聖日礼拝 「今は闇が力を振るう時」
説  教        澤 正幸 応援教師
旧約聖書   詩篇 139篇 11節~12節
新約聖書   ルカによる福⾳書 22章 47~53節

47、48節

主イエスはオリーブ山のゲッセマネの園で祈っておられました。共にいた弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。主イエスが、弟子たちに目を覚まして祈りなさいと語っておられたとき、突然、イスカリオテのユダと彼に率いられた群衆がそこに現れました。そして、彼らは主イエスに手をかけて、逮捕しました。

この逮捕劇は白昼、人々の見ているところで起こったのではなく、夜の闇の中で起こりました。

今日読まれた聖書の最後で、主イエスを捕らえようとして押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに向かって主イエスは「今はあなたたちの時で、闇が力をふるっている」と言われましたが、主イエスの逮捕は、まさに闇の支配する中で起こりました。

1日の中に昼と夜があるように、歴史の中にも光が支配する時代と、闇が支配する時代があります。

平和と自由が当たり前だった光の支配する時代、それは昼のときですが、それが夜になってしまい、光ではなく闇が支配する時代に移り変わって、平和が失われ、自由が失われることがあります。日本の歴史でも大正デモクラシーと呼ばれた自由な大正が終わって、昭和になると、それからわずか10年で日本は軍国主義国家へと一変し、戦争の時代へと突入して行きました。

わたしたちは強盗に押入られたら、警察を呼ぶでしょう。警察が来て守ってくれる。安心と安全が保たれているのが光の支配する社会であり、時代です。しかし、その警察があの悪名高い特高警察の刑事だったら、それが、ある日、突然やってきて、何で逮捕されるかもわからないまま、家族が連行され、留置され、拷問されるような社会、そういう時代は、昼ではなく夜の時代、光ではなく闇の支配する社会です。

 

白昼なら、人々が見ているところではしないことを、夜の闇の中でなら闇に隠れてする。もしも警察や国家にその二面性があって、表に出ていることと、裏の世界で練られ、画策されていることが違っているとすれば、それは恐ろしい話ですが、表と裏の二面性を抱え持ちかねないのは、警察や国家だけでなく、わたしたち一人一人にもそれはあり得るのではないでしょうか。

そのことを、この夜の逮捕劇に登場する人たちについて、指摘できるように思います。闇の中で人々は、皆、表と裏の二面性を持って生きているのがわかります。

まず、イスカリオテのユダがそうでした。彼はこのとき、暗闇の中から突然、主イエスの前に姿を現しましたが、わずか2、3時間前までは主イエスや他の弟子たちと一緒に最後の晩餐の席についていたのでした。そこから姿を消したかと思ったら、再び姿を現したときには、彼の後ろには祭司長たちから送られた手勢が控え、彼はその先頭に立っていました。

ユダは接吻しようとして主イエスに近づきます。この接吻は親しいもの同士の挨拶、あるいは相手に対する尊敬や親愛の情を表す行為でした。日本人なら、丁寧なお辞儀をするか、親しみを込めて握手をするようなものです。でもこの時のユダの接吻はうわべだけで、心の中は別でした。

主イエスは言われます。「ユダよ、あなたは接吻で人の子を売り渡すのか」。

祭司長たちからお金を受け取って、主イエスを裏切りながら、親密さを装って主イエスに接吻しようとして近づくユダの姿は卑劣極まりないものです。

表と裏が違うこと、これは偽りです。闇の支配するところには、真理はなく偽りしかありません。光はその偽りを明るみに出します。

主イエスを逮捕した祭司長、神殿守衛長、長老たちにも、表と裏の二面性があったと思います。彼らは、白昼、主イエスが神殿で教えておられたとき、主イエスを逮捕しませんでした。主イエスの教えに熱心に耳をかたむける群衆が主イエスを囲んでおり、主イエスに手をかければ、群衆が黙ってそれを許すはずがなかったからです。

それで、彼らは群衆のいない夜、人気のない場所と時間を狙おうとしました。運良く、主イエスの側近である12弟子の一人ユダが協力を申し出たので、ユダを利用して、ユダに主イエスを裏切らせ、主イエスの身柄を引き渡させました。

ユダの行為も卑劣でしたが、指導者たちのこのたくらみも白昼、人々の目に触れるところではできない、明るみに出せない、闇のわざでした。昼間だったらしないこと、できないことを夜の闇に乗じてしている彼らには、隠れたことをも見ておられる神に対する恐れがありません。

先ほど読まれた詩編139編の御言葉をもう一度読みます。(旧約979ページ)

49〜51節

主イエスを捕らえようとした祭司長たち、またその手引きをしたユダに偽りがあったこと、表と裏の二面性を抱えていたことを見ましたが、次に、ユダに手引きされた追っ手の群衆から主イエスを守ろうとした人たちがいました。その中の一人は剣で大祭司の手下に斬りかかり、その右の耳を切り落とします。ヨハネ福音書ではそれはペトロだったとありますが、主イエスが逮捕された、闇が支配するこの場に、主イエスと共にいた人々、この人たちはどうだったのでしょうか。この人たちにも表と裏の二面性があったか、なかったか。闇の中で、このあとペトロは主イエスを三度知らないと言ってつまずきました。主イエスを守ろうとした人々にも闇の支配が及んで、彼らもまたその闇の中で真理からそれて、偽りに陥らせられるサタンの試みにさらされていたと思います。

主イエスは剣を抜いた人に向かって、「もうそれでやめなさい」と言って、制止なさり、その僕の耳を癒されました。

このとき主イエスを襲った敵の手から主イエスを守ろうとしたことは、正当防衛というか、日本で今日言われる自衛権の発動で、悪の力に対する抵抗として容認されて良いことではないでしょうか。

主イエスはそれを部分的に容認されるのでしょうか、それとも全面的に禁止なさるのでしょうか。この短いやり取りの中から、悪の力に抵抗すること、日本の国が自衛権を行使することを主イエスが認められるかどうかを読み取ることはできないと思います。

それはできないのですが、わたしはここに、先にユダについてみた、またユダヤ人の指導者たちにもみた、闇に包まれた人間の姿、それは私たち自身の姿でもあると思いますが、それがここに示されているように思います。

主イエスを守ろうとして剣を抜いた人の行為が、自衛権の行使であると主張しようが、正当防衛だと言って正当化しようが、剣を抜いて実力行使をすること自体、今日の敵基地先制攻撃の考えと五十歩百歩で大差がなく、際限のない武力行使に発展してしまうことは、考えればすぐにわかることです。

主イエスの時代、ユダヤにはローマ帝国の植民地支配に抵抗し、ローマからの独立を目指して武力闘争をする人々がいました。熱心党と呼ばれる人たちです。彼らが熱心党と呼ばれるのは、彼らの信仰の熱心さゆえでした。自分たちの主は神のみである。神以外のものが、ユダヤ人を支配することは認めない。ローマへの税金も払うことを拒否する。神以外のものがユダヤ人を支配しようとするなら、あらゆる犠牲を払って抵抗する、自分の命はもちろん、そのためなら同じユダヤ人の命や財産を犠牲にすることも辞さない。今日のイスラムの過激派、テロリストに似ています。

この熱心党の人たちはローマ軍から、また親ローマのユダヤ人から強盗と呼ばれました。このときユダヤ人の指導者たちは主イエスが強盗の一人、熱心党だと言って、ローマ総督ピラトに訴え出ようとしていたのでした。

熱心党の考え方と主イエスの考えが違うことは、はっきりしています。ユダヤ人の指導者たちは主イエスが強盗、すなわち武装してローマに抵抗する熱心党であるかのように、剣や棍棒で武装して主イエスを捕らえようとしてやってきましたが、それはまったく無意味なことでした。主イエスは武装してローマに抵抗する熱心党ではないのです。熱心党の神はイエス・キリストの神ではありません。「神は偉大なり」と叫んでニューヨークの世界貿易センターに飛行機で飛び込んで自爆し、罪もない多くの人々の命を奪うテロリストと主イエスは何の関わりもありません。

熱心党の道は「剣を取るものは皆、剣で滅びる」と言われる通り、自滅の道です。主イエスはそれをきっぱりと退けられます。今日の核兵器の使用も辞さないという軍事大国の考え方が行き着くところも熱心党や過激派と根本的に同じ、破滅だと思います。

主イエスが傷ついた大祭司の僕を癒されたことは、わたしたちが、また人類が、闇の中で互いに互いを敵として傷つけ合うことから、すべての人を救われる主イエスの姿を示しています。

主イエスが逮捕されたこの夜、闇の支配、サタンの支配がこの場を覆っていました。その闇に包まれ、闇に覆われる中で、ユダは裏切り、指導者たちは主イエスを逮捕し、主イエスの周りの者たちは争い、互いに向かって剣をあげ、傷つけ合おうとしていました。そして、主イエスの弟子たちもまた、ある者たちは逃げ去り、一人ペトロだけが残って、主イエスの後から、遠く離れてついて行きましたが、そのシモン・ペトロも闇の中で主イエスを三度知らないといってしまいました。

しかし、闇が支配するこの場所で、主イエスはサタンの支配の手にご自身を渡されたのです。それは、わたしたちが先週の説教で聞いたように、人の子として罪人たちの手に引き渡されることが、主イエスが祈りを通して従順に聞き従った父なる神の御心だったからです。

御子をサタンと闇の支配の手に渡すこと、それが父なる神の御心でした。

しかし、なぜ、父なる神は御子を闇の支配、サタンの支配の手に渡されるのでしょうか。

それは、闇に支配されているわたしたちのためです。サタンの支配のもとにいるわたしたちを、救い出すためです。御子は、わたしたちが闇とサタンの力のもとにいるので、その私たちと同じところに立とうとされたのです。そこにおいて私たちを守り、そこから私たちを救い出すためです。それが父なる神の御心であるゆえに、御子はご自身を闇の支配とサタンの手に渡されたのです。

主イエスは闇が力を振るうところで、ご自身、光であることをやめないのです。闇の中で、光であることをやめないのです。闇の中に主イエスが入ってこられることによって、光が闇を照らし、闇の中にいるわたしたちを主イエスの光が照らすのです。

主イエスの光は私たちの偽りもわたしたちの隠れた罪も明るみに出し、それを指摘し、私たちを真理へと導き、罪の悔い改めと赦しを与えてくださいます。

わたしたちが闇の中で、互いに憎み合い、敵対し、血を流して、殺し合い、傷つけ合おうとするとき、主イエスはその闇の中から、わたしたちを平和と愛と命へと導き、自由な広い世界へと解き放ってくださいます。

主イエスがともにいてくださるとき、わたしたちは昼の光の中を歩くことができます。

その主イエスとともにいようと願うなら、ゲッセマネの園で神の御心に従うために汗を血のように滴らせて祈られた主イエスに倣って、主イエスとともに、わたしたちも目を覚まして、父の御心のままにと、祈らなければなりません

ゲッセマネの園で眠り込んだ弟子たちの姿は、闇の中で躓くわたしたち人間の姿を示しています。目を覚ましましょう。目を覚まして、主イエスがともにいてくださる光の中を歩むなら、わたしたちは闇に属すものではなく、光に属するものたちなのです。

主イエスを逮捕した指導者たちは、権威を持っていました。しかし、それは闇の支配、闇の権威でしかなかったのです。そのような黒い雲が頭上を覆う時代があります。しかし、黒い雲のうえには太陽が輝いています。病院で過ごす夜は、しばしば暗くて絶望的で、耐えられないほど長く思われます。しかし、朝とともにくらい病室に光がさします。

今も、暗い世界、闇の支配が世界中で力をふるっています。しかし、この闇の時代にも主イエスが私たちとともにいてくださいます。主イエスにあって、私たちは昼のわざを始めることができます。偽りではなく真理に生きること、絶望ではなく希望に生きること、戦争ではなく、愛と憐れみを持って互いに仕えあい、傷を癒すことを始めることができます。

父と子と聖霊の御名によって