聖日礼拝 『教会に来て間もない人』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書45章14~17節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)14章6~25節


『教会に来て間もない人』

今日読んでいる聖書の箇所は、先週読みましたところの続きで、コリント教会の礼拝で、私たちの礼拝で言えば説教に当たるものとして行われていた異言と預言に関してパウロが述べている部分です。先週読んだ箇所の結論は5節です。
今日読んでいる箇所でもパウロは異言が異言のままではそれを聴く人々の役に立たないことを、異言を楽器の演奏にたとえて説明します。笛、竪琴、戦闘ラッパは、いずれも音程の違い、メロディー、リズムの強弱で聞いている人の心に感情を伝えます。しかし異言というのはエクスタシー、霊的恍惚状態に入った人が、何の変化もない理解不明な奇声をあげるだけなので、異言を語る人は満足だったとしても、教会を造り上げることに繋がらないのです。パウロは異言を外国語になぞらえます。そして、外国語は通訳を介して他の人にも理解可能になるように、異言も解釈が必要だと言うのです。
パウロは教会で異言を語ることは慎むべきだと言ったのかというと、そうではありませんでした。異言を語ることを禁止してはならないと明言しています。ただし、異言は必ず解釈されて、みんなにわかる言葉で伝えられることが必要だと言って、解釈の必要性を強調します。

さて、今日の説教の題である「教会に来て間もない人」というのは16節に出てまいりますところからとりました。この「教会に来て間もない人」という言葉は14章16節と並んで、14章23、24節に出てくるときは、「信者でない人」、クリスチャンでない人と組み合わせて使われています。23節を注意深く読むと、「教会に来て間もない人」は「あなたがた」すなわち、教会全体で集まり皆が異言を語っている「あなたがた」とは別の人、「あなたがた」の中には入っていない、外部の人であること、要するにクリスチャンではない人を意味していることがわかります。

16節でパウロは、そのような人にとって、教会の中にいる人たちが霊で唱える賛美の祈りに、心から「アーメン」と唱えることができないということを問題にしています。ここで、パウロが問題にしているのは、賛美の祈りであれ、それが異言に等しいと言うこと、聞いている他の人にとって理解できない、それゆえ、ともに「アーメン」と唱えることができない、それは11節で言われているような外国語に等しいと言うことです。

私たちの教会では異言が語られることはありません。でも、語られているのは日本語であり外国語ではなかったとしても、教会の外の人にとって、まるで理解できない言葉が教会で語られるなら、パウロがここで問題としているのと同じことが言えるのだと思います。

たとえば、私たちは今朝も礼拝で、こう語られるのを聞きました。「復活の主は、今朝もこの礼拝に生きて現臨しておられます」。
これを聞いて心から「ああそうだ、アーメン」と唱える人ばかりではないでしょう。それが理解できない人がいると思います。教会の外の人、その言葉が理解できない、その言葉が異言のような外国語としてしか耳に響かない人がいるのです。それが「教会に来て間もない人」だと言えるでしょう。

キリスト教の信仰を短く言い表した文章に使徒信条があります。この使徒信条を教会の中ではみなが心を込めて「アーメン」と唱えますが、教会の外の人はそうはできないのです。それはわかる言葉ではないからです。

それならば、異言が解釈されることによって、わかる言葉となり、「啓示、知識、預言、教え」の言葉となって役立てられるように、また外国語が通訳されることによって理解されるように、教会に来て間もない人や、教会の外の人々にわかる言葉に解釈され、翻訳されることは可能なのでしょうか。

異言を解釈することが可能だったように、また外国語を通訳することが可能なように、教会で語られている言葉を、教会に来て間もない人たちが理解できる言葉に置き換えることは可能です。

パウロは10節で「世に色々な種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません」と言います。世界に一体何種類の異なった言語があるのでしょうか。でもその言語の中で意味不明な言語は一つもありません。どの民族も固有の言葉を持っています。そして、それらの間で、互いの言語に置き換えて理解し合うことができます。

少し話がずれてしまいますが、動物の世界には言葉があるのでしょうか。ドリトル先生の物語は、動物の世界に言葉があって、それが理解できるドリトル先生、またそれゆえ動物に語りかけることのできるドリトル先生が動物たちから愛と尊敬を受ける物語です。ドリトル先生の物語を荒唐無稽とおもうにせよ、外国人が私たちの理解できない言葉を使い、私たちが外国人に語りかけることができないからと言って、外国人にはそれぞれ固有の言語があることを否定することは偏見です。外国人を英語でBarbarians 野蛮人と呼ぶのは、訳のわからない言葉をバーバーとわめく人たちという偏見を表しています。しかし、この世界に訳のわからない言語を話す人など一人もいないのです。

ところで、教会に来て間もない人にとって教会の言葉が外国語のように聞こえたからと言って、この人たちがそもそも知識のない、幼稚な、一から教育しなければならない人であるかのように思うなら、それは外国人があたかも言葉を持たないと頭から決めつけるようなものです。確かに、外国人は私が用いている言葉は知らない、しかし、だからと言って言葉を知らないのでは決してありません。それと同じで、教会に来て間もない人は、教会の言葉がわからないからと言って、言葉を持たないのでは決してなくて、教会の言葉を置き換えて、それを理解する言葉を持っています。必要なのは通訳なのです。教会の言葉をわかる言葉に置き換える解釈なのです。

先週、九州中会の修養会がコロナのために最初計画されていた2020年5月から一年4ヶ月遅れてでしたが、開かれました。そこで講師の久野牧先生は、教会の少数者であることと、その少数者である教会が世界全体に対して福音を語ってゆく使命と責任があるということを話されました。日本で言えば、クリスチャンはたった1%ですが、99%のすべての日本人に伝道する使命があるということです。
でも、1%の教会、そこで語られている言葉は残りの99%の人々にとってわかる言葉なのでしょうか。確かに教会の言葉が外の人々にとって異言にとどまっているなら伝道の可能性はないでしょう。また、そもそも教会の言葉は日本人の大多数にとって理解不能な言葉であるなら、それもまた伝道はできないでしょう。
先ほどもキリスト教の信仰を短く言い表した使徒信条について、教会の中ではみなが心を込めて「アーメン」と唱えても、教会の外の人は「アーメン」と唱えることができないと申しました。しかし、教会の外の人はその内容を心から理解して「アーメン」と唱えることができないのでしょうか。そうではありません。それは理解できる言葉に置き換えて「アーメン」と唱えることができる言葉です。必要なのは聖霊による解釈する賜物です。そして、何より追い求めなければならないのは愛の賜物です。

最後に問いたいことがあります。私は、私たちは教会の古株の信者なのか、それとも「教会に来て間もない人」なのか。
最初に説明すべきだったかもしれませんが、今日の説教の題として選んだ「教会に来て間もない人」という言葉は、ギリシャ語のイディオテースという原語のかなり意訳した翻訳なのです。ギリシャ語のイディオテースというのは、もともと公務員のような公の役職を持つ人間、公人の反対語で、一般人、私人を指す言葉でした。ですから、教会におけるイディオテースとは誰のことかと言えば、牧師、長老、執事といった公の務めについていない平信徒がイディオテースです。
イディオテースというこの言葉はプロに対するアマチュア、玄人に対する素人という意味も持つようになります。コリント第二の手紙11章6節でパウロが自分のことを「たとえ、話しぶりは素人でも、知識はそうではない」と語る時の「素人」がギリシャ語ではイディオテースとなっています。
そこから古株の古参の人に対する新参者、ニューカマーという意味でも使われるようになって、今日の箇所では「教会に来て間もない人」と訳されるようになった訳です。
私は、私たちは、古くからの信者、教会の古株でしょうか、それとも教会に来て間もない人、イディオテースでしょうか。
たとえ、教会生活が100年に及んだとしても、キリスト教会の2000年の長きに渡る歴史に照らせば、私たちは新参者に過ぎないと思います。
それだけではありません。もっと本質的な意味で私たちは新参者、イディオテースなのです。ギリシャ語のイディオテースがパウロ書簡以外で用いられているのは使徒言行録4章13節です。ペトロとヨハネはユダヤ人の最高法院に呼び出されて尋問を受けました。居並ぶ議員たち、祭司長、律法学者、長老を前にして、臆することなく、聖霊に満たされて大胆に語った使徒を見て、指導者である議員たちは、彼らが無学な普通の人であることを知って驚いたとある、この「普通の人」がイディオテースなのです。「無学な」とあるのは、律法学者としての正規の教育、訓練を受けた人ではない、学問のない人ということです。
「無学な普通の人」と呼ばれたのは使徒たちだけではありませんでした。主イエスもまた、ファリサイ派の律法学者たちのように権威ある律法学者について学んでいない、ただの人、イディオテースと呼ばれたのです。

主イエスはご自身、世の初めからいます方として、最初の方でありながら、わたしたちを神の家である教会に招き入れるために、最後のもの、イディオテースとなられます。私たちのうち、誰一人として神の家に来て間もない人でない人はいません。私たち全員が教会に来て間もない人であり、イディオテースなのです。それゆえ、お互いに、お互いがわかる言葉で語り合うことを追い求めましょう。そして、99%の人々とともに歩む歩みを目指しましょう。

父と子と聖霊に御名によって。