患者のように扱われたのです。ユダヤ人であること自体が危険でした。一体ユダヤ人が何をしたというのでしょう。ユダヤ人のこどもたちに何の罪があったでしょうか。しかし、ユダヤ人は社会から、世界からその存在を抹消されなければならなかったのです。ユダヤ人と交際すること、関係を持つこと、ユダヤ人を助けることは、それによって自分と自分の家族や愛する人々を危険に巻き込むことになりました。そのような不条理がまかり通っていたのです。

その結果、ヒトラーのナチスのもとで600万人ものユダヤ人が強制収容所で殺されていったことは皆さんがご存知の通りです。その中で、自分の母親も妹も父親も強制収容所で殺されてしまい、かろうじて死を免れた姉妹たちと生き残ったユダヤ人、エリ・ヴィーゼルという人が、こういうことを書いています。

あの時代、どこもかしこも暗闇だった。慈悲の門はすべて閉ざされ、開かれた扉は天にも地にもないように思われた。殺しを行う者、死んでゆくユダヤ人、その時外の世界は、迫害に加担するか、無関心を示すかだった。しかし、わずかながら、思いやる勇気を持った人々がいた。
この一握りの人たちは、力があったわけでも、後ろ盾があったわけでも、恐怖心がなかったわけでもない。それなのになぜ、他の人々と違うことをしたのか。なぜ、危険や苦悩はもとより、死の危険さえ顧みず、人としての道を選んだのか。なぜ、自分の命を危険にさらしてまで、ユダヤ人の子供一人、母親一人を救おうとしたのか。
これらの一握りの人たちに、我々は深い尊敬と驚異の念を覚える。そして、数々の疑問がわく。なぜ、もっといなかったのか。悪に反対することは、それほど覚悟の要ることだったのか。他の人は本当に助けることができなかったのか。組織的、系統的、合法的な残虐行為、殺人行為に抵抗して、犠牲者を、たった一人の犠牲者を気遣うこともできなかったのか。忘れるまい。犠牲者をもっとも傷つけるのは、抑圧者の残虐行為ではなく、傍観者の沈黙だということを。
自分たちはどうだ。何ができただろう。自分にも、他人を思いやる勇気があっただろうか。わからない。ただ、もしその場にいたとしたら、人としての道を外さないで入られたようにと願うのみだ。

ナチスの不条理が支配していた時代に、その不条理に抵抗して、ユダヤ人を助けるために勇気ある行動をした人たちがいました。この人たちは、大多数の人々がユダヤ人の迫害という不条理に「傍観者の沈黙」によって加担する中で、自分の命を危険にさらしました。また、周りの人々をも危険に巻き込むことなど許されるのかという非難を受けることを覚悟の上で、あえてユダヤ人を救おうとしました。それはなぜだったのでしょうか。

先ほど読まれた新約聖書のマタイ福音書23章に、「もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」と言いながら、殉教していった預言者や義人の記念碑を建て、その墓を飾り立てる律法学者、ファリサイ派の人々の偽善を痛烈に批判する主イエスの言葉が書かれています。

いつの時代にも、一方に迫害を受ける人が、他方に迫害を加える人がいます。迫害を受けて血を流させられた人々を真に追悼するということは、どういうことなのでしょうか。それは律法学者、ファリサイ派の人々が、預言者のために記念碑を建てることで、自分が先祖の時代に生きていたら、預言者を殺す側には立たなかったことを証明するような行為でしょうか。そのような行為は自分の正当性を証明するためのアリバイ作りのようなものだと言えるでしょう。それに対して主イエスは、そうではない、預言者や義人を真に追悼するのであれば、今という時代に、迫害されている人々の側に立って、迫害者の側に立たないようにすべきではないか。しかし、あなた方は、義のために迫害されている人たちを、今、本当に助けようとしているのか。むしろ反対に、今の時代において、義のために迫害されている人を見殺しにしていないか。そうであれば、あなた方は、預言者を殺した先祖の悪事と同じことを行なっている。あなた方は先祖の始めた義人への迫害の行為を、その記念碑を建てることで、彼らの子孫として悪事の仕上げをしているのだ。実に痛烈な批判です。

オランダのアムステルダムにアンネ・フランクの家があり、世界中から多くの人々が訪ねるそうですが、その内、日本からの訪問者は一年に3万人で、イスラエルからの訪問者数5千人の6倍だそうです。そのような日本人、戦争の不条理によって迫害を受けたアンネ・フランクに同情を寄せる日本人が、同じく戦争の不条理の犠牲者である従軍慰安婦の女性たちに関心を払わないことをオランダの人々は不思議に思っているそうです。わたしたちが世界から問われることは、過去の問題に対しての見方がどうかではなく、現に起こっている不条理に対する姿勢、生き方、行動がどうなっているのかということなのです。過去の不条理に対しては批判をしながら、また過去において生きていたら自分はその罪には加担しなかったと言いつつ、同じような不条理、罪が目の前にあるのに、それに対しては目を閉じたり、沈黙を守る傍観者であり続けるなら、そのときわたしたちは主イエスが厳しくその偽善を批判された律法学者、ファリサイ派の人々と同じなのです。

主イエスからその偽善を厳しく批判された律法学者やファリサイ派の人々こそ、主イエスを十字架につけた人々でした。これらの律法学者、ファリサイ派の人々は主イエスに躓きます。主イエスを受け入れることができませんでした。そのつまずきの核心は、主イエスがメシア、救い主であるなら、どうして自分を救わずに十字架で無力さと惨めさの極みであるような死を死んでゆかれるのかにありました。

主イエスは、ご自分に従おうとするものにこう言われました。「わたしについて来たいものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」
あるひとは、主イエスのこの言葉をこう言い換えました。イエスにYESと言って自分を失うか、イエスにNOと言って自分を救うかどちらかだ。イエスをとって自分を失うか、イエスを捨てて自分を取るか、その二者択一だと。

不条理の中でそれに抵抗して、ユダヤ人を助けようとする人は、それによって自分の命も、ひょっとしたら自分の家族や友人まで、一切を失う可能性があります。でもあえて、それらを失ってもいい、それによってイエスを得るのであれば、それらを全部失ってもいい、少しも惜しくないし、後悔もしない。

それはなぜか。それらを失ってもなおそれらにまさる大きな益がある、パウロは、自分はそれまで自分にとって益であったものを全て失ったけれど、それらを今は糞土のように思っている、それはキリストを得ることのあまりの素晴らしさのゆえであると言いました。キリストを得ることの素晴らしさとパウロが言ったこと、それをわたしは自分の言葉でこう言い表したいと思います。
もし、ナチスのもとで、わたしがユダヤ人であったら、どうなのか、ペストが蔓延する中で、わたしがペスト患者であったら、どうなのか、わたしが、わたしに関われば、わたしに関わりを持とうとするその人の身に危険を招くような存在であったらどうなのか、そのとき、それでもあえてわたしを愛するために、自分の命を捨てて、わたしを愛してくれる人がいたら、わたしはその人を愛さずにおれるだろうか。
わたしはキリストが自分の命をわたしに与えてくださってわたしを愛してくださるお方であることを知っており、信じており、それを喜びとし、感謝しています。そして、わたしも主イエスのようでありたいと願っています。

わたしたちはこの2年間、特別な時代を生きてきました。不条理のもとで、苦しめられて生きてきました。みんなが、一人残らず、すべての人が苦しんできました。でも、この不条理の時代が無事過ぎ去ってくれるようにと、ただ祈り、願うだけでなく、この苦しみから逃れて生き延びることをただ考えるだけでなく、この不条理に抵抗し、主イエスにならい、主イエスに従って、自分の命を救うのでなく、人を愛するためには自分の命を失っても悔いない生き方をしたいと願います。
それは、自分が努力してそうするというのでなくて、主イエスを愛するものには、主イエスのように生きることが願いですし、ある意味それは当然なこと、自然なことなのです。そして、そのような生き方をしたいと願う私たちを、主イエスが恵みによってそのような生き方をする者にしてくださるのです。主イエスは、わたしたち一人一人の中に生きていてくださる生ける主であられます。

父と子と聖霊の御名によって。