待降節第三聖日礼拝『チャリティ・慈善活動とは何か』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書53章1〜5節
新約聖書 マルコによる福音書14章3〜9節

 

3節「イエスがベタニアでらい病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」主イエスの頭に香油を注いだこの女性は名前が記されていません。「一人の女」としか書かれていません。でもその無名の女性のしたことは、今日の箇所の最後の9節で、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われています。たとい、無名であっても、この人のことは全世界で、いつまでも人々から覚え続けられるだろうと主イエスが言われたのでした。このときに女の人がした行為、主イエスの頭に高価な香油を注いだということを、主イエスはどうしてそれほど重要な行為だと言われるのでしょうか。

この女の人はこの時にこのようなことをなぜしたのか、彼女の動機は何だったのでしょうか。それについて聖書は何も説明していません。

結果として、このとき女の人がしたことは、主イエスによって受け入れられ、また後世の教会において非常に大きな意義を持つようになったのですが、女の人はおそらく、自分で、自分のしていることの意義を理解していないで、このことをしたのではないかと思われます。
主イエスは、8節で、彼女のした行為は「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」のだと言われました。それを聞いたとき、女の人は、主イエスからそう言われて、初めて自分がしようとしていたことには、そういう意味があったことを知らされ、悟ったのではないでしょうか。

女の人が主イエスに捧げた香油は非常に高価なものでした。でも女の人は非常に高価な贈り物をしても、それが少しも高くないと思ったのだと思います。それはなぜでしょうか。それは女の人が主イエスから受けた恵みが、これ以上高いものがないほどに高価なものだったからだと思います。

私たちが、もし、誰かを交通事故で傷つけたり、あるいは命を失わせたりしたら、どれほどの償いをしなければならないでしょうか。被害者の受けた損害に対して非常に高額な賠償金を支払わなくてはならなくなります。被害者に対して金銭的に償うことすら非常に困難ですが、たといそれができたとしても、その人が受けた精神的な苦しみ、その人が失った諸々の人生の機会を償うことはできないでしょう。そして、その人がわたしを恨み、責め続けるなら、それは甘んじて受けるほかない、その人からゆるしを受けることはできないことだと思います。

しかし、もし、その被害者がわたしをゆるすと言われたらどうでしょうか。恨まれても、憎まれても、責められても当然なのに、恨まない、憎まない、ゆるすと言われたら、それよりも高価な恵みが果たしてあるでしょうか。

今日読んでいる箇所とよく似た聖書の記事がルカによる福音書7章に書かれています。そこに登場する女の人、その人は罪ある女性と書かれていますが、その人も主イエスに香油を注ぎました。その理由は女の人が、主イエスから受けたゆるしに対する感謝をあらわそうとしてであったと書いてあります。主イエスはその女の人について「罪を多くゆるされたものは多く愛する」と言われています。

マルコ14章に出てくる女の人は香油の入った石膏の壺を壊しました。壺を砕くのは、香油を一回限りで、全部使い切るためです。その一回限りの行為は、主イエスの一回限りの、十字架の犠牲の死に対応しています。新約聖書のヘブライ人の手紙に、主イエスの死が、ただ一度、すべての人の罪を贖うための犠牲の死であったということが繰り返し書かれています。

神の御子がわたしたち罪のために、ただ一度十字架にかかって、わたしたちのために砕かれた、それによって預言者イザヤが預言したように「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた。」(イザヤ53:5)のです。これが福音です。そして、この福音が世界中で宣べ伝えられるとき、この女の人がした、香油を捧げて主イエスへの感謝をあらわすという行為が記念として語り伝えられるのは、この感謝の行為が、福音の宣教と対となって、欠かしてはならないことがらとしてあるからだと思います。

ところで、この女の人の行為はそこに居合わせた人々から非難されました。無駄使いだと言われました。ゴミ箱に捨てるようなもの、ドブに流すようなものだと言うのです。300デナリ以上に売って貧しい人々に施せたのにとも言われています。5千人の人々を養うために必要なパンが200デナリと言われているので、これでその日にパンにもこと欠いている何千人もの人々を助けられる、その機会を無駄にしたと責められました。女の人を擁護する声を発する人は一人もいなかったようです。「厳しくとがめた」と5節にあるこの言葉は原語のギリシャ語では、相手に対して上から目線で叱りつけるときに使う言葉で、男性の大人が女性やこどもに対してよくしていたことが、ここでも行われたようです。

非難は、それが向けられた女の人から、間接的に主イエスにも向けられたといえます。主イエスが女の人の行為をやめさせようとせず、黙って受け入れているからです。しかし、主イエスは女の人を厳しくとがめる人々に対して、女の人を擁護して言われました。6〜7節。
女の人を非難した人々が強調した貧しい人への施しは確かに重要なことです。大事なことです。良いことでもあります。貧しい人々への施しはどれだけあっても足らないでしょう。だからこそ、わずかなお金でも大切にしなければならない、無駄使いしてはならない、そう主張されるのだと思います。
では施しに必要な財源はどこから生まれてくるのでしょうか。あの5千人の給食のとき、計算では200デナリのパンが必要だと考えられたのでした。その200デナリのお金を一体どこから調達したら良いのでしょうか。その時、主イエスは弟子たちに自分たちの手で群衆を養いなさいと言われました。弟子たちが5千人を養ったのは何によってだったでしょう。たった5つのパンによってでした。それが弟子たちの持っていたすべてでした。5千人の給食に仕えた弟子たちは、自分たちにできるかぎりのことをしたのでした。それはこのとき、ナルドの香油を注いだ女の人がしたことと同じだったのです。
わたしたちは、この世界において、人々が互いに助け合うことによって貧困が解消すること、また人々が互いに赦し合い、愛し合って、戦争がなくなり、平和が実現することを願っています。そのような世界になるためには、どうすれば良いのでしょうか。人間の啓蒙、教育、善意、努力によってそれを実現することができるのでしょうか。主イエスはぶどうの枝はぶどうの木につながっていなければ実を結べないと言われなかったでしょうか。少なくともわたしたち自身は、ぶどうの木である主イエスにつながることなくして良い実を結ぶことができないことを知っています。それは、わたしたちにとって、ナルドの香油を捧げた女の人や、5つのパンを差し出した弟子たちと同じく、できるかぎりのことなのです。

主イエスに繋がり、主イエスからこれ以上高価な恵みはないほど高価な罪の赦しをいただき、愛をいただき、さらに互いに赦し合い、愛し合う恵みを受けること、これが私たちに宣べ伝えられている福音なのです。この福音は世界を変える大きな力です。人々が互いに赦し合い、愛し合うことにより、世界に平和と和解をもたらす神の力です。では、その福音が世界中で宣べ伝えられるようになるためには何が必要でしょうか。それには、主イエスの弟子となって、福音を携えて世界中に派遣され、出てゆく人々が必要です。それは外でもないわたしたちです。

わたしたちが主によって派遣されるということについて、先週、わたしの心に残ったエピソードを二つ紹介します。
一つは宮古島を訪問したことです。宮古島には教会がないと聞いていました。実際に行ってみたら立派な教会がいくつもありました。でも、やはり辺境の、過疎の地方ともなれば、その地の教会が牧師を得るのは難しいのではないかと思われます。しかし、わたしはそこで生き生きと島の人たちに勇気と希望を与えるために働いている若い夫婦と出会いました。教会は大事です。でも教会よりも大事なものがあります。教会を生み出す福音です。教会は福音宣教の前線基地なのです。教会形成はそれ自体が目的ではないのです。教会は福音宣教という目的を実現する手段にすぎません。すべての造られた人に福音をのべ伝えるために地の果てまで派遣されてゆくことこそ、主イエスが命じておいでになることです。この女の人がしたように、福音に対する感謝をもって生きることがわたしたちに求められていることです。それはどんなところでも、どんな状況でもできるのだと言うことを覚えさせられました。

もう一つは、先週の月曜日の朝、この地域の方達が教会巡りということで、私たちの教会を訪問されたことです。この地域には3つ教会があり、それらを見学され、大変喜ばれたとのことでした。そして、こういう感想を述べてくださったそうです。教会を3つみてわかったことは、どこの教会も神様を礼拝し、祈り、賛美する場所だということがわかった。つまり教会は建物ではなくて、礼拝を捧げる人たちの集まりだということ、そして、そのような人たちが、それぞれの場所で集まっているのがわかった。

それゆえ、わたしたちは今日、福音を聞かされている私たちも、主イエスの赦し、癒し、平和の恵みを心から感謝して、私たちが心を込めて、できるかぎりの力を尽くして主に捧げるナルドの香油を捧げましょう。福音を心から喜んで礼拝を捧げ、祈り、賛美の歌を歌いましょう。私たちの感謝を込めて捧げる賛美と祈りと礼拝こそが、私たちにとって、かつて女の人が捧げた高価なナルドの香油なのです。それを見る人たちは、自分たちも励まされて、わたしたちと共に福音にあずかって、互いに赦し合い、愛し合って、世界に平和が満ちるように、ともに力をあわせる日が来るでしょう。

父と子と聖霊の御名によって。