聖日礼拝『主の神殿』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書23章18〜24節
新約聖書 ヨハネによる福音書16章12〜15節


『主の神殿』

聖霊についての信仰告白
今年のペンテコステは5月23日でした。今日はペンテコステから一月経ちましたが、その間、わたしたちは聖霊について、御言葉から新しく学び、知ろうとしてきました。それはわたしたちの聖霊についての知識、理解、聖霊に対する信仰が、父なる神、また御子イエス・キリストに対する信仰告白と比べて、乏しく、不十分であり、曖昧だということを覚えたからでした。
今日も、わたしたちはもっと聖霊について正しく、深く知り、そのお方を信じ、愛し、礼拝して生きてゆくものにされたいと願って、み言葉に聞きたいと思いますが、その意味で、最初にニケア信条を読みたいと思います。そこには、聖霊について世々の教会が御言葉に聞いて、聖霊について告白してきた信仰が告白されているからです。
ニケア信条は聖霊について次のように告白します。
「わたしたちは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。聖霊は父から出て、父と子とともに礼拝され、栄光を受け、また預言者をとおして語られました。」
ニケア信条は、父なる神、御子イエス・キリストを信じる信仰とならんで、聖霊を信じますと告白し、その聖霊について、3つのことを告白します。
第一に、聖霊が命の与え主であること。第二に、聖霊が父と子とともに礼拝を受けるべき主であること、第三に、聖霊が預言者を通して語られたことです。

近くにいる神
今日読んでいるエレミヤ書23章23節は、主なる神が、近くにいる神であるだけでなく、遠くからの神でもあると言っています。それを聖霊に当てはめてみるときに、どうなるかを今日の説教では考えてみたいと思います。神が近くからの神であるとともに、遠くからの神であるということは、父なる神と、御子イエス・キリストにも当てはまることだと思います。しかし、今日は特に聖霊であられる神について、神が近い神であるとともに、遠い神でもあるとはどういうことかという点に集中しようと思います。
先ほど、ニケア信条で3つのことを読みましたが、第一に、聖霊は命の与え主だと言われる、その点で聖霊がわたしたちに近いというのはどういうことでしょうか。わたしたちの一息、一息の中に聖霊からの命が吹き込まれており、そのようにして、わたしたちの一瞬、一瞬の命が聖霊によって送り与えられ、支えられているとすれば、聖霊はわたしたちに近い方です。息をして、呼吸をしながら、肉体の命を繋いでいるわたしたちは、聖霊による霊的呼吸を通して神様に向けて生かされていることは感謝です。
また、第二として、礼拝を受けられる主、礼拝の主として、聖霊がわたしたちに近くいてくださるということはどういうことでしょうか。礼拝は神様に祈りを捧げ、神様の御言葉を聞く時です。聖霊によって導かれ、執り成されることなしに、わたしたちは神様に祈ることはできないでしょう。また、聖霊の導きを受けて記された神の言葉である聖書が与えられ、その聖書のみことばを解き明かす牧師が聖霊によって召され、説教者として立てられることがなければ、こうして、神のみ言葉が近く、わたしたちに語りかけられることはないでしょう。礼拝の柱である、祈りと御言葉の説教について、それらを可能にするこのような働きをしてくださっている聖霊は、わたしたちに近いお方です。

 遠くからの神
このように聖霊はわたしたちにとってとても近いお方であることが分かりますが、では、その聖霊が遠くからの神でもあるということはどういうことでしょうか。聖霊はわたしたちにとって、非常に身近で、わたしたちが孤独なときも絶えずそばにいて慰め、わたしたちが試練に遭うときにも、迫害や危機に際しても、助け主であってくださり、愛に満ちた導き手であってくださるということは確かなことです。そのお方が遠くからの方でもあるとはどういうことでしょうか。聖霊が、それこそ、わたしたちに「寄り添う」ようにしてすぐ近くにいてくださる方であるということは、このお方がわたしたちの意のままになる、わたしたちの願いならなんでも聞かれるということではありません。わがままな聞き分けのない子供の願いを、ハイハイといってなんでも聞き入れる甘い親とは、全く違うお方です。主がご自身「わたしはあってあるもの」と名乗られたように、主は「わたしはわたしだ」と断言なさり、誰をもはばからずご自身の主張を通されるお方なのです。わたしたちの要求する無理難題を、なんでも聞いてくださるような方ではないのです。このお方を、人間が自分の意のままに操作すること、懐柔することはできません。
24節。隠されているようなこと、それは、この遠くからの神である主の前で、隠されたままであることはできません。当時のエルサレムの預言者の中に、姦淫の罪を犯すものたちがいました。公の場で、主から託された預言を重々しく語るといっても、隠れたところで姦淫をしている預言者は破綻しています。

空間的な遠近と時間的な遠近
聖霊なる神が近くにいますとともに、遠くからの神でもあるということは、空間的に把握するだけでなく、時間的にも把握されることができます。そのことを聖霊が預言者を通して語られるということについて見てみたいと思います。
エレミヤの時代、紀元前597年にユダヤの国王ヨヤキンはバビロンに連行され、国は既に危機的状況にあったのです。しかし、ある預言者たちは、そのような中で、「平和があなたたちに臨む。災いがあなたたちに来ることはない」と語っていました。主の神殿がある以上、エルサレムが滅亡することはないと預言していたのです。
また、ハナンヤという預言者は、連行されていった王は「速やかに、わずか2年のうちに」戻ってくると預言しました。彼の預言は「近くの神」についての預言でした。(エレミヤ28:2〜4)そのときエレミヤはハナンヤにこう反論しました。「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(28:8、9)
ここで、わたしたちは東日本大震災のとき、福島で起こったことを思い起こします。福島であの悲惨な過酷事故が起こるまで、指導者たちはなんといっていたでしょうか。原子力発電所は安全で、安心できる。危険はない。そう言っていた言葉は、近い、短い時間において語られていた言葉でしたが、遠くからの言葉ではありませんでした。
近くからの言葉、それは、自分たちの願望、自分たちの利益を正当化するための、ご都合主義の言葉であって、真理ではなかったし、神様と人に対する責任を負う、良心的責任を伴う言葉ではありませんでした。
預言者を通して語られる聖霊は近くだけの神ではないのです。自分たちの願望を、自分の心の幻を語る預言は、聖霊がそのものを通して語られる預言ではありません。
今も、時代が非常時だからとか、状況が緊迫しているからといって、状況に合わせて語られる言葉は、聖霊が語らせる預言ではないのです。神は永遠の主、終わりの日に裁きたもう遠くからの神でもあるからです。
ヨハネ16章にある通り、聖霊は自分から語らないお方です、ただ聞いたことを語られます。聖霊を通して語る預言者は23章18節にあるようにひたすら、主の言葉に耳を傾けて、その聞いた言葉だけを語らなければなりません。自分の語る言葉が、心のままに語る「夢」、願望に過ぎないのか、それゆえ、麦わらのような、籾殻のような人を欺く、虚しいことばか、それとも真実な主から聞いた言葉かについて、みことばを語る預言者は、自らを偽ることはできません。

主の神殿であるわたしたち
使徒パウロは、聖霊がわたしたちのうちに宿られるゆえに、わたしたちの体は聖霊の宮であり、聖霊の宮である信仰者の群れである教会は、主の神殿であると言います。その主の神殿について、今日の説教の最後に、エレミヤ書7章に記されている預言のみことばを聞きたいと思います。
先ほども申し上げましたように、この預言がなされた頃、ユダヤ王国はバビロン帝国の脅威にさらされ、危機に直面させられた王朝は動揺し、国は末期的状況を呈していました。そのような危機的状況の中で、「主の神殿だ」「主の神殿だ」と語った預言者の預言は、どんなことがあろうと主なる神が「主の神殿」の建てられたエルサレムを守ってくださる、ここが滅ぼされることはあり得ないのだという預言でした。しかし、それらの預言者たちは、主なる神にきいて、聖霊に導かれてそう語ったのではなかったのです。彼らは主に聞き従い、み言葉に服従するひとではありませんでした。倫理的に超えてはならない一線を踏み越えて姦淫の罪を犯すような人たちでした。実際、神が守り、滅ぼされることはないと彼らが主張したユダヤの国には、十戒に対する背きの罪が満ち満ちていました。「主の神殿だ」というのは偽りの説教でした。主なる神の目に、それは強盗の巣窟としてうつっていました。
今も同じ過ちがあり得ます。教会が、自己保存、自分の利益を追求するとき、偽りの説教が語られてしまうのです。体制の保存が正義や道徳的正しさよりも優先し、不正や倫理的罪に対して目をつぶらされるのです。
有名なエレミヤの預言の言葉があります。9章22、23節の言葉です。「地に慈しみと正義と恵みの業を行われる、そのことをわたしは喜ぶ」と言われる神が、天にも地にも満ちておいでになることを告白し、賛美するところ、それが聖霊の宮である、主の神殿なのです。
それゆえに、わたしたちはこの天をも地をも満たしておいでになる方が、今、ここでわたしたちに近くいてくださっていることを、畏れと感謝をもって覚えつつ、このお方の永遠から永遠まで変わることにない栄光を崇め、喜んで礼拝するのです。

父と子と聖霊の御名によって。