聖日礼拝『神を畏れ、皇帝を敬いなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇146編1〜10節
新約聖書 ペトロの手紙(一)2章11〜17節


『神を畏れ、皇帝を敬いなさい』

旅人、寄留者への勧め
外国を旅行しているときに、盗難にあったなら、どうされるでしょうか。現地の警察に行って被害を届けないでしょうか。また長期間、海外のどこかに滞在して、そこで仕事をし、家族の生活を営む場合、現地でなんらかの事件に巻き込まれたら、警察に通報するとか、必要なら裁判に訴えるということもしなければならなくなるのではないでしょうか。
ただ、そのとき、自分の滞在ビザの有効期限がもう切れていたら、警察に行ったらかえって自分が不法滞在者として捕まるかもしれません。
また、日頃から、自分の国とその滞在先の国の関係が悪くて、日常的にその国の公安警察などから自分が監視されているような場合は、その国の政府を信用できないかも知れません。そんな国で裁判をしても、果たして望むような裁判をしてもらえるのか、迷うのではないかと思います。

今日わたしたちが読んでいるペトロの手紙において、皇帝や総督に服従しなさいと勧められているのは、11節で「愛する人たち」と呼びかけられている人です。この人々は「いわば旅人であり、仮住まいの身ですから」とありますが、手紙の受け取り手であるこれらの人々というのは、手紙の冒頭で、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と言われている人々のことです。すなわち今日のトルコの各地に散らばって住んでいたクリスチャンに向けてこの手紙は書かれたのでした。そして、当時、この地域を統治していたのはローマ帝国であり、その支配者であるローマ皇帝や、皇帝の派遣した総督に服従することがここで勧められていたのです。

これらの、その土地にいわば外国人のように滞在しているクリスチャンにとって、ローマ皇帝やローマの総督は親しみを覚える、信頼できる存在だったのか、それとも怖い存在だったのか。先ほどお話ししたように、何か困ったことがあった時には助けを求めて安心して駆けこめる親切なお巡りさんのいる交番のような存在だったのか、それとも、一歩間違えば、二度と出て来られないようなところに自分を監禁しかねない恐ろしいところだったのでしょうか。

統治者である皇帝や総督に服従しなさい
聖書はここでなんと言っているでしょうか。ローマの皇帝や総督を警戒しなさい、彼らを信用してはいけない、彼らから出来るだけ遠ざかりなさい、彼らに関係しないようにしなさいとは言いませんでした。皇帝であろうと、総督であろうと服従しなさいと勧めます。
どのような理由からそう勧めるのでしょうか。
まず、皇帝や総督は「悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために」存在しているというのがその理由です。例えば、パウロがあちこちで伝道したとき、彼はユダヤ人から妨害されたり、あるいは町に住む異邦人である住民たちから暴行を受けそうになったことが幾度もありました。そのとき、その地方の役人や高官がパウロの身をユダヤ人や異邦人の暴徒から守ったことがありました。
パウロをはじめ初代教会のクリスチャンたちは、裁判に訴えられるような悪事、殺人、強盗、詐欺などの犯罪は一つも犯していませんでした。むしろ、周りの異教徒と呼ばれる人々から賞賛を受けるような良い行い、立派な生活を送ろうと努めていました。そのようなクリスチャンにとって、皇帝や総督が、善悪を判定し、正義にかなう裁判を行い、悪を罰し、善を賞賛する存在であるなら、何ら恐るべき存在ではなかったはずです。皇帝や総督も、クリスチャンのありのままの姿を見たら、クリスチャンを認めてくれる、クリスチャンの味方でこそあれ、敵ではないはずだからです。

さらに13節の言葉を掘り下げて読むとき、クリスチャンが皇帝や総督に積極的に服従することこそ勧められるべきことであって、それが必要悪として、いやいや、しぶしぶ、消極的に服従することが勧められるのではない理由が明確に浮かび上がってきます。
まず、ここではクリスチャンが服従する相手、対象が「すべて人間の立てた制度」と言われています。これは原文では人間の被造物 human creature という言葉です。その被造物 creatureという言葉を多くの聖書は、human institution 人間の立てた制度と翻訳しています。それは、この被造物を目的ととって、人間によって造られたもの、すなわち制度institutionととったわけです。でも、ここを人間という被造物という風に同格として受け取る聖書の訳もあります。いずれにせよ服従すべき皇帝や総督が、制度としてであれ、人物としてであれ、神から創造された被造物だということには変わりはないことになります。
そして、その点はとても重要だと思います。なぜなら、服従する相手である皇帝や総督は、神によって創造された被造物として、服従するわたしと同格だということを意味するからです。わたしたちと皇帝や総督は、神の被造物として対等であり、平等です。わたしたちは皇帝や総督といった統治者の前で卑屈になったり、必要以上に自分を卑下する必要はないのです。皇帝や総督の前に立つわたしたちの良心は自由なのです。

そのようなわたしたちの自由な良心を根底から支えるのは、13節の冒頭にある「主のために」という言葉です。すなわち、わたしたちの服従が「主のために」服従する服従であるということです。それはどういうことかと言うならば、主イエス・キリストがそうなさったから、すなわち、主イエスが地上の権威に対して低くなって服従なさったから、そのキリストに倣うために、わたしたちは皇帝や総督に服従すると言う意味です。
主イエスは言われました。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために」この世に来た。王の王、主の主であられるお方は、地上に人として来られたとき、地上の王たちの前に服従し、彼らに仕えるしもべとなられました。このお方は、すべての人の前で、最後の夜、弟子たちの足下に、身を屈めてその足を洗われたように、僕となられたのです。

本来、地上の王たちがその頭を飾る王冠を脱いで、それを捧げるべき神の御子が、自らを低くして王たちに服従したと言うことが持つ、この驚くような、根底的な逆転をどう理解したらよいでしょう。
みなさん、例えば、みなさんが教師として教壇に立つとして、生徒の席に、みなさんの心から尊敬する恩師が座ったら、みなさんはどんな授業をなさるでしょうか。

イエス・キリストが皇帝や総督に対して服従されるとき、また、わたしたちがクリスチャンとして統治者に服従するとき、それによってわたしたちのうちに聖霊によって住んでくださるイエス・キリスト、わたしたちのうちに生きていてくださる主ご自身が地上の皇帝や総督に服従し、彼らによって裁かれるときに、何が起こるのでしょうか。そのとき、皇帝も総督も、善を善と認め、悪を悪として裁くことができるだけです。もしそれに失敗するなら、裁かれるのはだれでしょうか? 皇帝や総督です。

17節は心に刻むべきみ言葉です。この4つのフレーズは最初と最後が対応しています。すべての人を敬いなさい、皇帝をも敬いなさい。そして、真ん中の二つの、兄弟を愛し、神を畏れなさいというのは、神を愛し、互いに愛し合うということです。外側の、皇帝を含むすべての人を敬うこと、それと内側の神と兄弟を愛することは区別されます。

すべての人というのは、宗教の違い、男女の違い、文化、民族などあらゆる違いにも関わらず、それらがすべて神の被造物であるゆえに、お互いを敬うこと、尊重することです。それが正義であり、善です。そうしないことは悪です。神の被造物である他者を無視するなら、それは自分自身を無視することになります。同じく神によって創造されたもの同士であるのに、相手を軽蔑するなら、それは自分自身を蔑むことです。それは正義に反することです。
それに対して、神を畏れ、兄弟を愛することは、互いに愛し合い、生かし合うことです。同じ命を共有し合うことです。神はわたしたちを愛され、命を与えてくださいます。

外側と内側の区別、違いは何でしょうか。皇帝はわたしたちを助けることはできますが、わたしたちを愛したり、わたしたちに命を与えることはできません。それゆえ、わたしたちは神を愛するように、皇帝を愛することはしません。神はわたしたちを愛されるので、わたしたちは神を愛しますが、皇帝はわたしたちを愛することはしないし、それゆえ、わたしたちも皇帝を愛すのではなく、わたしたちと同じ神の被造物として敬うのです。神は創造主であり、救い主ですが、皇帝は神の被造物であり、人間にすぎません。カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさいと言われた主イエスのお言葉は、わたしたちに神に対するカイザルの限界を教えています。

わたしたちが神に愛され、神を愛し、兄弟として互いに愛し合うことが世界の目的です。皇帝や総督はそれに奉仕する僕にすぎません。その限りで、わたしたちは皇帝を敬い、彼らに服従します。わたしたちが静かで幸いな生活をこの世で送るために、神は彼らをご自身の僕としてわたしたちのためにお与えくださったからです。

父と子と聖霊の御名によって