聖日礼拝 「私の願いではなく、御心のままに」
説 教 伊藤健一 ⻑⽼
旧約聖書 詩篇 16章 5節~6節
新約聖書 ルカによる福⾳書 22章 39~46節
私たちは、これまでルカによる福音書から御言葉を聴き取り続けてきましたが、本日の礼拝のために与えられた箇所は、主イエスの人生におけるクライマックス、数時間後に十字架につけられようとしているときに、「汗が血の滴るように地面に落ち」るようにして、命がけで祈られた場面です。「ゲッセマネの祈り」と言われているところですが、ルカは、異邦人読者にとってさほど意味の無い情報としてその地名を記さず、ただ「オリーブ山」とだけ記しています。エルサレムは城壁で囲まれた狭い都市なので、裕福な人は町の外に庭園を持っていたようです。おそらく主イエスは知人の庭に入る許可をもらっていて、日常的にそこで祈っていたのでしょう。ルカによる福音書から浮かび上がる主イエスの姿は常に祈る人であり、一人離れて祈っておられる場面や、時には夜を徹して祈っておられたことが多く記されています。そうした祈りの中でも、このゲッセマネの祈りはとても重要な祈りであり、祈りとは何かを学ぶことができる重要なテキストだと言えます。因みに、ゲッセマネとは、「オリーブの絞り場」という意味で、オリーブ山の西側の、城壁に隣接した位置にある庭園です。オリーブは、聖書の中では聖霊の象徴として用いられます。主イエスは砕かれ、信じる者に聖霊を与えられるのです。
39~40節には、こう記されています。
39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
主イエスにとって、祈ることは日課でした。一日に一度、という日課ではありません。それこそ時間があるときには祈り続けるような日課でありました。「いつものように」から、そうしたことが感じ取られます。福音書には「はっきり言っておく」と訳されていることばが多くでてきますが、それは「アーメン」で、福音書には74箇所あるそうです。主イエスは特に重要なメッセージを伝えようとされるときにこのことばを用いられていますが、これは父なる神との対話を受けてアーメンと言われているのです。折に触れて、どころか、絶えず祈り続けられている、というべき状況だと言えます。そして「いつもの場所」、すなわちゲッセマネの園に着くと、そこで主イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのです。ここで言われている「誘惑」とはどういうことを指しているのでしょうか。
「誘惑」と訳されている「ペイラスモス」ということばは、「試練」、「試み」、「テスト」といった意味合いをもったことばです。「試練」という訳語を聞くと、モーセに率いられたイスラエルの民が、出エジプトの出来事の中で経験した試練、試みを思い起こすことができます。それではここで主イエスがこのことばで示そうとしておられることはどのようなことなのでしょうか。それは、これから主イエスが逮捕され、十字架につけられ処刑された時、神さまと主イエスから離れずにいることができるか、という試練、言い換えれば、主イエスを信じる信仰を持ち続けることができるか、ということだったのです。神さまと主イエスをどんな時も信じ、従っていくことができるか、という信仰のテストだったのです。この試練には祈りによってのみ勝利することができます。
弟子たちにそのように伝えた後、主イエスは距離を取り、祈られます。41~42節に注目しましょう。
41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
この箇所については、歴史的な疑問が提示されてきました。主イエスはお一人で弟子たちと離れたところに行かれ、そこで祈られました。その時まで一緒にいた弟子たちは、45節にあるように「悲しみの果てに眠り込んでいた」のです。だとすると、誰がどこで、この時の主イエスの祈り、所謂ゲッセマネの祈りを聞いていたのか、という疑問です。これについては、ルカ福音書の9章22節に書かれていることばがヒントになります。こう書かれています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」すなわち、私たちの罪を背負って十字架に就いて、完全な贖いを成し遂げるということですが、これこそが主イエスにとって最大の関心事に違いありません。このことは、主イエスがくり返し弟子たちに伝えておられたことでした。だからこそ、この最も重大な、もっとも厳しい祈りのテーマがこのことになっていたに違いないのです。
弟子たちと一緒にオリーブ山に行かれた主イエスは、弟子たちと少し距離を取り、一人で離れたところに行かれます。そこで父なる神へ祈られるのですが、イスラエルの人々は、通常は立って祈っていました。しかし、ここで主イエスは「ひざまずいて」祈られます。マルコでは「地にひれ伏し」て、またマタイでは「うつ伏せにな」って祈られたと記されています。いずれからも、尋常ならざる祈りであったこと、そしてきっと激しい自己主張をなさりたかったに違いないのに、それにもかかわらず、主イエスが神に対して徹底的な従順を貫かれたことがわかります。主は祈られます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ここで言われている「この杯」とは、主イエスがくり返し言われていた、さきほど引用したルカ福音書の9章22節を指していたことは明らかです。もう一度確認しましょう。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
私たちは、日本キリスト教会信仰告白の中で、主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人である、と告白します。そのことから、私たちは、主イエスはまことの神、すなわち三位一体の神の一つの位格なのだから、十字架に就くときも人間的な苦悩は一切無く、迷いなく父なる神の御心に従って十字架に就き、完全に父の御心どおりに一切の迷いなくご計画通りに復活された、と思い込んでしまうことはないでしょうか。私たちは、主イエスがまことの神であると同時にまことの人でもあることを決して忘れてはならないのだと思います。主イエスは、まことの人だからこそ、「人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて贖いをなしとげ」られたのです。だからこそ、その十字架にわたしたちの罪を完全に購う力があるのです。
人間イエスにとっては、十字架につけられて死ぬということはたいへんな恐怖だったのです。わたしたちと全く同様です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」そのことをよく理解し、繰り返しそのことを弟子たちに教え続け、ひたすら神の御心に従って行動してこられた主イエスであっても、いざ十字架への秒読みが始まってしまうと、その恐怖に苦しめられ、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈らざるを得なかった、それほどの恐怖だったのです。
私たちは、創世記22章に記された、アブラハムが息子イサクを生け贄として献げる物語をよく知っています。その時のアブラハムの心の状態はどうだったでしょうか。聖書はそのことには直接的には触れず、物語の中のアブラハムは淡々と神さまの命令に従って行動しています。しかしその心の中の状態は、葛藤などということばでは表現できないほど激しい激流が流れ、嵐が吹きすさぶかのような状況であったことでしょう。この時のイエスは、言わば神さまからイサクになれと命じられたような状況です。アブラハムの心の中に吹きすさんでいた嵐とまったく同様の心の嵐が体中にふきすさんでいたに違いありません。それでも、主イエスは、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られるのです。極限状況にあっても、主イエスにとって、父なる神への絶対的信頼、絶対的服従の姿勢は変わらないのです。
私たちは、毎週の礼拝において、あるいは日ごとの生活において、主の祈りを祈ります。主の祈りの中の第3の祈りとして、私たちは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈ります。このことばが記されているのはマタイによる福音書の6章10節、「山上の説教」と呼ばれる箇所の中にありますが、主イエスは、このことばを紹介されるときに、6章8節で、「あなたがたの父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ」と言われています。
主イエスは、人間イエスとして、杯を取りのけて欲しいと願い、他方、キリストとしては、神に対する全幅の信頼と服従を貫かれます。この2つのペルソナが1人のイエス・キリストの中で激しく競い合っていたのです。そんなとき、天から助けがもたらされました。次の箇所を見てみましょう。
〔 43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
この部分はルカだけに記された記事ですが、私たちの手許の聖書では、この43~44節はかぎかっこで区切られています。これは、後の時代の加筆であることを示しています。しかし、ルカ福音書の神学と矛盾しないことから、現在用いられている多くの聖書にそのまま残されています。
天使が現れたという文章が後代の加筆だと言われると、信用に価しないかのような印象を持ちますが、ルカは2章9節のクリスマスの記事の中で天使を登場させていますから、そのことに特に不自然さを感じる必要は無いと思います。むしろ、この極限状況での祈り、すなわち神さまとの対話の中で、主イエスは孤独な戦いを強いられているのではないのだ、助け主がいるのだ、というメッセージとして受け止めることができると思います。それでもこの闘い、この対話は苦悩に満ちたものだったはずです。「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されているとおりです。この対話、すなわち神との霊的闘いの中で、主イエスは人間としての思いに勝利し、その不安を克服し、神の御心に従う決意を確かにすることができました。どちらが勝利するか、どちらを勝たせるべきか、その結論は最初から決まっていたと言えます。主イエスはその結論を受けいれるために葛藤し、闘い、折り合いをつける努力をなさり、それを見事に解決なさいました。そのことを、祈りが終わって弟子たちのもとに戻られた主イエスの行動とことばから確認することができます。
45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
祈りを終えて弟子たちのもとに戻られた主イエスは、「この杯をわたしからとりのけてください」と願った方とは別の、ただ神の御心が行なわれることだけを祈り願う、より高い存在へと変わられました。しかし、主イエスが、このような激しい、血の汗を流すような苦悩の祈りと対話をなさっていた間、弟子たちは眠り込んでいたのでした。主イエスの最後の時が近づく中では、それも無理は無いかも知れませんが、40節で主イエスが言われていた「誘惑」に陥ってしまっていたことになります。この誘惑、すなわち信仰の試練、信仰のテストに勝利するための方法は、祈るしかなかったのです。それなのに、弟子たちは全く無力で、完全に眠り込んでいたのでした。これでは、主イエスが捕えられ、十字架につけられるときに、それでも神さまと主イエスを信じ続けることはできません。そこに、主イエスが捕えられるというクライマックスの時がついにやってきたのです。
前に見ましたように、主イエスは、ご自身が十字架に架かるまでに必ず成し遂げなければならないことを実行するためには、細心の注意を払って準備してこられました。過越の食事を絶対にまもりたいという思いから、男性に水瓶を担がせてまで、秘密の場所で確実に過越の食事を守ろうとなさったことを以前見ました。しかし今回は、まったくオープンな形でゲッセマネの園で祈られ、その後弟子たちとお話しをされたその場所に群衆が現れ、ユダの導きで主イエスが逮捕されるという展開になっていきます。こうしてすべての人々の贖いの供え物として、主イエスが十字架につけられ、死んで葬られ、復活されるという舞台が整えられることになります。
以上、ここまで私たちは、主イエスが人生最後のステージで祈られたゲッセマネの祈りについて考察してきました。主イエスは父なる神に対して徹底的な従順を貫かれ、血の汗を流しながら自分の思いを克服し、神のみこころが行なわれますようにと願われました。人としての苦しみを持ちつつも、神のみこころをご存じであった主イエスが、このように行動されたのは当然の結果だったと言えるかも知れません。しかし、私たちが祈る場合には、考えておかなければならないことが残っていると思います。さきほど、アブラハムの事例に触れました。十字架に就かれる主イエスと同じように、息子イサクをささげることを求められたアブラハムは、心の苦しみを感じつつも、神さまとの対話なしに命令に従います。しかしアブラハムは、甥のロトのために、神さまにどんな祈りをしたでしょうか。創世記の18章に描かれている物語の中で、アブラハムは、ソドムに50人の正しい人がいても、その町を滅ぼすのですか、と問い、神さまは、彼らのために滅ぼさない、と答えられます。アブラハムは、45人、40人、30人、20人、と数字を小さくし、最終的に主から「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という答を引き出すことに成功します。しかしその同じアブラハムは、イサクに関して一切の執り成しをしていないのです。私たちは主の十字架を大切に思うがゆえに、ここでのアブラハムの信仰を尊びますが、ここで彼は、神さまと徹底的に対峙すべきだったのではないでしょうか。同じ結論に到達するとしても、ゲッセマネでの主イエスのように、血の汗を流すような対話という祈りを通して、最終的に神さまのみこころが成りますようにとの信仰に到達するというステップが必要だったのではないかとも思えます。その意味で、イサクをささげるよう求められたときのアブラハムの行動は、神さまが本来求めておられた行動とは異なるものであったのかも知れません。
教会は、全世界のために執り成しの祈りを献げます。その執り成しの祈りは、執り成しを必要とする人々に共感した祈りでなければなりません。その上で神さまのみこころがなりますようにと祈ります。私たちが信じる神さまは愛の神さまです。神さまは私たちを愛してくださっています。この世界では、現在も戦争が続いています。また、心や体に苦しみを覚えて生きている人たちもいます。私たちが愛をもって執り成しの祈りを献げるとき、神さまは御心に叶う形で最も良い道を必ず示してくださると信じ、みこころがなりますように、との祈りを献げましょう。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
ゲッセマネの園での主イエスの祈りを通して、私たちが献げるべき祈りは、みこころがなりますようにとの祈りであるべきであることを教えられました。主イエスは、迫り来る恐怖と苦しみに乗り越える信仰の力を祈りを通して獲得され、十字架につかれ、死んで復活されました。私たちは、そのイエスを信ずる信仰によって、新しい命に生きる者へと変えられました。主にあって希望と喜びを持ち続けることができるよう、わたしたちの信仰を成長させて下さい。私たちが、御ことばによって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。主にある真の平和をこの世界にもたらしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
