聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第42回「弟子たちにはその言葉が理解できなかった(その2)」
説教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 創世記22編1~14節
新約聖書 ルカによる福音書 9章37〜48節
2023年11月19日 ルカによる福音書連続講解説教 第42回
ルカによる福音書9章37〜48節
37節
「翌日」というのは、前に書かれている出来事が起こったその次の日という意味で、ここに書かれている悪霊に憑かれた子供、いわゆる癲癇の病気を患う子供を連れた父親がその癒しを弟子たちに願っても、癒されず、主イエスに癒しを求めて癒された、この出来事を、福音書記者のルカは、その前日、主イエスの姿が山上で栄光に輝いたという出来事と連続させて書こうとしていると思います。
ルカはその前日の山上での出来事の記事を「弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」と結んでいますが、山上にいたペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子たちは自分たちが見たことが何を意味しているのか理解できなかったのでした。
弟子たちが理解できなかったのは、山上の出来事だけではなく、それがあった8日前に、ペトロが代表して、主イエスが弟子たちに、「あなたたちはわたしをだれだというのか」と問われた問いに、「あなたは神の子、救い主キリストです」と告白したのに対して、主イエスの口から初めて聞かされたメシアの受難についての言葉が、同じように理解ができない言葉でした。
弟子たちには、主イエスが苦しみをお受けになるということが理解できなかったのに加えて、また、その主イエスが栄光を受けられるお方であるということも理解できませんでした。要するに弟子たちは主イエスがどういうお方なのかを本当には理解していなかったのでした。
確かにペトロをはじめ弟子たちは主イエスこそ救い主キリストであられると信じ、そう信じますと告白しました。それはまごころからの告白で、本当にそう信じていたことは疑いのないことです。でも、主イエスが救い主キリストであられるということが、どういうことを意味しているかを弟子たちが十分に理解できていたわけではなかったことも事実でした。
弟子たちは信仰を持ってはいる、でも、信仰を持ってはいても、彼らの持っている信仰が、目の前の世界で現実に起きている出来事とどう関わるのか、それがほとんどと言っていいくらい何の意味もないように思われる、そういう弟子たちの姿がこのとき、主イエスと共に山を降りてきた下界で起こっている出来事を前にして、いわば茫然自失と言った状態の弟子たちにおいて示されています。
38〜40節
癲癇の発作が起きると、そばにいる人はただオロオロするばかりで、何もしてあげることができません。この父親も小さい頃から、一人息子であるこの子が癲癇の発作を起こすたびに、息子を助けてやれない自分の無力さに打ちのめされる思いをしてきたのだろうと思います。
父親から頼まれて弟子たちがこの子供を癒そうと試みますが、できませんでした。弟子たちもまた父親と同じ無力感を感じたことでしょう。
最近まで福岡市内で「水俣展」が開かれていました。水俣病の患者はひどい痙攣に見舞われるようです。胎児性の水俣病患者として生まれた人たちの親は、その子供たちが発作に見舞われるのを見たとき、ここに出てくる父親と同じ苦しみを味わったことでしょう。
子供を苦しめる病気が、聖書では悪霊によってもたらされると書かれていますが、要するに人間の力を超えているものによって、その苦しみがもたらされているという意味だと思います。水俣病は窒素という一企業によってもたらされたわけですが、それは窒素という一企業だけの悪ではなくて、日本社会全体が経済成長を追求していた時代の悪が公害という形をとったその一例でありました。
水俣病を起こした企業、それを監督し、規制しなければならなかった県や国の行政責任を追求して、裁判で勝訴しても、それで水俣病患者が病気の苦しみから救われるかといえば、もちろん経済的な賠償はなされるべきですが、失われた健康、家族と地域社会に及ぼした筆舌に尽くせない悲しみと苦しみと不幸が解決するわけではありませんでしたし、何より悲惨な、無念の死を死んでいった人々の魂は救われるわけではありませんでした。
私たちが生きているこの世界に満ちている悲しみ、流されている涙、助けを求める叫び、それを今、私たちは胸が張り裂けそうになる思いで、毎朝、毎日聞いています。どこに救いがあるのでしょうか。私たちに何ができるのでしょうか。
癲癇の子を持つ親が助けを求めても、どこからも助けを得られないでいる姿、その父親を助けることができずにそばにうなだれて、立っている弟子たちの姿は、今の私たち自身の姿でもあります。
41〜42節
主イエスは悪霊を追い出し、子供を癒して、父親にお返しになりました。
このとき主イエスは嘆きとも、叱責とも取れる言葉を発されました。この言葉は子供を癒せなかった弟子たちに向けられたのでしょうか。子供を連れてきた父親に対しても向けられているのでしょうか。
ある聖書注解者は、主イエスは無知な弟子たちや、ここに出てくる父親のような弱い人たちを非難したり、怒ったりはなさらないと書いていました。
信仰がないということは、説教の最初に申し上げました、弟子たちの信仰が、主イエスを救い主と信じてはいるものの、主イエスがどなたかを十分理解できていないということと関係しているのでしょうか。ルカによる福音書は、この一連の出来事を記すときマタイやマルコ福音書と比べて、弟子たちの無理解ということをかなり強調して書いていますが、その時、ルカはそれとともに無理解な弟子たちのために一人で祈り続ける主イエスの姿を記しているのに気付かされます。
先週、山浦征雄さんが天に召されました。今日の会報の裏に記させていただきましたが、私はこの教会に赴任した時から、30年間、山浦さんを存じ上げてきました。山浦さんは奥様が忠実に教会生活を送ることに全面的に協力してくださっていました。一緒に礼拝生活をも守っておられましたが、洗礼はお受けになっておられませんでした。そしてついに洗礼をお受けにならないままで召されてゆかれました。
私たちの信仰は今日、聖書で弟子たちの信仰について読んでいますように、信じてはいても十分に理解しきれないでいることを抱えている信仰だと思います。でも、その不十分さを抱えている弟子たちのために主イエスは祈り続けておられました。
山浦さんは洗礼を受けるにまで至られませんでしたが、主イエスは山浦さんの信仰のために祈っておられたことを信じます。その信仰のために主イエスによって祈られているという点では、山浦さんと洗礼を受けている人とは同じだと思うのです。
洗礼を受けていても、そのことが自覚されないなら、そのような信仰のあり方の方がむしろ問題だと思います。自分は信仰を持っている、その信仰によって洗礼を受けた、だから、自分には何がしかのことができるはずだ、できなければならないと思うとしたら、そのような信仰者のことをこそ主イエスは嘆かれるのではないかと思います。
信仰はそれまで隠されていたことが、神さまによって明らかにされ、信じさせていただくことです。それまで見えなかったことが、心を聖霊によって照らされることによって、目を開かれて見えるようにしていただくことです。
今日読んでいただいた旧約聖書のアブラハムの物語は、アブラハムの信仰を描いています。
アブラハムはイサクを連れて主が示された山に登ります。
イサクが問います。7節。アブラハムが答えます。8節。(創世記22章、31ページ)
アブラハムは山の上に主によって子羊が用意されているのを見ていません。神様がどういうご計画かを理解してはいません。でもアブラハムは見ていないことを、見ないままに信じます。理解はできませんが、理解を超えたことが備えられていることを信じます。
この出来事をヘブライ人への手紙はこう記します。11章17〜19節(415ページ)
アブラハムはイサクを返してもらった。
癲癇を患う子供を主イエスは父親にお返しになりました。
私たちの信仰には信じてはいても十分理解できないことがたくさんあります。子供を失った親は、その子供を神様がどのように救いに入れてくださるのか、理解はできないままですが、それでも神様が子供を救ってくださることを信じます。現にパレスチナで泣き叫んでいる父親に、死んでしまった少女を神様がどのようにしてお返しくださるのか、私たちには理解が困難です。それでも私たちはそれを信じようとします。
聖書が私たちにこう告げているからです。
父なる神ご自身が独り子を手放し、独り子を失い、独り子を死に渡されたこと、しかし、その、独り子を復活させることによって、父なる神がご自身の手に独り子を返される父となられたということです。
父なる神は自らこの癲癇を患う子供の父親の悲しみを知ることにより、また、子供を返してもらう父親の喜びをご自身の喜びとすることによって、救いを与えてくださることを私たちは信じるのです。
私たちの信仰はすべてを理解している信仰ではありません。しかし、終わりの日には、私たちが今、神様によって知られているように、私たちもすべてのことを知り、理解する日のくることを信じます。そして、そのようなすべてを理解しているわけではないままに、それでも信じる信仰は、主イエスが私たちの信仰の完成に向けて祈っていてくださっている信仰です。私たちだけではありません。主に召されていった山浦さんのためにも主イエスが祈られたことを信じます。
主イエスが私たちのために祈ってくださっているのですから、私たちも自分の信仰のために、家族の信仰のために、すべての人の信仰のために祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって。