聖日礼拝「空っぽの墓から始まる希望」
説  教     崔 炳一 牧師
旧約聖書  詩篇 16篇 7〜11節
新約聖書  ヨハネによる福音書 20章 1〜10節

イースターの後の第一聖日を迎えました。主にあって兄弟姉妹の皆さんとともに、こうして御ことばに預かる恵みを感謝いたします。「同伴の霊性」によって信仰が強められ、喜びのうちにこの一週間を過ごしてこられたことと思います。その喜びと感謝が、たとえば「おはようございます」とか、あるいは「主の平和」という挨拶を交わすときに、伝えられることを願いましょう。きっと主なる神さまがさらなる信仰の世界へと導いてくださるはずでしょう。

さて、皆さんへの問いですが、もし、主イエスの復活の証拠を挙げてほしいと言われたら、どう答えるのでしょうか。聖書がそれを伝えているよ。これまで長い歴史の中で世界のあらゆる国の人々がそれを信じ、祝い、伝えてきた。それで尽きるのではないか。また、聖書は世界の歴史の中で一流の古典。いわば古典の古典である。歴史的な書物。聖書がそれを伝えているから、否定できない事実であろう。こういうふうに答えるかもしれません。しかし、よく考えてみれば、否定できないから信じるべきだという考え方は、少し不自然ではないでしょうか。また、信仰とは義務で受け入れるものでもありません。信じることには主観的な決断、あるいは自由意志による決断が伴うというゆえんです。

今日、私たちはヨハネによる福音書20:1-10が与えられております。この個所は聖書が主イエス・キリストの復活の証拠として挙げている箇所です。それが「空のお墓」であってそこには、「イエスの遺体はなかった」ということ、そして「空のお墓」を「目撃していた人々が数人いた」ということです。聖書は確かな証拠をもって主イエス・キリストの復活を伝えています。主イエスは確かに死んだ。それを目撃していた人々がいる。それは主イエスに従っていた人々のみならず、ローマの兵士たちも知っていることである。そして墓の入口を大きな石で塞いでいた。兵士たちが番をしていた。

にもかかわらず、主イエスの遺体は見当たらない。遺体の不在が復活。主イエスの遺体の不在は希望である。言い換えれば、遺体のままのイエスがお墓に実在し続けている限り、そこから生きる希望は生まれてきません。証拠があるから信じろという公式ではなく、不在という証拠が希望を生みだすゆえに、信じるべきではないか、それが光であるということを伝えるのだと思います。

今日の聖書個所の物語は、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れる場面から始まるのです。1節です。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」。「まだ暗いうちに」とあるように、マリアは安息日が終わった翌朝、つまり日曜日の朝、非常に早い時間に主イエスの墓に行ったのです。ちなみにマタイは「夜が明けて」と言い、マルコは「日の出のころ」と言います。ヨハネが「まだ暗い」という点を強調していることが分かります。これは物理的な時刻、つまり夜明けの前であるが、マリアの心理的かつ信仰の状態がもっとも深い闇の中にいたことを示すと思います。

実はマグダラのマリアは、悪霊にとりつかれて救いを必要とした女性でした。ルカによる福音書8:2です。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と紹介されています。彼女は主イエスに癒された女性でした。この救いは、彼女の人生の方向を決定付けました。主イエスに最後まで従い、その十字架の死を見届けたマグダラのマリア。彼女は週の初めの日、悲しみの中で墓を訪れたのです。それは、ずっと慕っていた先生との最期のお別れという熱心さ、また行き先が見えない絶望感、せめて遺体に寄り添いたいという想いでした。それが彼女をして「まだ暗いうちに」にお墓に向かわせたのでありましょう。それは復活を信じて、その出来事への確認のためではなかったです。

それゆえ彼女は空のお墓をみて、「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)と、主イエスの遺体が盗難されたと思い込み、喜びの知らせを悲しく伝えたのです。これは、暗闇の中でさらに追い打ちをかけるような人間の嘆きだと言えます。彼女の心はますます深い闇の中に陥れられたのではないでしょうか。復活を遺体の盗難という悲しみとして受け止める。神さまの大いなる計画に気づけないとき、私たちは光の中にいながらも、心から闇を追い出すことができません。むしろ、底の見えない暗闇へと自分から足を踏み入れてしまうのではないでしょうか。真実を真実として受け止められず、神は死んだと思い込み、自分からキリストとの信頼と交わりを断ち切ってしまうのです。そのような、私たちの罪深い姿をそこに覗き見る思いがします。福音、すなわち喜びのお知らせを悲しいお知らせに変えて伝えるのです。

マリアの報告を聞いたペトロとヨハネは、驚きのあまり思わず駆け出しました。当時、ユダヤ社会では、遺体を尊厳する習慣がありました。また、墓荒らしや遺体の紛失は重大な冒涜と考えていたのです。遺体を盗むという犯罪がよくあったのです。クラウディウス皇帝(41―54年)は、墓荒らしや遺体を盗むこと、墓の石を取り除けることやそういうことをした人を死刑にするという勅令を出すほどでした。クラウディウス帝は、使徒言行録18:2にあるように、ユダヤ人をローマから退去させるという命令を出した人物であります。「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った」(3節)とあるが、こういう背景による疾走だと考えられます。しかし、それは同時に主イエスの身に何が起こったのかという不安、つまり焦燥感です。そしてマリアの報告が信じがたいものであったため、真実を確かめたい強い意志でもあります。

ところが、彼らが主イエスのお墓から確認したのは、遺体が盗まれたようなこととは全く異なる不自然さでした。6節と7節です。「シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」。整然と置かれた「亜麻布」と「頭を包んでいた覆い」を二人の弟子は目の当たりにしたのです。布が丁寧に畳まれているとの不自然なまでの秩序とは、神が沈黙のうちにキリストの復活を告げる、静かなメッセージだったのです。神は不自然なまでの秩序を用いて人知を超える出来事を行い、すべての不安を取り除き、信仰へと導くのです。そのときに人間は神の確かさの全貌をすぐには理解できないが、徐々にまことの信仰へと導かれるのです。

8-9節です。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。主イエスの復活を空のお墓をみて信じたのです。しかし、その信仰は主イエスが死から復活することを信じたのではないのです。たとえば、私たちは聖書の証言と学びを通して主の復活を信じるようになりました。そしてそれを告白しています。これを「教理的理解による信仰」と言えると思います。私たちが「教理」という言葉を聞くとき、息苦しい知識の枠組みを想像してしまうことがあります。ところが、本来の教理とは、私たちの信仰を異端の洪水や、個人の気まぐれな解釈の濁流から守り、神の恵みの川を正しい方向へと流し続けるためのダムのような役割を果たしています。「教理」とは洪水から守る防波堤であり、神の恵みを蓄えている貯水池であります。ゆえに「教理」とは命のダムのようなものです。キリストの復活を告白することがそういうものではないでしょうか。

しかし、このような確かな告白へと導かれるとき、その最初には何かが神の御手の中にあるということ、つまり自分という存在が神さまの御手の中に置かれているということ、人生に何かが起こっているが、それが神さまの顧みのうちに置かれているという直感のような信頼が働くのでしょう。それによって私たちは神さまの存在を認め、私の神さまと告白するように至るのです。求道者が信仰を求めるようになったとしましょう。洗礼を受けたい。願いを出すのです。どうしてですか?と聞くと、確かに言えない何かの確信があると答えるのです。

洗礼を受けてクリスチャンになった今、あの頃を振り返ると不思議な気持ちになります。当時は何の準備もしていませんでしたが、まるで何かに導かれていたような直感に従って、信仰の道へと歩みを進めていたように感じます。その直感こそが神さまの恵みであった。こうしたことは私たちにとっての共通の経験だと思います。そしてやがて私たちは、確かな信念をもって「イエス」は「キリストだ」と告白するのです。「見て、信じた」。信じたこととは、神さまの働きを認めたことです。驚きの伴う確信の第一歩が「見て、信じたこと」であります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。断片的な事実を目撃したが、それが聖書の約束に基づいた神さまの壮大な贖いの計画であることを、弟子たちは知らなかったのです。それは聖霊を受けることによって復活という事実とその体験が一つにつながるのです。

主イエスのお墓が空っぽであったことは、キリストが復活なさったことです。それは神さまの希望を物語る出来事です。神さまによる希望は、私たちを驚かせるのです。本当のことなのかと。また、それはその全貌をすぐには理解できないものであります。でも、何かが始まっており、何かのことが神さまの御手の中において起こっているという想いを持たせます。不確かさの中でも神さまへの信頼をもたらせ、自らが断ち切った人格的な愛と信頼の交わりを、回復を信じるようになります。そして新たな未知の世界へと赴かせるのです。その走りは不安に満ちた走りではなく、喜びと感謝に満ちた走りです。

主イエスの復活を人間は認知することができませんでした。墓から石が取りのけてあったことは、すでにキリストが復活した後のことです。私たちが自覚する前に、神さまの希望は始まっていたのです。知らないうちに私たちは恵みの中に置かれていたのです。それを確かに信じさせるのは聖霊の導きです。

さて、説教の最初にお尋ねした問いを覚えていますか? その答えは、実はもう目の前にあります。「主イエス・キリストが復活した証拠は何ですか?」と聞かれたら、どう答えればいいのでしょう。私たちは疑い深く、聖霊の助けがなければ救いを確信できないような、未熟な存在かもしれません。しかし、そんな「この私」が、今こうして復活を信じ、証人としてここに生きているのです。この事実こそが、キリストが復活された何よりの証拠なのではないでしょうか。このことを大胆に告白できるように、信仰の走りを全うしていくことを祈り願っていきたいと思います。