聖日礼拝 『御心によってわたしを清くしてください』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 列王記下5章1~8節
新約聖書 マルコによる福音書1章40~45節

『御心によってわたしを清くしてください』

1章40節に出てまいります重い皮膚病を患っている人というのは、そのすべてがハンセン氏病という、人類の歴史の中でも最も悲惨で不治の病と恐れられてきた病気のことではないと言われています。その全部が全部、かつて日本では癩病、英語でleprosy、ラテン語ではelephantiasis と呼ばれるものではなかったのですが、しかし、中にはハンセン氏病の患者も含まれていましたし、その他の種類の皮膚病でも、それにかかった人が治癒することはまずなかったと言われています。
ですから、先ほど読まれた旧約聖書で、シリアの将軍ナアマンの癒しを求めてシリアの王が将軍をイスラエルに送った時、イスラエルの王が衣を裂いて「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでもいうのか」と言いましたが、それは重い皮膚病の患者が癒されることは、死人を生き返らせるのと同じくらい不可能なことだと言われていたからでした。

先週もレビ記13章に記された「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆い、私は汚れたものです。汚れたものです。と呼ばわらなければならない。その人は汚れているので、独りで、宿営の外に住まねばならない」という規定を紹介しましたが、この病気にかかった人は人々の生活する場所から厳しく隔離されて生きなければなりませんでした。ハンセン氏病などの感染力は極めて低いと言われていますが、それでも人が一旦その病気に感染すれば、その患者は生きながらにして、社会的には死んだも同然、生きた屍としての生涯を送らねばならなかったのです。

そのような重い皮膚病を患う人が、主イエスの前に跪いて癒しを懇願したのです。それは、その人にとって死者の中からの甦りを願うことでした。
この人は病気を負っている我が身を人々から隔てる隔離の壁を乗り越えて、あえて主イエスに近づきます。死者を生かすことは人間には不可能ですが、神様にはおできになるという信仰を持って、主イエスの前に進み出たのでした。

41節にこの人をご覧になった主イエスが「深く憐れんで」と書かれていますが、ある聖書の写本ではここは「怒って」となっています。主イエスが憐れまれたということには何ら違和感も抵抗も覚えないのですが、「怒って」というのは直ちには飲み込めない表現ではないでしょうか。なぜ、主イエスは重い皮膚病の人をみて怒られるのか理由がわかりにくいからです。
ここと並んで、もう一つ理解しいくいことばが43節に出てきます。「厳しく注意して」とあるのがそれです。原語で用いられている言葉には、脅迫するとか、怒鳴りつけると言った手厳しく、手荒な言い方をするという意味があります。
柔和で滅多に怒られることがない主イエスが、ここでは普段見せることのない顔を見せておられると思って間違いないと思います。

主イエスが重い皮膚病の人をみて、その人を憐れまれる面もあったと思いますが、それ以上に怒るとすれば何に対して怒られたのでしょうか。それをある人は言います。神が創造された人をかくも悲惨な状態にして苦しめている病気に対してであると。
そのように注解している新約学者のエドゥワルト・シュヴァイツアーは「イエスの怒りは悪霊の仕業と同様、創造者なる神の本来の意志に対立するところの戦慄すべき病の悲惨さに向けられたものであった。」と言い、こう続けます。「こう見ることが正しいとすれば、ここにおいても、イエスの憐れみがその癒しの根拠とされているのではなく、憐れみよりも遥かに包括的な、全て神に敵するものに対する戦いの意志こそ、この癒しの根拠であり、これがイエスの特別な権威を顕すのである。」

神の形に創造されて、はなはだ良いものであるべき人間の姿が醜くされ、歪められ、その結果、ひとびとから蔑まれ、嫌われ、排除される。それは造り主なる神の御心ではない。その人がもう一度、神から創造された美しさへ、幸いと祝福へと回復されることこそ神の意志であり、その父なる神の意志にかなうことは、ご自身の意志だと主イエスは宣言なさいます。「よろしい」と訳されているのは、英語ではI will 「私は意志する」という言葉です。

こうして、主イエスによって病気を癒され、清くされた人に向かって、主イエスはもう一度43節で怒りの感情を表されたことになります。最初の41節の怒りについては、先ほど見た通り、主イエスの怒りは人を悲惨に貶める病気と悪の力に対する怒りだと受け止めれば、それなりに理解できます。しかし、今度の怒りはなぜでしょうか。主イエスはなぜ、癒された人に向かって、怒りに近い感情で44節の言葉を言われたのでしょうか。

そのことを別の角度から光をあてることによって考えてみたいと思います。ルカによる福音書17章に重い皮膚病を癒された10人の記事が書かれています。病気を癒されたのは10人でしたが、その癒しについて神を賛美するために戻ってきて、主イエスの足元にひれ伏して感謝したのは一人だけだったのです。あとの9人は癒されましたが、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、戻ってきたサマリア人の一人だけで、あとの9人はその言葉をいただきませんでした。これらの人が求めたのは奇跡であり、癒しであり、それがすべてだったと言えるでしょう。この人たちにおいては、それが神さまへの信仰と賛美にはつながらなかったのでした。

今日読んでいるマルコにおいても、重い皮膚病を癒された人にとって、自分の病が癒されることが最終目的で、それさえいただければ、あとは主イエスに用事はないという風になる危険はあったのです。このようなあり方に対しては、主イエスが怒りに近い思いを抱かれるということは理解できるのではないでしょうか。

重い皮膚病の人は主イエスに何を求めたでしょうか。この人は「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言って、主イエスのご意志を求めたのです。この人を癒されることが主イエスの意志に沿うことならば、そうして欲しいと願うのです。ということは、裏返すなら、もし、それが主イエスの御心ではないときは、御心のままにしてくださいと願うことを意味します。

私たちは主イエスのゲッセマネの園における祈りを思い起こします。また使徒パウロがコリントの信徒への手紙(2)12章で、こう書いているのも知っています。主はパウロの願いをお聞き入れになりませんでした。そして「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのでした。

病気が癒されることを願うときに、その癒しが与えられない。逆境にあって困難が取り去られることを願っても、それが取り去られない。試練を受けて苦しみ、それが過ぎ去ることを願っても、それが過ぎ去らない。そのとき、私たちの祈りと願いが聞き入れられない場合でも、それが神の御心であるならば、そして、その弱さと苦しみを通して神の恵みが表されるのならば、私たちはその御心を感謝して受け止めるべきです。そしてパウロが「だから、キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」「私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」と言ったように、私たちも自らの弱さをすら喜び、誇ることが許されるのです。

イエス・キリストは重い皮膚病患者に触れられます。これは当時の律法学者や祭司たちが絶対にしなかったことだそうです。彼らは患者がまかり間違っても自分に近づくことがないように最大限の注意を払ったそうです。
キリストはそうではありません。ではクリスチャンは、教会はどうでしょうか。
キリストは清いものだけをご自分に近づけ、汚れた者を遠ざけられたでしょうか。主イエス・キリストは私たちが健康な時だけ主イエスに近づくことを許し、病気になった時は私たちを遠ざけられるのでしょうか。主イエスは私たちが健やかな時も病む時も私たちの主であられます。主イエスは、教会が順境におかれている時も、逆境におかれている時も、教会の主です。イエス・キリストは私たちが生きる時も死ぬ時も私たちの主なのです。
このお方は教会の内側においても外側においても私たちの主です。信仰を持つものも、持たないものたちも、同じ愛を持って主は等しく愛されます。主イエスに味方するものも、主イエスに敵対し、主イエスを憎み、迫害する者さえ同じように愛されます。

私たちキリスト者はそのキリストの体なのです。そのようなキリストにつながるぶどうの枝なのです。キリストのおられるところに私たちもとどまり、キリストのゆかれるところに私たちもゆき、キリストがなさるように、キリストに倣って生きてゆくのが私たちキリスト者です。

古代教会の記録にある癩病人のこういう言葉が残されているそうです。
「癩病人と共に歩み、旅籠で共に食事をされる主イエスよ。」
この言葉は、古代のキリスト者の中に主イエスに倣って癩病人に近づき、彼らを家に泊め、食事を共にした人たちがいたことを証言しています。

かつて私が神学生の時、夏季伝道で指導を受けた出雲今市教会の笹森修牧師は、瀬戸内海にあるハンセン氏病施設から、山陰地方に里帰りされる人たちの世話をされ、その方々を教会に泊めておられました。

主イエスは創造主であられる神の意志に従い、差別の壁を打ち破り、宿営の外にいる隔離された人々のもとに赴くために、ご自身宿営の外に出てゆかれました。汚れた人に触れて汚れたものとなり、罪人と交わって罪びとと呼ばれ、辱めを受けて十字架につけられました。でもここに私たちは神の計り知れない愛があることを知っています。私自身がそのように神から愛されている罪びとのかしらであるからです。

では、その神の愛を知らされた私たち一人一人は、また私たちの教会は、主イエスにおける神との出会いに全身を、全生涯を委ねる覚悟があるでしょうか。この神様の御心に従い、差別の壁を打ち破るために、私たちは、また私たちの教会は主イエスが受けられたあの辱めを自らも受ける覚悟があるでしょうか。
主イエスは言われます。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34 f)

「日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」

新型コロナの試練の中で私たちは、もう一度この主イエスの招きの言葉を聞きたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。