聖日礼拝 『愛を追い求めなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書40章27~31節
新約聖書 コリントの信徒への手紙(1)14章1~5節


『愛を追い求めなさい』
わたしたちの礼拝では、祈り、賛美、説教がなされています。わたしたちの日本キリスト教会ではほとんどありませんけれど、別の教派の教会では、説教と並んで証がなされることがあります。今日読んでいるコリントの教会では、わたしたちの教会における説教に当たるものとしては、異言と預言があったことがわかります。預言というのは、今日の説教とほぼ同じものだと考えて良いと思います。それは聞いている人たちが理解できる言葉で語られていました。しかし、それ以外にも、先ほど申しましたように説教と並んで証がある教会があるように、コリント教会では、預言と並んで異言というのがあったというのです。

異言、わたしたちにほとんど馴染みがないこの異言というのは何だったのでしょうか。それは2節に「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」と書かれているように、語る人が霊的恍惚状態に陥って、聞いている人にはその人が何を言っているのかわからない、意味不明な言葉が語られるというもの、それが異言でした。

パウロは今日読んでいる箇所の結論として、5節で「あなたがた皆が異言を語れるに越したことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。」とコリントの教会の人々に、異言ではなく預言の賜物を熱心に求めるよう勧めます。

異言に馴染みのない私たちにはコリント教会では、異言を語ることの方が預言すること以上に重視されていたと聞いて、不思議に思いますし、理解しがたいのですが、パウロは、異言を語ることを教会における様々な聖霊の働きの一つ、聖霊の賜物の一つに数え上げています。またパウロ自身が18節でこうも言っているのです。「わたしは、あなたがたのだれよりも多く異言を語れることを、神に感謝します。」
パウロは異言が聖霊の賜物であることを認め、それを否定はしません。ですからコリント教会の人たちが異言を重んじることを真っ向から否定するわけではありませんでした。しかし、誰よりも多く異言が語れるというパウロが、教会では一万語の異言を語るよりも、たった5つの言葉を相手のわかる言葉で語りたいと言うのです。すなわち、教会では異言よりも預言を追い求めるべきだと言うのです。

その理由はなんでしょうか。それは4節においてこう言われています。「異言を語るものは自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」
異言は「人に向かってではなく、神に向かって語られ」、それゆえ、聞いている人にはわからない、理解できないのです。人に恵みや利益をもたらすことはない、あるとすればそれは異言を語る本人にとっての益であり、恵みに過ぎない。それに対して、預言は人に向かって語られ、人を励まし、慰めると言われています。預言は人に益と恵みをもたらすのです。
要するに、異言は自分を造り上げる、それに対して、預言は人を造り上げる。その異言と預言と、どちらが神の前でも、人の前でも重要なのかと言うことです。
パウロは14章の冒頭で「愛を追い求めなさい」と言います。愛とはなんでしょうか。自分の益ではなく、人の益を追い求めること、自分を造り上げるのではなく、人を造り上げること、それが愛ではないでしょうか。パウロは教会において一番大きい賜物は愛である、愛をこそ追い求めなさいと言うのですから、当然、異言よりも預言が優っていると言うことになります。

自分の益よりも人の益を追い求めること、自分を造り上げるのではなく、人を造り上げることを追い求める、そのような愛の生き方は、主イエスの生き方に他なりません。主イエスはマルコによる福音書10章42節以下で次のように教えておられます。その聖書の箇所を一緒に開いて読みましょう。

皆さん、今日のパウロの言葉を、自分自身を顧みながら、もう一度噛みしめてみましょう。4節です。自分を造り上げることと、教会、つまり自分以外の他の人を造り上げること、そのどちらを私は優先し、どちらを追い求め、どちらを喜んで生きているだろうかと言うことです。

「自分を造り上げる」というところを、ためしに「自分の教会を造り上げる」という風に言い換えてみたらどうでしょうか。自分の教会の人数が多くなり、自分の教会の会堂が立派になり、自分の教会の信仰が成長することと、他の教会の人数が多くなり、その教会の会堂が立派になり、その教会が信仰的に成長することを比較したときに、自分の教会のことよりも他の教会のことを、果たして私は優先させようとするだろうかと問うたなら、なんと答えますか。やはり、自分の教会のこと、私が所属している教会のことを、他の教会のことよりも優先させるのではないでしょうか。

アメリカの黒人の人権のために戦いである公民権運動の指導者だったマルチン・ルーサー・キング牧師は、1968年に暗殺され、暴徒の凶弾に倒れたましたが、その死の半年前に、自分の死を予見するような説教を先ほど引用したマルコ福音書10章42節以下によってしました。その説教を紹介したいと思います。

主イエスの弟子であるヤコブとヨハネが、自分たちを先頭に立たせて欲しいと願いました。私たちもヤコブとヨハネと同じように、皆、一番になりたい、誰もが先頭に立ってみんなを引っ張ってゆきたいと言う願いを本能的に持っています。イエス様はそれを捨てなさいと言われるのでしょうか。いいえ、そうではありません。イエス様は私たちに、それを捨てるのでなくて、持ち続けなさいと言われるのです。それは正しく用いるなら良いものだからです。一番になりたいと思い続けなさい。ただ、わたしはあなたが愛において一番であってほしいと思います。道徳的に卓越した人として一番であってほしい。寛大さにおいて一番であってほしい。わたしはあなたにそれを願います。

このように述べた後で、キング牧師は自分が人生の終わりの日を迎えることがあったら、自分の葬式をどのような葬式にしてほしいかを語ります。

長時間の葬儀にはしないでほしい。弔辞を述べる人がいるなら弔辞は長くしないでほしい。わたしがノーベル賞を受賞したことなど言わないようにしてほしい、それは少しも重要でないから。どこの大学を出たかなど、学歴についても触れないでいい。それも大事なことではないから。わたしの葬儀で語るとしたら、語ってほしいことがある。語るとしたら、マルチン・ルーサー・キングは人々に仕えるために命を捧げようとしたと言ってほしい。マルチン・ルーサー・キングは、誰かを愛そうとしたと語ってほしい。マルチン・ルーサー・キングは、戦争の問題に正しく向き合おうとした、空腹な人々に食べさせてあげようとした、裸の人に着せようとした、獄に囚われている囚人を訪ねようとしたと言ってほしい。彼は、人間を愛し、人間に仕えようとしたと言ってほしい。然り。わたしが先頭に立つ人間だったとしたら、正義のために一番先頭に立った、平和のために先頭に立ったと言ってほしい。

パウロは言います。「あなた方はわたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(2コリント8:9)
主イエスは私たちを愛するために先頭に立たれました。私たちを豊かにするために先頭に立って、ご自身のすべてを私たちにお与えになられました。その主の貧しさによって私たちを富ませてくださいました。その主に倣って、わたしたちも兄弟を愛する愛において、先頭に立つものたちにならせていただきましょう。
マルチン・ルーサー・キング牧師が言ったのと同じことを、私たちも自分の生涯が終わるときに語られることを願いましょう。
私がこの世を去るときには、彼は、彼女は、人々に仕えるために命を捧げようとした。誰かを愛そうとした。戦争の問題に正しく向き合おうとした、空腹な人々に食べさせてあげようとした、裸の人に着せようとした、獄に囚われている囚人を訪ねようとした。彼は、彼女は、人間を愛し、人間に仕えようとした。正義のために一番先頭に立った、平和のために先頭に立ったと、言ってほしい。
私たちにそのような願いを与えてくださったことこそ、主イエスが私たちにくださった最大の恵みなのです。

父と子と聖霊の御名によって。