聖日礼拝『罪人を招くために来た』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読  谷村牧子執事
旧約聖書 ホセア書6章1~6節
新約聖書 マタイによる福音書9章9~13節

説教

執り成しの祈り  辛島泰弘長老

 


『罪人を招くために来た』
2020年5月3日
マタイ9章9〜13節
ホセア6章1〜6節
賛美歌 433 431

9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従って来なさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」

収税人のマタイが、座っていた収税所の椅子から立ち上がり、主イエスに従って行きました。この出来事は、すぐ前に書かれている中風の人の癒しの出来事に重なっています。床に寝かされたまま主イエスのところに運ばれて来た中風の人は、主イエスに「あなたの罪は赦された」と言われるのを聞いて、起き上がり、床を担いで歩き出しました。収税人マタイが、それまで彼をがんじがらめに縛っていた仕事から自由にされ、その囚われの状態から解き放たれて、主イエスに従うものにされたことも、寝たきりで起き上がることも歩くこともできなかった中風の人がそれまで自分がそこに縛り付けられていた床を肩に担いで歩き始めたことと同じくらい、驚くべき出来事でした。

中風の人を起き上がらせたのも、収税人マタイを主イエスに従う人にしたのも、同じ主イエスの権威によることでした。神が人の子イエスにお授けになった罪を赦す大いなる権威が、中風の人を起き上がらせ、収税人マタイを主イエスに従うものにしたのです。

主イエスは今日の箇所の最後で「丈夫な人には医者は要らない。要るのは病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言っておられますが、そこで、病気を罪と結びつけ、罪人は病人のようなものだと言っておられます。

人生に、またこの世界に病気があり、病人が存在します。病気は誰もが避けたいこと、誰しも望まないものです。病気は普段の生活を妨げます。病気になれば、働けない、普段の生活ができない、家族や友人と食卓を囲むこともできない。
病気の中でも今わたしたちが苦しんでいる新型コロナによる感染症にかかれば、患者は隔離され、人に会えない、ひどい時には死にぎわにさえ家族との面会が許されず、独り寂しく死ぬほかなくされます。病気は人を人から遠ざけます。
罪もそれと同じです。罪が世界に存在し、罪びとが存在します。病気が誰からも喜ばれず、病人が歓迎されないように、罪は誰もが悲しみ、憎みます。病気は人を人から遠ざけるように、罪は人と人の交わりを不可能にします。罪人はその人からは遠ざかりたい相手であり、いて欲しくないと思われる存在です。

収税人マタイは当時のユダヤ人社会において、そのような罪人の一人でした。彼はユダヤ人でありながら、ユダヤを植民地支配していたローマ帝国の手先となって、ローマ帝国が徴収する税金を集め、ローマ帝国のためにそれを収めることを職業としていました。そればかりか、ローマに収める税金に上乗せをして上前をはね、それを自分の懐に入れるという許しがたい悪行に手を染めているような徴税人の仲間でした。神の民イスラエルの一員とは到底みなし得ない人、神の戒めに明らかに反している罪人、そう言う意味でマタイはユダヤ人社会の敵であり、ユダヤ人の神、主の敵であると人々から見なされていました。

こういう人物は、ちょうど病気が、特に伝染する病気が家族や社会を危険にさらすゆえに感染者を隔離するか、遠ざけなければならないように、神の民、信仰共同体にとって、人々を穢す罪人として、排除すべき存在、できることなら害虫を駆除するように滅ぼしてしまいたいと人々が思う存在でした。特に、健康であること、自分自身はもちろん、社会と家族の健康を守ることを大切に考える人たち、その代表が当時のファリサイ派の人々でしたが、自他共に、健康な人、正しい人と認めていたファリサイ派の人たちは、マタイのような収税人や罪人とは決して交際しませんでした。彼らと交われば自分たちが病気に感染するように、罪に汚染されると考えたからです。

ですから、そういうファイリ派の人たちが
10節「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やってきて、イエスや弟子たちと同席していた。」
という光景を目にしたとき、目を疑い、一体何事が起こっているのかと思って、驚き怪しんだとしても無理のないことでした。彼らはそのことを直接主イエスに対して言わないで、弟子たちに言いました。

11節「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。
ファリサイ派の人々は、主イエスはさておき、弟子たちに対して、問いかけます。あなた方はあんな徴税人や罪人たちと交われば、あなた方まで罪に染まることはわかっているはずではないか。自分たちが病人に、罪人になってもいいと思っているのか。
弟子たちはなんと答えたか、その答えは書かれていません。おそらく、弟子たちはそれに対して、一言も答えられなかったのでしょう。

わたしたちだったらなんと答えるでしょう。このとき、弟子たちがファリサイ派の人々から問われたことと、現在の私たちが新型コロナウイルスの感染の危険に囲まれる中で、問われていることは似ているような気がします。あなた方がもし感染者に近づくようなことをすれば、それによって自分が感染するばかりか、さらにあなた方は自分の家族や社会に感染を拡大することに手を貸すことになる。そんなことは許されていないはずではないかと言われたなら、わたしたちは返す言葉がない、それと似ているように思います。

12節 イエスはこれを聞いて言われた。
弟子たちが返答に窮するのに対して、主イエスご自身が批判の矢面に立たれます。主イエスがファリサイ派の人々の非難、攻撃に正面から答えられました。10節に「イエスがその家で食事をしておられた」とある、その家とは誰の家か、ルカ福音書では、それは徴税人マタイの家だったと書かれています。マタイはここでは誰の家とは書いていませんが、たといそれが誰の家であったにせよ、この時の食事の主催者、食事の主人として、食事に人々を招かれたのは主イエスです。そして、なぜ、あなたは徴税人や罪びとを招くのかという非難に対して主イエスはこう答えられました。

「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。罪人を招くためである」。

ファリサイ派の人々は罪人、いわば病人を避けなさいと主張します。それに対して、主イエスは正反対のことを言われました。わたしは病人を、また罪人を招く。なぜなら、医者が病人を癒すために来るように、わたしは罪人を赦すために来たからだ。
ファリサイ派の人が、弟子たちに、あなた方もわたしたちと同じように健康でいるために、正しい人であるために、病人から遠ざかり、罪人と交際しないようにしなさい、さもないとあなた方まで罪に染まることになると言うのとは正反対のことを主イエスは言われます。
わたしは医者を必要とする病人を癒すために医者が病人のところに赴くように、罪の赦しを必要とする罪人を招いて、その罪を赦す。そのために来たのだ。

さらに主イエスは言われます。13節 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどう言う意味か、行って学びなさい。

これは旧約聖書のホセア書に記された預言の言葉です。神は何を喜ばれ、わたしたちが主に捧げる捧げ物として何をお求めになるか。それは憐れみであって、いけにえではない。これはどう言う意味でしょうか。

それについては、主がお語りになった「良いサマリア人の喩え」を思い起こせば良いと思います。強盗に襲われて傷つき、半死半生の状態で倒れていた旅人のそばを通りかかった、祭司とレビびとはその人を見ても見ないふりをして道の反対側を通り過ぎてゆきましたが、最後に来たサマリア人はその人を「憐れに」思って、介抱し、宿屋に連れてゆきます。良いサマリア人が示したのは「憐れみ」でした。それに対して、道の反対側を通り過ぎた祭司とレビ人はその後何をしにどこへ行ったのでしょうか。彼らは神殿に行っていけにえを捧げたのです。それで、血を流して倒れている人を見て、もしかしたら死んでいるかもしれない、死体に触れたら自分の身が汚れてしまっていけにえを捧げられなくなる、そうなってはいけないと思って旅人を助けなかったのでした。神はそのようにして捧げられる祭司とレビ人のいけにえを喜ばれない。傷ついた旅人を憐れんだサマリア人の憐れみこそ、神の喜ばれる捧げ物でした。

主イエスが徴税人や罪びとを招き、食事を共にされるのは、主イエスを遣わされた父なる神ご自身が、生贄ではなく憐れみを求められる神であり、正しいもの、健康なものではなく、罪人、病人を招かれる神であられるからにほかならないのです。

先ほど弟子たちがファリサイ派からの問いかけに、一言も答えられなかったのではないか、そして、わたしたちもまた、弟子たちと一緒で、ファリサイ派からの問いかけに答えに窮してしまうのではないかと言いました。でも、もう一度考えるなら、弟子たちはファリサイ派にこう答えることが許されるのではないでしょうか。
主イエスの弟子であるわたしたちは病人であり、罪人なのです。医者を必要としているものの一人なのです。ファリサイ派のあなた方は確かに、医者を必要としないようですが、わたしたちはこのお方をどうしても必要とします。そして、わたしたちと同じように医者を必要とする他の多くの病人の人たちと交わり、その人たちと一緒に主イエスとの交わりの中に留まりたいのです。

主イエスはご自身を医者に喩えられます。今、新型コロナウイルスの蔓延する中で、治療にあたる医師や医療関係者の中から病気に感染し、命を落とす人たちが出ています。医師も看護師も病気に対しては自らを守らなければならない弱い存在であり、自らが、傷つき、病み、死んでゆく人間なのです。では、ご自身を医者に喩えられる主イエスはどうなのでしょうか。

主イエスも人間でした。それゆえ、自らが傷つき、死んでゆかれる弱さをお持ちでした。
8章17節にそう記されています。「彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った」。それが主イエスの十字架の死です。このお方は、わたしたちの罪、いや全世界の罪を負って死なれました。しかし、主イエスは、真の人であられると共に真の神であられました。死んで陰府に降られた主は、三日目に死者のうちから復活されました。主イエスが死者に触れられたとき、死人に触れた主イエスが汚されたのではなく、死人が復活しました。らい病人に触れられたとき、主イエスが汚されたのでなく、ライ病人が清まりました。長血を患う婦人が後ろから主イエスの衣のふさに触れると、その婦人が癒されました。このお方において、汚れではなく清さが勝利しました。罪ではなく義と聖が勝利し、死ではなく命が勝利しました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。そうではなくて、罪人をこそ招くためである。」

わたしたちは今こそ、キリストを必要としています。わたしたちは今、病んでいるからです。一人一人の心がこどももお年寄りも、青年も壮年の人も深く病んでいます。家族も、社会も、世界全体が病んでいます。しかし、医者を必要とする病人、罪の赦しを必要とする罪人のためにこそ、主イエスは来てくださったのです。このお方において、全能の父なる神が、癒しを、罪の赦しを、永遠の命という救いをこの世界に与えてくださるためです。
その中でいったい教会はどうなのでしょうか。教会は病を知らず、丈夫で健康なのでしょうか。いいえ、教会はそもそも、自分たちこそ医者を必要とする罪人であることを知っている群れではないのでしょうか。教会は丈夫な人の集まりではなく、罪人の集まりです。しかし、その罪人を招かれる主、憐れみの主イエス・キリストがいてくださるゆえに、病気を恐れず、罪を恐れず、病気に打ち勝ち、罪と死に打ち勝ち勝利されたキリストにあって喜ぶことができることを知って、人々をこの主の憐れみに招き、人々とともに喜ぶ群なのです。
しかし、わたしたちは、今、教会としてそのような喜びと、主にある憐れみにあずかって生きているでしょうか。主イエス・キリストのもとに人々を招いているでしょうか。それともそれを見失っているでしょうか。それを見失っているとすれば、そこにこそ、わたしたちが直面している教会の最も深刻で重い病があります。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。そうではなくて、罪人をこそ招くためである。」

世界が病んでいるだけでなく、教会もまた病んでいます。しかし、その中で、丈夫な人、正しい人ではなく、医者を必要とする病人、罪びとを招く医者、イエス・キリストが今、わたしたちを招き、わたしたちとともにいてくださって、わたしたちを恐れと不安から解放してくださいます。わたしたちの死に至る病である不信仰と絶望の罪からわたしたちを救い、わたしたちに癒しと、赦しと、命を与えてくださいます。そして、わたしたちを感謝と喜びで満たしてくださるのです。

人々が、そして、世界の果てばてまで、全世界の人々が、主を恐れ、神が主イエスに委ねられた権威をみて、神を賛美する時が来ますように。そしてすべての人々が、北から南から東から西から来て、神の国で、宴会の席に着き、神が与えてくださった罪の赦しと憐れみ、愛と永遠の命を感謝し、喜び讃える日が来ますように。  

父と子と聖霊の御名によって。