永眠者記念礼拝 『神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記4章1~15節
新約聖書 ルカによる福音書20章27~40節

 

死んだ人の名を絶やさないために
今日は永眠者記念礼拝です。私たちの教会は、毎年11月の第一聖日の礼拝を永眠者記念礼拝として守ってきましたが、今日もこの礼拝で、今は眠りについた、亡くなった方達を覚えながら、神さまの御言葉を聞き、祈りを捧げたいと思います。

今読まれた箇所に「復活についての問答」と言う小見出しがついています。復活があることを否定するサドカイ派の人々が主イエスに突きつけた問いと、それに対する主イエスの答えがここに書かれています。
主イエスに復活について質問したサドカイ派と言うのは、どんな人たちだったかといえば、主イエスの生きておいでになった時代、もう一つファリサイ派と呼ばれるグループと並んで、ユダヤ人の宗教勢力を大きく二分していたグループで、彼らは大祭司、祭司長などの宗教指導者の地位と権勢を独占していた貴族階級で、政治的には親ローマ帝国の立場に立つ人々でした。彼らは「死人の復活があることを否定した」とありますが、それは言い換えれば、人は死んだらすべてが終わりだと言う考えです。この世、現世がすべてであり、死後の世界、来世はないという考え方、生き方です。

ここでサドカイ派の人々が持ち出している28節に書かれている聖句は、申命記25章5、6節の御言葉で、そこにはこのようなことをする目的が、亡くなった人の名をイスラエルの中に残すため、それを絶やさないようにするためであると書かれています。

人が死んで、もし子供がなければ、その人の名は消えてゆく。子どもか、そのほか誰かがその人の名前や、家、土地、財産を引き継いでゆくことによって、その人のことが覚え続けられるようにします。さもなければその人は歴史の中から忘れ去られてゆき、存在しなかったかのようになるでしょう。その人の肉体がこの世界から消えるだけでなく、その人の記憶も人々の心から消えてゆくことになるからです。今日もこうして亡くなった方達を記念する礼拝を守るのは、亡くなった人々の名前を思い起こし、覚え続けるためではないでしょうか。

立ち止まって考えてみましょう。ここでサドカイ派の人が持ち出した話は、グロテスクと言うか、それ以上に現実にはあり得ない話です。7人の兄弟が、7人が7人、すべて子どもがないまま死ぬことなどあり得ないでしょう。でも、仮にそうなったとしたら、なんとも悲劇的な結末ではないでしょうか。この話は、それほどに必死な思いをしてでも、子孫、跡取りは残さないといけない、さもなければ、人の名は絶えてしまい、その人は永遠に忘れ去られるほかないという悲痛な叫びのようなものが伝わってくる気がします。

私たちにしても、教会でこうして一年に一度ですが、永眠者記念礼拝をささげ、そのときには亡くなった方達の家族とともに、その方たちを覚えようとするのは、こういうことがなされないなら、亡くなった人々が忘れ去られてしまって、かわいそうだという思いがあるからではないでしょうか。

死者のコトバが残る
最近、手に入れた書物で、若松英輔という批評家が書いた「魂にふれる」という本の最後に「死者の沈黙」という文章があって、そこにこういうことが書かれていました。少し難しい文章ですが引用します。

「クリスマス・キャロルの作者として有名なディケンズは、幾度となく死者の沈黙にふれる。より精確にいえば生者には沈黙にしか感じられない死者が語るコトバに言及する。
苦しみ、悲しむ人がそうであるように、死者に語るべきことがないのではない。しかし、死者は言葉を語らない。言葉の奥に秘められたコトバを語り、コトバを受け止める。」

ここで若松英輔は、井筒俊彦という哲学者に倣って、言語である「言葉」と言語の姿を超えた意味の顕れである「コトバ」を使い分けます。そして言います。

「言葉とコトバがあるのではない。言葉はコトバに包まれている。だが、人はときに世界を言葉的にしか認識しない。言葉で語り得るものこそが真実だと信じて疑わない。現実は逆の真理を私たちに突きつける。沈黙というコトバがなければ言葉は存在しないことを私たちは全身で知っている」

死者、亡くなった人々は言葉を語りません。死者は沈黙しています。サドカイ派の人々が復活を否定すると言うことと結びつけていえば、人は生きている間だけ言葉を語り、死んだら言葉を語らない。その意味では、確かに死者は沈黙しているのです。しかし、その沈黙の中に言葉にならない、言葉としては沈黙しているけれども、もはや語られることのない言葉の奥に秘められたコトバがあることを、私たちは全身で知っていると若松英輔が言うとき、私たちはそれに同意するのではないでしょうか。

たとえば、先ほど読まれた旧約聖書、創世記4章10節に殺されたアベルの血が主なる神に向かって叫んでいるとありました。アベルは無念の死を遂げた人です。アベルのような無念の死を死んでいった人々が人類の歴史の中にどれほど多くあったことでしょうか。アベルの告発は言葉としては発せられないのです。それは奪われ、隠蔽され、沈黙を強いられるのです。しかし、強いられた沈黙を破ってコトバが神に向かって発せられていると言うことです。

先週の水曜日にも、教会で「アリランのうた〜オキナワからの証言〜」と言う映画が上映されました。戦争中、朝鮮半島から若い農民たちが戦場となった沖縄に連れてこられ、実に悲惨な体験を強いられ、数多くの人々が死んで行ったこと、またうら若い少女たちが、慰安所において筆舌に尽くせない辱めを受けたこと、そして死んでいったことの証言と記録の映画でした。
私自身にとって、それらは今回の映画で初めて聞く証言でした。でもそれらの言葉を包むコトバは長く沈黙の中で語り続けられていたコトバであり、これからも消えることのないコトバだと思います。たとい、聞く人々がいなくても、またその言葉を歴史修正主義者と呼ばれる人たちが歪曲し、否定し、葬り去ろうとしても、この死者の沈黙を通して語られているコトバが消えてなくなることはないでしょう。
なぜなら、人がそのコトバに耳を傾けるまえに、それに先立って死者の沈黙のコトバに耳を傾けておられる神がおられるからです。死者が沈黙を通して雄弁に語りかけるコトバに神が耳を傾けられるからです。

アブラハムの神はアブラハムを復活させられる
主なる神はご自身を指して、私の名はアブラハム・イサク・ヤコブの神であると言われたのでした。主が、私はアブラハムの神だと言われるとき、主がアブラハムの神として、彼の祈りと叫びに耳を傾けて聴かれるのは、アブラハムが生きている間だけのことでしょうか。彼が救いを求めて叫ぶ叫びに応えて彼を守り、救われるのは、彼が生きている間だけでしょうか。神がアブラハムの神であってくださるのは、アブラハムが死んだ後も変わることなく続くのでしょうか。

それは私たち自身のことを考えればわかることです。私たちが、自分の子どもの父であり、母であるのは、その子が生きている間だけではありません。子どもが死んでも私たちはその子の父であり、母であり続けます。その子が生きている間、その子を愛し、その子のために最善を尽くすだけでなく、その子が死んだとしてもなお愛し、その子にできる限りのことをしたいと願います。子どもが死んだなら、その子を甦らせられるものなら甦らせたいと思います。確かに私たちには、それができません。でも、主イエスにはそれがおできになるのなら、主イエスにこどもを甦らせてくださいと願うでしょう。そして、主イエスは、ナインのやもめが一人息子の甦りを願った時、彼女の一人息子を甦らせ、会堂司ヤイロの12歳の少女をも生き返らせてくださいました。

主なる神がご自身をアブラハムの神と呼ぶほどに、アブラハムをご自身の者として愛されるなら、神が死人の中からアブラハムを復活させられないはずがあるでしょうか。

今日、私たちは永眠者記念礼拝に集まって、かつて、ここで共に礼拝をささげた教会の兄弟姉妹たちのことを覚えるとき、主がアブラハムに対してご自身をアブラハムの神と呼ばれたように、その兄弟姉妹たちもまた主なる神から、ご自身が兄弟姉妹の神であると言われていること、それゆえに、地上に生きていた時と同じく、この世を去った今も、神によって愛され、覚え続けられる者たちであることです。それゆえ兄弟姉妹は、36節にあるように「この人たちは、もはや死ぬことがなく、天使に等しい者であり、復活にあずかる者として神の子」とされていると言うことです。

しかし今日の礼拝において、私たちは、主なる神が、ご自身を、その人の神であると言ってくださるのは、かつて教会で礼拝をささげた人たちだけではないことを覚えます。その人々をこえて、はるかに広く、私たちが会ったことも、知ることもなかった多くの人々が、主なる神から覚えられていることを信じたいと思います。
アベルの子孫として、無実の血を流して死んでいった人たち、この世界でその声が覆い消されてきたたくさんの兄弟姉妹もまた、そうなのだと言うことを覚えたいと思います。
沖縄で、太平洋諸島のあちこちで、死んでいった国籍、民族のことなる多くの男女、子どもたち、広島、長崎で亡くなった様々な国籍の人びと、阪神淡路大震災、また東日本大震災の津波で亡くなった今は声を発することもない多くの人たちが語るコトバ、その死者たちの沈黙のコトバを聴かれる神さまを礼拝する礼拝は、その神様とともに、私たちもまた死者の沈黙のコトバに耳を傾けて、そのコトバを聞いて、その人々をいつまでも忘れないで、覚えて祈る礼拝なのです。

父と子と聖霊の御名によって