ペンテコステ礼拝『わたしに従いなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩編23編1~6節
新約聖書 ヨハネによる福音書21章15~19節


ペンテコステ礼拝『わたしに従いなさい』

今日はペンテコステです。復活節・イースターから50日目に、復活し、天に昇られた主イエスが、父なる神の右のみ座から約束されていた聖霊を注いでくださった日です。
この日、復活し、昇天された主キリストから注がれた聖霊によって、新たに教会が誕生し、この世界に新しい時代が訪れました。わたしたちは今日、ヨハネによる福音書21章の御言葉から、復活の主と共に始まったペトロたち、弟子たちの新しい歩みについて、ご一緒にみ言葉に聞き、わたしたちもまた、聖霊によって開かれる新しい教会の歩みへと歩み出すものたちとされたいと思います。

ここでペトロに三度、「あなたはわたしを愛しているか」と問われているのは、復活の主イエスです。わたしたちは今日、そのことを心に留めたいと思います。主が三度ペトロに問いを繰り返されたように、わたしたちも何度も、何度も繰り返し、この問いかけが復活の主からわたしたちにも問いかけられていることを受け止めたいと思うのです。
その主イエスからの問い、「あなたはわたしを愛しているか」という繰り返し問いかけられる同じ問いに、ペトロもまた、同じ言葉で答えています。
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」
そして、三度目には、ペトロは心を痛め、悲しみながら「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えています。

ペトロは、「あなたはわたしを愛するか」との主からの問いかけに、「はい」と答えるだけでなく、そのことは主よ、あなたがご存知ですと言います。ペトロは、主イエスがペトロの心の思いのどこまでをご存知だと言ったのでしょう。

このときの主イエスの三度の問いかけは、みなさんが良くご存知のように、ペトロが最後の晩、大祭司カヤパの屋敷の中庭に潜り込み、主イエスの裁判の成り行きを見届けようとして、その挙句に、周りから気づかれ、怪しまれて、あなたもあのイエスの仲間ではないかと追求されて、必死になって、わたしはあの人を知らないと一度言い、さらに追求されて、再び否定し、最後は神に誓って主イエスを知らないと言って、三度主イエスを知らないと言ってしまったこととつながりがあります。
三度目にペトロが主イエスを知らないと言ったとき、それを言い終わらないうちに突然鶏が鳴きました。その鶏の声を聞いたとき、ペトロは、「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われた主イエスの言葉を思い起こし、外に出て激しく泣いたのでした。

ペトロはなぜ号泣したのでしょうか。自分のあまりの不甲斐なさにでしょうか。主イエスを裏切ってしまったことへの後悔からでしょうか。それもあったでしょう。しかし、それ以上のことがあったと思います。それは、ペトロは、主イエスを三度も知らないということなど、決してありえないと言って否定しましたが、ペトロの弱さこそ現実であることを、主イエスがあらかじめご存知だったことに、ペトロは自分が三度主を知らないと言ってしまってから初めて気づかされたのでした。それだけでなく、その弱いペトロのために主イエスが祈ってくださっていたということにそのとき初めて気づいたということです。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」

ペトロは鶏の鳴き声を聞いたとき、ペトロは三度主イエスを知らないと言うであろうと言われた主イエスの言葉を思い出しただけでなく、その彼のために主イエスが祈ると言われたことも合わせて思い起こしたに違いありません。つまり、ペトロの悲しみと後悔は、ただ主イエスを裏切ってしまったことに止まらず、主イエスを知らないというペトロのために祈ってくださる、それほどまでに深いペトロに対する主イエスの愛に気付かずにいたことへの後悔でもありました。その主の深い愛に気づいたとき、ペトロはその愛の主イエスを悲しませる自分の罪深さを悲しみ、嘆いて激しく泣かざるを得なかったのだと思うのです。

「主よ、あなたは何もかもご存知です。」
ペトロが主イエスを愛していたのは、また愛さずにおれなかったのは、主イエスがペトロの弱さ、罪深さを十分知った上で、その罪深いペトロを、その弱さにも関わらず、いや、その弱さゆえに憐れみ、赦し、愛される方であったからでした。そのような主イエスをペトロが、多く赦されたものは多く愛すると言われる通りに、心から愛さずにおれなかったからでした。そのペトロの心の思いを誰よりもよく知っておられたのは、主イエスご自身だったのです。ですから、ペトロは主にあなたは何もかもご存知ですと言ったのだと思います。

主イエスは三度繰り返された問答の最後に、「わたしに従いなさい」とペトロに言われましたが、先ほど、三度「わたしを愛するか」とペトロに問われたのは復活された主イエスだと申しましたように、この「わたしに従いなさい」という招きの言葉を語られるのも、復活の主なのです。

復活の主はペトロに言われます。「わたしに従いなさい」
主イエスに従うということに関しては、実は、主イエスが十字架の死を前にされていたあの最後の夜に、ペトロの方から主イエスに対して、わたしは主に従います、どんなことがあっても、たとい命を捨ててもわたしは主に従いますと言っていたのでした。

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついてゆくことができないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(13:36)

このとき、主イエスは、ペトロに、あなたは今ついてくることができないと言われました。それは、このあともうすぐ、ペトロが三度主イエスを知らないと言ってしまうことを指していました。ペトロは大きな挫折と躓きを経験するでしょう。でも、主イエスは、そのペトロが、後になってついてくることになるとも言われたのでした。今ついてくることができない、主イエスを見捨て、大きな躓きを経験させられるペトロが、その後になって、主イエスに従うようになるというのは、一体いつのことを指して言われたのでしょうか。それは、復活の主イエスが、わたしに従いなさいと言われる、このときのことを指して言われていたのでしょうか。そうです。そうであるに違いありません。

では、最初、主イエスについてゆけなかったペトロが、主が復活された今になって主イエスについて行けるようにされるということは、どういうことなのでしょう。かつてと、主イエスが復活された今とで、ペトロの中で何かが変わったために、それでペトロは主イエスに従うことができるようになるということなのでしょうか。いいえ、そうではないと思います。

登山に行くと、増水した川を渡らなければならないことがあります。それは非常に危険で、ときには激流に足を取られ、流されて命を失うこともあります。そのとき、リーダーが先頭に立って、向こう岸に渡ります。リーダーはロープを持って激流の中を向こう岸に渡り、渡りきると、ロープの端を持って向こう岸に立って、ロープのもう一方の端をこちら側の岸で確保させて、激流の上にロープを渡すのです。後に続くものたちはそのロープに支えられて向こう岸に渡ることができます。

ペトロが渡ることのできない、死の川波、それを主イエスがまず渡られます。主イエスが死の陰の谷を渡るまでは、人間はだれ一人、自力で向こう岸に渡ることはできませんでした。しかし、わたしたちのために死んで復活してくださった主イエスが、死者の中からの蘇りの初穂となられて、死の激流の上に張ってくださったロープ、その命綱を頼りにして、ペテロも、わたしたちも主イエスの死と復活に預かって、はじめて向こう岸に渡って行けるようにされるのです。
今日はペンテコステです。ペンテコステに注がれた聖霊は、復活の主、ペトロに先立って死の川を渡り、復活して向こう岸に立ちたもう主イエスが、向こう岸から渡してくださるロープ、命綱なのです。聖霊という絆で、復活の主イエスはペトロをご自身に結びつけてくださることにより、ペトロは死と墓と滅びの中から引き上げられるようにして主イエスに従ってゆくことができるようにされるのです。
「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる。」それは、あの三度主を知らないと言った弱いペトロが、後になったら、強い、揺るぎない、不屈の信仰を持つようになるからではありませんでした。そうではなく、復活の主が、聖霊によって、弱いペトロをも、ご自身に結びつけてくださることによってだったのです。

最後の夜、ペトロは主イエスに向かって、「主よ、どこへゆかれるのですか」と尋ねました。主は、そのとき十字架の死に向かって進み行こうとされていましたが、十字架の死を通って最終的にどこにゆこうとされていたのでしょう。
また、このときも、復活の主がペトロに「わたしに従ってきなさい」と言われますが、主イエスはペトロをどこに導いてゆこうとされるのでしょうか。

主イエスは、あの最後の夜、弟子たちに「心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言ったのち、「あなたがたのために場所を用意するために父のもとに行く。行ってあなたがたのために場所を用意したら戻って来て、あなたがたをわたしの元に迎える」と言われました。(ヨハネ14:1)

また主イエスは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(14:6)

兄弟姉妹、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われた復活の主イエスは今日、わたしたちにも言われます。「わたしに従いなさい」。それは、道であり、真理であり、命である主イエスに従って、わたしたちが父のもとに行くためなのです。

父のもとにたどり着くまで、わたしたちが辿ってゆく道、それは「わたしが道である」という主イエスですが、その真理であり、命である道へ、わたしたちを迷うことなく導いてくださるお方こそ、真理の霊と呼ばれる聖霊なのです。

それゆえ、今日、ペンテコステのこの日に、聖霊の導きにあずかって、復活の主イエスに従って、共に父なる神のもとへ進み行こうではありませんか。

父と子と聖霊の御名によって。