聖日礼拝『二人ずつ遣わされる』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 コヘレトの言葉4章9〜12節
新約聖書 マルコによる福音書6章6b〜13節

 

『二人ずつ遣わされる』

コロナの中で迎えた伝道の秋
昨年から続くコロナ感染の恐れの中で、私たちは生活上、様々な不自由と制限を課せられてきました。それは私たちの信仰生活、礼拝生活にも大きく影響を及ぼしています。その結果、教会の伝道活動は休止状態、停止状態に追い込まれました。コンサートは中止されました。クリスマスやイースターの礼拝に多くの人々を招くことは控えざるを得なくされました。
しかし、コロナによってもたらされたそのような異常事態は、今、振り返って見ると、私たちに色々な恵みをもたらしたと思います。それまで自分たちが当たり前だと思ってしてきたことが、決して当たり前のことだったわけではなかったことに気づかされました。日曜日に集まって礼拝が守らなくなったとき、また礼拝で声を合わせて賛美歌が歌えなくなったとき、そのようにして大切に思っていたものが失われたとき、失った価値を再発見するようになりました。
今朝は、伝道についてご一緒に聖書から聞きたいと思います。私たちは今、人々を教会へと、礼拝へと招くことができない状態にあります。そうなった今こそ、そもそも聖書において私たちに教えられている伝道、主が私たちに命じられる伝道とは何だったのか、その原点に立ち戻る良い機会ではないでしょうか。そして、そこから新しく、コロナの下にある今でも、私たちが成しうる伝道とは何かを聖書のみことばから聞き取りたいと思います。

12人の派遣の記事を通して教えられることは何か
1 期間は限定されている
主イエスの公生涯、ガリラヤでの宣教開始から、3年後にエルサレムでの十字架の死に至るまでの間に、今日読んでいる12弟子の派遣がなされたのは前にも後にも、この一回限りでした。弟子たちは主イエスによって伝道に送り出され、ガリラヤのあちこちを巡り歩いて、また主イエスのもとに帰ってきました。マルコでは弟子たちが戻って、主イエスに報告したときのことが6章30節に書かれています。出発して戻るまで、その間、どれくらいの日数だったのでしょうか。正確にはわかりません。でもその期間が限定されていたことは確かです。
弟子たちの派遣期間が限定されていたということ、それは、私たちの教会の伝道にとってどういう意味を持つでしょうか。
弟子たちが主イエスによって派遣され、また主イエスのもとに戻ったこと、そのことは私たちが日曜日の礼拝から世に送り出され、また日曜日の礼拝に戻ってくるのに重なります。
私たちは一週間、7日という期間限定で派遣を繰り返していると言えるでしょう。

2 派遣は主と結びついている
派遣されて出かけてゆく弟子は、彼らを送り出される主イエスと、一つに結びついています。空中に舞い上がる凧は、糸が切れたら飛んでゆくでしょう。主イエスが彼らの背後におられ、彼らと絶えず繋がっていてくださらないなら、派遣は派遣ではありません。派遣される弟子は、あくまでもぶどうの木である主イエスに枝としてつながっていなければなりません。そうであって初めて実を結べるのです。繋がっていないなら、弟子たちは人々の前に立って、人々に向かって、自分から語る言葉など一言も持っていないのです。仮に語ったとしても一体その言葉に何の意味があるでしょうか。彼らを通して主イエスが語られるのです。彼らを通して主イエスが人々の只中に来てくださるのです。主イエスは弟子たちを派遣されるにあたって、あなた方を受け入れるのは、私を受け入れるのであると言われましたが、その通りなのです。
そのこと、派遣において最も重要なのは、主イエスと私たちの結びつきにあるということが私たちの伝道にとって持つ意味を考えましょう。
私たちは伝道礼拝や伝道の行事を実施するとき、その成果を気にします。新しい方が何人きたとか、礼拝出席者数が何人増えたと言ったことを重視します。反対に、伝道礼拝のためにビラを撒いたけれど人が来てくれない。長く伝道しているのに、求道者が与えられない。受洗者に至っては本当に数えるほどしかいない。そう言って嘆く時には、伝道の成果、実りは自分たちの働きが生み出すものだと私たちが考えているからではないでしょうか。派遣された弟子が、自分たちの能力の限りに、いくら努力して働いたとしても、何かを生み出せたでしょうか。いいえそうではありませんでした。主イエスが派遣の主として、弟子たちに繋がっていてくださらないなら、弟子たちがぶどうの枝として、ぶどうの木である主イエスに繋がらないなら、自分では実を結べないように、私たちも自分では伝道の実を結ぶことはできないはずです。
聖書をよく見てみるなら、主イエスのナザレ伝道の成果は惨憺たるものでした。主イエスは故郷ナザレで伝道の実りをあげられなかったのです。主イエスでさえ、何の成果もあげられなかったとすれば、弟子たちの伝道が失敗や失望に終わったとしても何ら不思議ではないとでしょう。6章30節で、弟子たちは何を報告したのでしょうか。ルカによる福音書10章17節以下にも72人の弟子が派遣さから戻った時のことが書かれていますが、大事なことは、どれだけの人数が信じるに至ったか、その数や成果や結果ではなくて、弟子たちを派遣された主が、その間も弟子たちとともにいてくださったことだと思うのです。
今の私たちにとってもそうです。主イエスが私たちとともにいてくださることこそが一番大事なことです。日本のキリスト教の伝道は、隣の韓国、あるいは最近目覚ましい成長を遂げていると聞く中国と比べて、キリシタンの時代から数えれば、もう5百年以上経つのに少しも進まない、人口の1%の壁すら越えられない。ここは福音の種を蒔いても育たない石地のようなところ、いや根から腐る沼地だと言って嘆かれてきました。そう言って私たち日本のクリスチャンは伝道を諦めがちであり、消極的になっているのではないかと思います。
しかし、今日、私たちはもう一度伝道の原点に立ち返って考え直しましょう。伝道は派遣なのです。イエス・キリストが私たちを派遣されるところに伝道の原点があるのです。主イエスはマルコ6章では、まさに故郷ナザレで落胆するような伝道の失敗、幻滅させられるような経験をなさった直後に弟子たちを派遣しておられます。私たちが一週間の派遣の旅路から日曜日に主イエスのもとに帰ってくるとき、私たちはしばしば落胆し、自信を失って帰ってきます。でもそういう私たちを主イエスがもう一度立ち上がらせて、派遣してくださるのが日曜日の礼拝です。なぜなら、週の初めの日である日曜日は、主イエスのよみがえりを記念する日であるからです。私たちが何度も、何度も、繰り返し失敗して戻ってきても、私たちを再度、失敗と挫折から立ち上がらせてくださる主イエスは、復活の主です。父なる神からこの世界に派遣され、十字架にかかって死なれましたけれど、復活なさり、死者の中から復活された主イエス・キリストはもはや死ぬことがないお方として、私たちとともにおられるのです。死によってもはや支配されることのないお方がおられること、そのことを全世界に向けて証すること、それが私たちの派遣の意味、伝道の原点なのです。

3 二人ずつ遣わされるのはどうしてか
まだまだ今日の聖書の箇所から私たちが伝道について学ぶべきことが沢山ありますが、最後に主イエスが二人ずつ弟子たちを遣わされたことを見たいと思います。
使徒言行録でパウロが伝道旅行に出かけたときにも、彼には同行するバルナバ、シラス、テモテといった人が必ずいました。伝道旅行に出てゆくにあたってパウロは単独行動をとりませんでした。主イエスが派遣にあたって一人でなく弟子たちを二人ずつ遣わされた理由、意味は何でしょうか。
主イエスの弟子が、誰か一人で単独で行動した場面を考えてみますと、ペトロが主イエスを三度知らないと言ったとき、彼は一人でした。主イエスを裏切ったユダが主イエスを祭司長たちに売り渡したときも、一人でした。もちろん、弟子が二人で共謀して主を裏切ることもあり得たし、ペトロと誰かもう一人の弟子が口を揃えて、主イエスを知らないと言ったかもしれません。
でも、二人または三人がわたしの名によって集まるところに、私も共にいると言われた主イエスの約束のお言葉を思い起こすなら、二人が単なる二人でなくて、主イエスの名によって結び合わされた二人、それゆえに、主イエスが共にいてくださる二人であるなら、どうでしょうか。
派遣される二人の弟子が互いにライバルとして競い合うとしたら、伝道はどうなるでしょう。二人が絶えず言い争い、バラバラのことを主張するとしたら伝道はできるでしょうか。
そのことを私たちの、今の教会の伝道に結びつけて考えたいと思います。
私たちは誰とひと組になって派遣されてゆくのでしょうか。礼拝から遣わされてゆくとき、私たちは一人ではなくて、単独行動をとるのではないのだとしたら、一体、私と一緒に出かけてゆく相手は誰なのでしょうか。
隣にクリスチャンが住んでいるけれど、その人は別の教会の人だから、ペアにはならないと思うかもしれません。確かに二人で喧嘩しあったり、競い合ったりするのであれば、ダメでしょう。そもそも、私たちが二人チームを組むのは何のためにかと言えば、主イエスの名によって結ばれ、主イエスが共にいてくださるために一人でなく、必要なパートナーなのです。だったら、教会が違うから、信仰が違うからダメになるのでしょうか。
もし、その人が、主イエスがその人と共にいて、主イエスのぶどうの枝として生かしてくださっている人であるなら、私たちの大切なパートナーになれるはずです。
それだけではないと思います。マタイによる福音書の25章を思い起こしませんか。主イエスはそこで誰をご自分の兄弟とお呼びになりましたか。主イエスがご自分の兄弟とお呼びになるそれらのいと小さい人々は私たちにとってパートナーとなる人たちです。なぜなら、その人たちとともにいるとき、主イエスが私たちとともにいてくださるからです。
そうなると、私たちが派遣されてゆくにあたって、私たちのパートナーになれない人は一人もいないはずではないでしょうか。その人と組んで、二人して、主イエスがともにいてくださるチームの相手として、人を選り好みして、この人とは組めない、あの人とは合わない、という相手はありますか。
肌の色が違う人であれ、話す言葉が違う外国人であれ、様々な障がいを負って生きている人であれ、私たちは誰とでもペアになり、その人と一緒に、主イエスのぶどうの枝と枝同士として、まことのぶどうの木である主イエスに繋がって、互いに愛し合うことにより、愛の実を結ぶことができます。共に主イエスを証しすることが許されるのです。こうして、主イエスが私たちと確かにともにいてくださり、人々が主イエスに出会えるのです。これこそが神様の目に喜ばれる伝道の原点だと思います。

伝道についての説教は続きます
来週もう一度伝道について共にみ言葉に聞きたいと思います。この一週間、主が私たちを二人ずつパートナーとして派遣してくださるところで、そのパートナーとの出会いと交わりを通して、主がさらに多くの人々に出会ってくださいますように。主が私たちを通して人々に語りかけてくださり、働きかけてくださいますように。それがコロナのもとにおいても私たちに主がお与えくださる伝道なのだということを少しでも実感して、体験して、次の日曜日、主のもとに戻って来る時まで、皆さんを派遣してくださる主が皆さんと共にいてくださいますように。

父と子と聖霊の御名によって。