聖日礼拝 「あなたたちがメシアだと言っている」
説  教        伊藤健一 ⻑⽼
旧約聖書   詩篇 16章 5節~6節
新約聖書   ルカによる福⾳書 22章 63~71節

主イエスの地上で過ごされる最後の日を迎えました。オリーブ山での祈りを終えられた主イエスは、弟子の一人であったイスカリオテのユダの導きにより、逮捕されることとなりました。弟子の一人であるペトロは、捕えられた主の後を遠く離れてついて行きました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と言っていたペトロでしたが、大祭司の館の中庭で、人びとに「この人も、一緒にいました」(22:56)と言われる度にそれを否定し、結局3度も主を知らないと答え、その時に主イエスがかつてペトロに言われていた通りに、鶏が鳴いたのでした。この瞬間は、ペトロにとって、自分の罪を認識し、彼の人生で最大の後悔をした時であったことでしょう。しかしその時、主イエスは振り向いてペトロを見つめられました。その目は、ペトロへの愛に満ちた、彼を思いやるまなざしであったに違いありません。主はかつてペトロにこう言っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:31-33)。事実、主はペトロを見捨てられませんでした。ルカによる福音書の記述においては、復活された主は、最初にペトロの前に姿を見せられました。そしてペトロは立ち直り、使徒言行録の第2章で、主イエスの十字架と復活を雄弁に証しする説教をしたのでした。

かつて主イエスは、弟子たちにこう言っておられました、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9:23-24)。キリスト者とは、自分を否定し、キリストを告白する者です。しかしここでペトロがとった行動は、キリストを否定し、自分の身を守ろうとするものでした。自分の命を救おうとして、3度主を否認したのでした。主がオリーブ山で祈られている間、主は「誘惑に陥らないように祈りなさい」(22:40)と言われました。祈りだけが、この誘惑に勝つための力の源であったのですが、悲しみのあまり眠り込んでいたペトロは、そうすることができず、主を否認しました。このようなわけで、この時のペトロは、「わたし(主イエス)のために命を失う者」となることはできなかったのです。

このペトロによる主イエスの否認の記事が、イエスの裁判の記事の直前に記されていることには重要な意味があると思います。これから取り上げる箇所において、最高法院で主イエスを裁こうとする長老、祭司長、律法学者たちもペトロと同様に、自分の命を救おうとする行動をとっています。視点を変えると、主イエスがペトロの立ち直りを期待しておられたのと全く同じように、ここに集まった長老、祭司長、律法学者たちの回心を求めておられるのではないでしょうか。福音書の物語の中では、主イエスに敵対し主イエスを十字架につけた人びととして、主を信ずる人びとから非難と嫌悪の対象として描かれている彼らも、究極的には、主イエスの愛の対象、救われるべき者たちの中に含まれていたのだと思います。

主イエスは逮捕され、その年の大祭司であったのがカイアファであったので、その舅であったアンナス邸宅に連れてこられました。この邸宅の中庭で、先ほど確認した通り、ペトロによる主の否認がなされたのでしたが、この場所で主イエスへの予備的な審問がなされました。しかし、最高法院における正式な裁判は、夜の間に行なうことはできず、夜が明けるのを待たなければならなかったのです。夜が明けてから、長老や祭司長たち、律法学者たちが集まって、主イエスの裁判が始まったのです。63節から65節の部分は、その場面への序奏、つなぎのような役割を果たしています。時刻は夜明け前、捕えられた主イエスに対し、見張りが嘲ったり、暴行をしたりしていました。その部分をお読みします。

63さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。 64そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。 65そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。

この短い箇所からは、主イエスが受けられた侮辱や暴力を見ることができます。しかし、主はそれに対して罵り返したり、ましてや暴力をもって応戦することもなさいません。捕えられているのですから、そのようなことは不可能なことです。しかし主は、もしそれが可能であったとしても、決して口を開き、手を挙げることはなさらなかったことでしょう。この姿は、旧約聖書イザヤ書に記された「主の僕(しもべ)」の姿そのものです。イザヤ書53章2節と3節をお読みします。

見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

キリスト教徒は、この主の僕の姿の中に、主イエスを見ました。みすぼらしい姿、価値あると見える部分はまったくなく、人びとは彼を忌み嫌う。彼も姿を隠すように生きている。この姿の中に、私たちは主イエスを見るのです。

この主イエスを侮辱し、暴力を振るったのが神殿の警護に当たるものであったことは、皮肉です。主イエスにもっとも相応しいところである神殿を警護する役割を帯びた者が、その主イエスを侮辱する。その姿は、人間が造り上げた宗教的秩序が、神さまが定められた秩序とは全く逆転したものとなっている事実をはっきりと示していると思います。見張りは問います。「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ。」この問いは、主イエスが荒野で受けられた誘惑と軌を一にしています。主イエスは、人びとから預言者と思われていました。だったら、イエスよ、殴ったのは誰か、神さまから聴き取って応えてみよ。」もしこの場面で主イエスが口を開かれるとしたら、こう言われたのではないでしょうか。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」、と。

そして、夜が明け、最高法院における主イエスの裁判が始まります。66節から69節をお読みします。

66夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、 67「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。 68わたしが尋ねても、決して答えないだろう。 69しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」

ここからサンヘドリンと呼ばれる最高法院、言わば最高裁判所での審議が始まります。ここまでの大祭司の私邸での予備的な裁判が終わり、公式の裁判が始まります。最高法院は、宗教的、神学的な問題に関しては、完全な裁判権を持っていました。議員定数は70人、有罪の判決を下すためには、3分の2の賛成を必要としていました。ところが、ルカはこまかな審議の様子には一切触れず、いきなり裁判の核心についての認否について記しています。もちろん、ルカがその核心部分のみを福音書の中に記しているという読み方も可能かとい思われますが、いきなり核心部分が問われるということは、その問題についての審議は予備審問の中で議論されている可能性もあります。しかし本来、大祭司の家で行なってよいことは、予備的な審問や私的な内容に関する審議に限られるはずで、今回のケースのように、死刑の判決が下されるような議案を大祭司の邸宅で審議することは違法だったのです。それにもかかわらず、違法な方法を用いてまで審議を勧めたのは、文字通り彼らが急いでいたからです。事実、この後、23章に入りますと、主イエスはまずピラト、続いてヘロデ、そして再度ピラトのもとに送られ、彼らには死刑に処すべき罪状を見いだせなかったにもかかわらず、ユダヤ人たちに引き渡して好きなようにさせる、ということにより、結果的に死刑に処することになったのでした。ローマ法では、死刑の判決が下ったらすぐに執行することが許されていたので、結局主イエスは即座に十字架刑に処せられることになったのでした。

最高法院の議員たちの関心は、イエスをピラトのもとに送り出すにあたってどの様な罪状を示すかということにありました。その罪状は反逆罪でなければなりませんでした。死刑の判決を下しうるのはローマの法廷です。最高法院にはその権限がありません。今回の聖書箇所の中で、議員たちは主イエスに2つの問いを尋問します。一つは、主イエスがメシアであるか、と言うことであり、もう一つは、主イエスが神の子であるか、という問いです。まず議員たちは尋問します、「お前がメシアなら、そうだというがよい」と。しかし、その問いに主イエスはお答えになりません。それは、主が答えても、すなわちご自身がメシアであるということを宣言されたとしても、彼らの心が変えられてそれを受けいれるようになることはない、言い換えれば、主が、「あなた方は、わたしがメシアであるということを信じますか」と尋ねたとしても、「はい」とは答えないであろう、という理由からです。そもそも、主イエスと最高法院の議員たちのメシア理解はまったく異なっていました。それに最高法院には主イエスがメシアかどうかを決定する権限などあるはずもないのです。

しかし、主イエスは議員たちの質問への直接的な答えによるのではない形で、ご自身がメシアであることを証明なさいます。69節で主はこう言われます。「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」「人の子」とは、終末論的なメシアの称号です。ダニエル書7章13節、14節はこう終末の幻を記しています。

13夜の幻をなお見ていると、 見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 14権威、威光、王権を受けた。 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。

主イエスは、最高法院がいかに主イエスのメシア性を否定しようとも、ご自身の勝利をいささかも疑わず、「人の子」として神の右の座に座ることを宣言されるのです。ダニエル書に描かれたこの幻は、主イエスの復活、再臨を予表していると読むこともできるでしょう。

続いて議員たちは、主イエスに問います。主イエスは神の子か、と。70節と71節をお読みします。

70そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」 71人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。

「人の子」の方は、メシアを表す言葉として用いられていたとしても、「神の子」の方はそうではありませんでした。主イエスがご自身を神の子と言われるとき、それは自明の事実としてではなく、常に父の御心を問い続ける祈りを通して与えられる身分であることを認識しておられました。「アーメン」で始まるメッセージは、父なる神から授かったものを伝えられたのでした。この身分は非常に重いものであったと言うことができます。「お前は神の子か」との問いには、そうした思いを込めつつ、主イエスはご自分の言葉で「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と肯定されました。ここでの「あなたがた」は最高法院の議員たちのことで、主イエスを信ずる信仰を持たない者たちです。しかしこの告白は、私たち信仰者は常に、絶えず行なうべき告白なのです。

結果的に、主イエスは、「あなたはメシアか」と「あなたは神の子か」の二つの問いに対して、そうだという趣旨の答をなさいました。最高法院の議員たちは、それをもって最終結審の根拠とし、それをもってローマに訴えることとなりました。彼らが、主イエスに対してこのような質問をすることができたことは、とりもなおさず彼らが主イエスをそのようなものとして受け止めていなかったことの証明でもあります。改めて考えてみましょう。私たちにとって、この二つの質問はどの様な意味を持つでしょうか。私たちは、主イエスに対し、「あなたはメシアです」、また「あなたは神の子です」と、確信と感謝と歓びをもって答えるに違いありません。私たちには、日々その告白が求められています。これらは、私たちにとって、自分という人間はどの様な存在なのか、を問う試金石です。そしてその応答は、私たちが日々行なう信仰告白です。しかし残念ながら、ここでの議員たちにとっては、信仰告白どころか、主イエスを神への冒涜罪によって有罪認定する材料でしかなかったのです。これによって彼らは主イエスを冒涜罪に認定することができましたから、ローマの法廷に訴えて主イエスへの死刑を求刑する準備は整いました。ただし、実際にピラトのもとに主イエスを送り出すにあたっては、政治的な罪をでっち上げなければなりませんでした。冒涜罪では死刑にすることができないからです。そこでピラトの前で罪状を説明するとき、彼らはこう言いました、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」もちろん、これは事実ではありません。

最後に、初代教会が主イエスを予表していると解釈した、イザヤ書の「苦難の僕」の箇所を味わってみましょう。イザヤ書53章の3-8節をお読みします。

3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 5彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 6わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 7苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

この記述から私たちの心に浮かび上がるのは、間違いなく主イエスの御姿ではないでしょうか。主はわたしたちの罪のために十字架に架けられ、その苦しみのゆえに私たちは救われ、平和を与えられました。私たちは、キリスト者として、自分を否定し、キリストを告白し、主にあるものであることを感謝し、御名を讃美する者でありたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま

主イエスは、捕えられ、裁判を受けるにあたっても、ご自分がメシアであり、神の子であることを雄弁に証しし続けられました。メシアであり、神の子であるとは、苦難の僕であり、自己犠牲を求められる、弱い存在であることであることを同時に示されました。主は、私たちの罪のため十字架にかかり、死んで復活し、贖いを成就されました。私たちは、そのイエスを信ずる信仰によって、新しい命に生きる者へと変えられました。主にあって希望と喜びを持ち続けることができるよう、わたしたちの信仰を成長させて下さい。私たちが、御ことばによって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。