聖日礼拝『見ないのに信じる人は、幸いである』 説教 澤 正幸牧師

聖霊の導きを求める祈りと聖書朗読  澤 正幸牧師
旧約聖書 ヨブ記19章23~27節
新約聖書 ヨハネによる福音書20章24~29節

説教

執り成しの祈り  藤田秀郎長老

祝福


『見ないのに信じる人は、幸いである』 
2020年4月26日
ヨハネ20章24〜29節
ヨブ19章23〜27節
賛美歌 326  482

26節 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」 「八日の後」とは、いつから数えて八日目のことかと言えば、それは先週、わたしたちが読んだ20章19節以下に記されていた、「その日、すなわち週の初めの日」から数えて八日目のことです。その日、弟子たちがユダヤ人を恐れて、戸の後ろに隠れるようにして集まっていたとき、その真ん中に復活の主イエスが立たれました。その最初の主の日から八日が経って、2度目の主の日が来たのです。2度目に巡ってきた主の日には、前回、弟子たちと共にいなかったトマスも一緒でした。
今日も、週の初めの日、主の日です。今日は20章19節以下に記されている、あの最初の主の日から数えて一体何回目の主の日でしょうか。今日が何回目であれ、今日もまた主の日なのです。そして、トマスが最初の主の日に居合わせなかったように、最初の主の日に居合わせなかった多くの者たち、その日を経験することのできなかった者たちがここにはたくさん集まっています。

最初の主の日に、12人の中でトマスだけが、そこに居合わせなかったことは偶然のことだったのかもしれませんが、それは、わたしたちにとっては非常に大きな意味があります。なぜなら、トマスが、他の弟子が揃って復活の主イエスに出会ったとき、そこに居合わせなかったように、わたしたちもそこにはいなかったからです。遅れてきたトマスは、ある意味でわたしたちなのです。トマスにとって8日前にあった最初の主の日の出来事は、わたしたちにとっては2000年以上も前の出来事ですが、その時間の短いか長いかが問題ではなく、そこに居合わせなかったという点で、わたしたちとトマスは同じなのです。

最初の主の日から、2度目の主の日までの8日間に、弟子たちはトマスにむかって、「わたしたちは主を見た」と何度も、何度も、繰り返し語ったことでしょう。それと同じように、最初の主の日から、2020年の今日まで、教会は繰り返し、繰り返し、主イエス・キリストは復活されたとの使徒の証言を伝え続けてきました。けれどもトマスが他の弟子たちを通して「わたしたちは主を見た」と聞かされても信じなかったように、今も、わたしたちの周りの未信者の夫、妻、こどもたち、親戚のもの、友人、隣人、世の人々は教会が主イエスの復活をのべ伝えても信じようとはしません。

この2度目の主の日に、8日前の最初の主の日とまったく同じことが起こりました。復活の主イエスがこられたのです。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。復活の主が弟子たちのもとにこられるのを、誰も、何物も妨げることはできなかったのです。そして、今回は共にいたトマスに向かい「あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい」と言われました。復活の主イエスは、トマスの言葉を、その疑いの言葉を聞いておられたのでした。トマスはまさか自分の言葉が主イエスによって聞かれているとは思い見もしなかったことでしょう。
「自分たちは主を見た」と言った仲間の弟子たちの言葉を信じられなかったトマスに対して、主イエスは「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われました。

この「信じない者」と言う言葉、ギリシャ語でアピストスと申しますが、この言葉は実は福音書で、特に主イエスの復活を弟子たちが信じようとしなかった、その不信仰を指す言葉として繰り返し用いられているのです。一箇所だけ引用しますと、マルコ福音書の16章にこう書かれています。マルコ16:11、13、14。トマスはここで12人の一人と呼ばれていますが、この12人と呼ばれる人々は、後に「主の復活の証人」と呼ばれるようになります。12弟子の一人だったイスカリオテのユダが死んでいなくなった後、ペトロはこう言って、ユダの穴を埋める人を選びました。「『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまりヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」使徒1:20。この人たちは復活の主イエスを見た、目撃証人であったこと、それで12人が特別に復活の証人と呼ばれるのです。
しかし、これらの人たちは、トマスだけでなく、他の弟子たちも実は最初から信じる者ではなく、「アピストス」信じない者だったのです。信じなかったのはトマスだけでなかった。トマスの不信仰は、実は12人全員が、主の復活をまったく信じようとはしない者だったことの痕跡なのです。ですから、12人が復活の証人であると言う意味は、単に彼らが主イエスの復活の目撃証人であると言うことでなく、実に、信じることができなかった者が信じるものにされたという意味を含んでいるのです。

信じようとしなかったトマスが信じるものと変えられました。それはトマスが主イエスを見たからでしょうか。トマスは確かに復活の主をその目で見ることを許されました。でも、見たから信じられたのだとは必ずしも言えない面があります。なぜなら、先週の説教で引用しましたが、「あなた方は見るには見るが認めず、聞くには聞くが悟らない」と言う預言者イザヤの言葉は、マグダラのマリアが、またエマオ途上の弟子たちが、最初、復活の主イエスを見たにも関わらず、その目は遮られて、主イエスだとはわからなかったように、トマスも主イエスを見たからと言って、それが主イエスだと分かったとは言えない面があったはずだからです。トマスもマグダラのマリアやエマオ途上の弟子たちと同じだったのです。トマスは確かにその目で主イエスを見ましたが、主イエスが、また聖霊がトマスの心の目を開き、信じられない頑なな心を開いてくださらなければ、復活の主イエスを見ることも、信じることもできなかったはずなのです。
トマスは復活の主を仰いで叫びます。「わたしの主、わたしの神よ」
トマスが復活の主イエスをわたしの神と呼んだこと、これは、22節に書かれている、聖霊を受けることと関わりがあります。神が最初の人間アダムに息を拭き入れたように、復活の主イエスはトマスのうちに聖霊をふき入れて、彼を新しい人間として創造されます。トマスの主イエスに対する「わたしの神よ」と言う信仰告白は、主イエスが人間を再創造なさる創造主なる神であられるとの賛美であり、告白なのです。

信じないトマスが、信じるトマスになったのは、神さまのみわざです。トマスが見て、触って、納得して、キリストは復活されたと言う確固たる信念を抱くようになったと言うことではありません。トマスの信仰は、パウロがアブラハムの信仰についてこうのべているように、すなわち「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じた」と言っているように、神が無から有を呼び出される、創造者として、いわばトマスを死人の中から復活させるようにして、信じることのできない者から、信じるものへと、聖霊によって、神の一方的な恵みによって変えてくださった結果でした。

29節 「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」 主イエスが最後にこう言われたのはトマスに対してよりも、今のわたしたちに対してであります。トマスは最初の日に共にいなかったので、他の弟子に言わば遅れをとったことになりました。しかし、信じない者、信じることのできなかったものが、信じるものにされた点では、先に主に出会った他の弟子たちとトマスでは同じでした。信じることができずにいた時間が長く、他の弟子に遅れをとった分、ただ、神の恵みによって、信じるものとしていただいたことの感激と喜びは、他の弟子よりも大きかったかもしれません。
しかし、そのようなトマス、他の弟子に遅れをとった分、それだけ神の恵みをより深く感謝するトマスと比べて、さらに幸いなのは、今のわたしたちだと、主イエスは驚くべきことを言われるのです。

わたしたちは、復活の証人である12使徒の言葉「イエス・キリストは復活された」と言う言葉を聞いて信じる以外の方法で、主イエスの復活を信じることはできません。他の弟子たちに一週間遅れたけれども、その目で復活の主イエスを仰ぐことを許されたトマスのように、復活の主イエス見ることは、わたしたちにはかないません。そのように11人の弟子たちにも、最後のトマスにも遅れをとっているはずのわたしたちが、ただ、神の恵みによって、聖霊によって主イエスの復活を信じるものにされるなら、わたしたちは、12人にも優って幸いだと主イエスは言われるのです。

トマスに対して、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」と言われた主イエスは、わたしたちが信じないものであり続けることをお望みになりません。トマスの不信仰な呟きをさえ聞かれた主イエスが、もし、わたしたちが疑うのでなく、自分がどうしても信じることができないゆえに、信じられるようになりたい、どうか信じるものにならせてくださいと祈るとき、その祈りを聞かれないでしょうか。

教会は、21世紀の世界に向けて、若い人々に向けて、主イエスの復活をのべ伝えます。人々は聞く耳を持たないように見えるかもしれません。誰も信じようとはしないと思われるでしょうか。しかし、聞く耳を全く持たないように思われる若い人々に対して、また信じようとしない世の人々に対して、わたしたちは主イエスの復活の証人なのです。
それは、わたしたちが信仰を持っているからではありません。そうではなくて、かつて自分も主イエスの復活が信じられなかったものだったのが、今、主の恵みによって信じるものにしていただいていると言う証人です。関心のない若者、聞く耳を持たない世の人々、その人たちに、あなたたちもわたしたちのようになることができると言う証人です。それは、わたしたちの力によるのではなく、神の恵みによってであり、わたしたちが聖霊によって信じるものとされていること、その聖霊を神さまはあなたにも与えられるゆえに、あなたもわたしたちと同じように、主の復活を信じることが許されるでしょうと語りかける証人です。

いや、わたしはあなたのように恵まれた環境に育ったわけではない、クリスチャンホームに生まれ、熱心な両親の祈りのうちに導かれたような、あなたとは違うと言う人がいるかもしれません。わたしは教会には全く縁がなく、礼拝にも参加したことがないし、聖書も知らないと言われるかもしれません。わたしたちも、そう言う条件の悪い、全く神さまと関係がなく、信仰から遠い人たちが、信じる者となるのは無理なのだと諦めるかもしれません。

しかし、主イエスは、遅れてきたわたしたちを愛し、あなた方こそより幸いなものたちだと言われました。復活の主はわたしたちに信仰を賜物としてお与えくださり、一切、わたしたちの側の条件や功績によらずに、わたしたちは復活の主を見ることさえできなかったのに、すべてを神の恵みとして、一番遅れた、一番遠い、一番条件が悪いようなわたしたちに信仰を与えてくださいました。そしてそのようなわたしたちに、「見ないで信じるあなたがたこそ幸いだ」と言ってくださったのです。それゆえ、今ここにいない人たち、わたしたちの後からくる若者たち、信じようとしない人たち、人間的に考えれば、条件の悪い人たち、信仰から一番遠いと思われる人たち、その人々を主イエスは、わたしたち以上に愛されて、その人々を聖霊によって、一方的な恵みによって信じるものとしてくださるお方なのです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

父と子と聖霊の御名によって。