聖日礼拝 『神は私たちを兄弟として創造された』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記4章1~15節
新約聖書 ヘブライ人への手紙2章11〜13節

 

聖書に出てくる兄弟
今日は兄弟愛について御言葉からご一緒に聞きたいと思います。
今読んだ創世記4章に書かれているカインとアベルの物語は、最初の人アダムとエヴァから生まれた最初の兄弟の間で殺し合いがあった、人類の最初の兄弟の話がなんと兄弟殺しの話となっているのは衝撃的なことです。兄弟というものは本来、愛し合うものであるはずだからです。
しかし、考えてみると、聖書に出てくる兄弟というのは、カインとアベルの兄弟だけでなく、ほとんどが、互いに仲の良い兄弟ではないと言えそうです。例えばイサクから生まれた双子の兄弟のエサウとヤコブは、父イサクの祝福を巡って争いました。父の祝福を兄から奪い取ろうとして弟が兄を騙し、出し抜き、それを恨んだ兄が弟を殺そうとしたと言う話です。またヤコブから生まれた12人の兄弟たちの話も、父ヤコブの寵愛を受けるヨセフを他の兄弟たちが妬んで、彼を憎み、奴隷に売り飛ばします。
新約聖書でも、放蕩息子の例え話に出てくる兄と弟は愛し合う兄弟ではありません。
もちろん、聖書には、仲の良い兄弟も出てきます。例えばダビデとヨナタンは血を分けた兄弟ではありませんが、それに優る友情と愛情で結ばれた兄弟同然の関係でした。詩編133編は「見よ、兄弟がともに座っている。なんと言う恵み、なんと言う喜び」と歌い、箴言17章17節には「友はいずれのときにも愛する、兄弟はなやみの時のために生まれる」と言われているのは、実に味わい深い言葉だと思います。
それゆえに、同じ両親から生まれ、同じように両親の愛を受けて育っている間柄である兄弟が互いに愛し合うのが筋であり、正しいことであり、兄弟ほど近い存在はないはずだと思われるのに、なぜそのような兄弟の間に愛ではなく憎しみが、助け合いではなく争いがあるのか、そして聖書が、兄弟について語る時に、兄弟愛について語るだけでなく、兄弟の間にある憎しみや敵意についても語っている理由は何なのか、そのことが持っている問題の重さ、深刻さを考えさせられます。
と申しますのも、わたしたちが自分自身を顧みる時に、わたしたちは肉における兄弟と必ずしも愛しあえているわけではないということがあるからです。仲の良い兄弟である場合もありますが、互いの関係がうまくゆかない場合が多くあるのが現実ではないでしょうか。

兄弟をなぜ愛するのか、また憎むのか
もし、兄弟を愛するのが、兄弟が自分と同じであると言う理由からであるなら、それは同時に兄弟を愛せなくなる理由と背中合わせです。
カインとアベルの場合、カインとアベルは兄弟として同じであり、互いに対等であるはずですが、カインはアベルだけが神から愛されている、アベルと自分が同じではない、神が自分とアベルの間に差をつけられたことに怒っています。その結果、アベルに殺意すら抱いたのです。
兄弟関係からもっと話を広げて考えてみます。同じ民族、同じ文化、同じ思想、あるいは同じ宗教や信仰に立っていることが互いを結びつけ、その間に兄弟愛と言えるものを生むとしたら、そうではない異なる民族、異なる文化、異なる思想、異なる宗教や信仰を持つ人を兄弟として愛せるでしょうか。残念ながら、人類の歴史は、そのような他民族、自分と異なる人を兄弟と認めないばかりか、それを理由に相手を差別し、その結果、互いに敵意を抱き、憎み、カインとアベルのように血を流しあうことさえしたのではないでしょうか。
このことは、国や民族といったレベルから、こどもの世界のいじめにまで共通することだと言えます。自分と同じでないものを排斥し、酷い仕打ちを加えるということです。いじめにしても、それはグループの中でなんらかの個性、目立った点、特に弱さであったり、劣っていたりするこどもが標的にされることが多い。弱さを持った子が、自分が標的にされないようにしようとして、自分よりも弱い子をいじめの標的にしたりします。

聖書が教える兄弟愛は共通点を持つもの同士の愛ではない
聖書は兄弟愛を教えています。しかし、それはわたしたちが互いに同じだからと言う理由からではありません。それゆえ、同じでないものは愛さない、かえって敵意を抱いて憎む、そういうことではない、それが、私たちが十分に気をつけなければならない点です。
イエス・キリストはわたしたちに「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と言われました。
主イエスが、わたしがあなた方を愛したようにと言われるとき、その主イエスのわたしたちへの愛は、わたしたちが主イエスと同じだったからではありませんでした。主イエスはわたしたちとは違っていたのです。主イエスと私たちの間には共通点がなかった、それなのに、主イエスはわたしたちを愛された。それゆえに、わたしたちが、主イエスがわたしたちを愛されたように互いに愛するという意味は、わたしたちが、お互いが同じだから愛し合うのではなくて、互いに共通点がない、違うものとして、違うにも関わらず愛し合うということです。

そのイエス・キリストの愛、違うもの、共通点のないものをこそ愛する愛というのは、創造主である父なる神の愛から来ています。イギリスの聖公会の神学者は次のように言います。

人間が愛するのは主に仲間意識からですが、神の愛は決して共通点があるかどうかに左右されるものではありません。創造主は、ある意味では被造物と何の共通点もありません。ありえないでしょう。しかし、創造主は、ご自分の本質的な存在である愛を、ご自身が望まれる場所で自由にあらわすことがおできになります。このことは、私たちもまた、共通の関心や自然な同情の枠を超えて、神のように、自分とは何の共通点もないような人々を愛することを学ばなければならないことを教えています。

イエス・キリストは神でありながら、人となられました。そうして私たちの兄弟となってくださいました。でも、イエス・キリストがわたしたちと同じ人間になられた、それによって兄弟となったとはどう言うことか、特にキリストがわたしたちと同じものとなられるということの意味について深く掘り下げて考えなければなりません。

例えば、イエスさまは人となったとき、男性となられましたか、それとも女性となられましたか。イエスさまが人なられたとき、王様になられましたか。人から尊敬され、羨まれるような人になりましたか、それとも、軽蔑され、人々から忌み嫌われるような人になられたでしょうか。

イエスさまが人となられた時、男性になられ、女性となられなかった。と言うことは、イエスさまは男性に近くなり、女性はその分、男性と比べてイエスさまから遠くなったと言うこと言うことを意味しているのでしょうか。

いいえ、イエスさまが人となることによって、イエスさまにおいて分断や差別化がもたらされたとは思えません。イエスさまが人間となった、兄弟となったのは、わたしたちとの間になんらかの共通点があって、例えばイエスさまが男性となることによって、男性が女性よりも神に近くされ、イエスさまがユダヤ人となることによって、ユダヤ人が他の民族よりも優越する形ではなかった。むしろ反対で、イエスさまはわたしたちと共通点がない中で、わたしたちの兄弟となることによって、わたしたちが、お互いに間になんの共通点もない人と兄弟同士、愛し合い、兄弟となれるようにしてくださったのです。

イエスさまは自分と共通点のない人を兄弟とされます。それゆえ、すべての人が主イエスの兄弟です。男も女も、今日LGBTと呼ばれている男女の性別に自分をくくり得ない人も、ユダヤ人も、ギリシャ人も、ヨーロッパ人もアフリカ人もアジア人も、アイヌの人、沖縄の人も、ありとあらゆる人の兄弟です。イエスさまはマタイによる福音書25章で、私の兄弟であるこれらの小さい人々の一人、と言って、飢えて空腹の人、飲む水がなくて渇き苦しむ人、着るもののない裸の人、住む家のない難民、誰からも見舞われない病気の人、監獄に囚われの身となっている人が、わたしの兄弟であると言われます。またイエスさまが愛し、友となり、兄弟となられたのは、相手が愛されるに値する人であったかどうかに関わりませんでした。むしろ、人々から愛される資格がないと思われていた人たち、罪びと、友達のいない人の友となり、兄弟となられたのでした。

あるアメリカの小児整形外科の医師がこんなことを言っています。
自分が関わる脳性小児麻痺のこども、ダウン症のこどもたちを前にして、その子の前に立つとき、自分は神様の前に立っているように感じる。
このこどもたちはその苦しみ、障害から片時も離れることができない。その苦しみを絶えず負って生きている。それゆえ、このこどもたちは私たちのだれよりも十字架の主イエスに近い存在だと思わされる。自分はこのこどもたちに手を取られて、復活のキリストへと導かれる。
そして、こんなエピソードが紹介されていました。
ダウン症の子を妊娠した母親が、「正直、どうすればいいのかわからない。産むべきかどうか、本当に倫理的なジレンマに陥っている」という投書をしました。これに対し、イギリスの著名な進化生物学者リチャード・ドーキンス氏は、「中絶して、もう一度やり直しなさい。選択肢があるのなら、ダウン症の子をこの世に送り出すのは不道徳だ」と答えました。この問題が世界中のニュースで取り上げられ、議論の火花が散りました。もし、あなたがドーキンス氏と直接話す機会があったら、何と言いますか。と問われたこのアメリカの小児整形外科医は次のように答えます。
「まずドーキンス氏に聞きたいのは、進化生物学者の中で、自分が今やっていることに満足している人がどれくらいいるのかということです。研究によると、ダウン症の人の95%以上が自分の人生に満足しているそうです。彼らは満足しています。人生を楽しんでいるのです。人生を楽しんでいて、身近な人に感謝している。愛されていると感じています。ダウン症の人たちと同じように人生に満足し、幸せを感じている進化生物学者の数字を知りたいですね。整形外科医の数を知りたいですね。わたしはドーキンス氏に応えて、自分のダウン症の二人の子供に会わせるために彼を夕食に招待した人に拍手を送ります。」

今日の説教は、兄弟愛についての説教でした。わたしたちは兄弟を愛するように命じられています。でもそれは現実には難しい、命じられているにも関わらず、現実にはなかなか守れない命令だと言う人が多いのではないかと思います。
しかし、聖書が語る兄弟愛は、できないことを命じる命令ではありません。
イエス・キリストがご自分とはまったく違った相手であるわたしたちを、ご自分と同じだからと言う理由でなく、ご自分とは違うにも関わらず、私を私として愛してくださり、それゆえに、愛されるためにはご自分と同じにならなくてはならないとも言われず、ありのままのわたしたちを受け入れ、愛されるからです。それが、聖書がわたしたちに教えているイエス・キリストが私たちの兄弟となられることによって与えられる兄弟愛です。このイエス・キリストによる兄弟愛を知らされ、お互いが主イエスの兄弟として愛されているものたちとして、わたしたちもまた、自分と違う相手を、違いを持ったままで、受け入れあい、愛し合うことによって互いに兄弟となれるのです。
これはなんと嬉しい知らせ、なんと素晴らしい喜びでしょうか。

父と子と聖霊の御名によって