聖日礼拝「礼拝の祈り」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編139編
新約聖書 ルカによる福音書 18章 9〜14節

今日わたしたちは主イエスが語られた祈りについてのたとえを読みます。先週もそうでした。先週わたしたちが読んだのは、主イエスが語られた「やもめの祈り」の喩えでした。並べて書かれている二つののたとえで主イエスは祈りについて教えておられます。

先週読んだ「やもめの祈り」のたとえはこう言うたとえでした。自分の訴えに耳を貸そうともしない不義な裁判官に対して、無力なやもめには執拗に、ただ訴え続けることしかできませんでしたが、やもめは裁判官が自分の願いを聞き入れてくれるまで訴えることをやめませんでした。不義な裁判官は最後には根負けして、その願いが叶えられるという話でした。主イエスはそのたとえによって、弟子たちに祈りが聞かれないからと言って失望してはならない、諦めてはならない、絶えず祈り続けなければならないと言われたのでした。

今日のたとえには二人の人が登場します。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人です。この二人のうち、どちらが第一のたとえの「やもめ」と同じ立場に立っていたでしょうか。失望しないで、祈り続けなければならなかったのは、二人のうちどちらだったでしょうか。

11節、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」

このファリサイ派の人は神様に対して自分が果たすべき義務を果たせていることを感謝しています。もう、これ以上、神様に願う余地が残っていないほどに、彼は神様の前での自分自身に満足しています。この人は祈っても、祈っても聞いていただけないので、気落ちして祈るのを諦めようと思う人ではなさそうです。では、もう一人の徴税人はどうでしょうか。

13節、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』」。

主イエスの時代、人々は神様に罪を赦していただくためには、まず神様に対して犯した罪の償いをしなければならないと考えていたと言われています。今の私たちはどうでしょうか。相手が神様でなく、人である場合でも、自分が罪を犯した相手に赦しを乞うときには、まず謝罪し、償いをしなければならないと考えないでしょうか。反対に、自分に対して罪を犯した人が、自分に赦しを求めながらも、謝罪もしない、償いもしないとすれば、そんな相手を赦すことはできないと思うとすれば、神様も、罪を犯した人間から償いを要求されて当然だと考えるでしょう。この徴税人は、神様に対して謝罪し、罪を償うことはできたのでしょうか。この人は神に対して自分の罪を償うことに絶望するほかない人だったのです。罪の赦しを祈り求めようと思っても、失望して、祈り続けることを諦めざるを得ない、そういう状況に置かれていた人でした。だとすれば、主イエスが失望しないで祈り続けなければならないと言われるのは、まさにこの徴税人に対してでしょう。

「やもめ」のたとえで、やもめが祈り求めたのは、やもめの訴えの「義」正しさでした。自分を不当に苦しめている相手から自分を守ってほしい、相手の悪を裁いて、自分の正しさを認めてほしいという願いでした。その「やもめ」の義は、神の義に他なりませんでした。
今日の祈りのたとえでも、キーワードは神の前での「義」正しさです。神様と、呼びかけて、祈り求めるのは、神の裁きであり、神の義なのです。問題は、神の「義」とは何か、神が神として何を、だれを「義」と認めてくださるのかにあります。

神様の義についてファリサイ派の人はこう考えます。自分は神様に罪を犯したとしても、その罪を赦していただくに十分な償いをしている。正しいことを積み重ねているからだ。神様はそれを認めてくださって、自分の罪を赦し、義と認めてくださるだろう。
しかし、自分の横で祈っている徴税人を神様が赦すようなことをしてしまったら、それはとんでもないことだ。そんなことをしたら神様は神様ではなくなってしまう。まかり間違っても、神様はこの徴税人を赦してはならない。それは神様が決してしてはならないこと、神の義に反することになるからだ。

ところで、祈りとは生ける神に向かって呼びかけ、語りかけ、また神からの答えに耳を傾けて神に聞く、そのような神との対話を祈りと呼ぶのではないでしょうか。
しかし、このたとえに出てくるファリサイ派の人の祈りは果たして生ける神様との対話になっているでしょうか。ファリサイ派の人の祈りは、神様の声に耳を傾けて聞くことは全くない、一方的に語るだけの、対話にならない独り言ではないでしょうか。「心の中でこのように祈った」と訳されていますが、原語は、直訳すれば「自分自身に向かって祈った」です。

「二人の人が祈るために神殿に上った。」。今日の祈りのたとえは、神殿での祈り、つまり礼拝での祈りについてのたとえです。
礼拝には生ける神がおられます。礼拝の祈りはそこにおられる神との対話です。
しかし、このたとえに出てくるファリサイ派の人にとって礼拝とは一体何だったのでしょうか。この人の祈りの主語は私、私、終始、私なのです。祈りの中に私しかいないように、彼の献げる礼拝には、彼しかいないのです。徴税人がそばにいるにはいても、ファリサイ派の人の祈りの中に、徴税人のために祈る祈りがないように、ファリサイ派の人が献げる礼拝に徴税人は存在していません。しかし、もっと決定的なのは、この人の礼拝には生ける神様がおられないことです。全世界とすべての人を創造し、生きて今も主権をもって世界とすべての人を支配される神への恐れを欠いた礼拝であり、この人の礼拝には神を神として畏れ、崇めることが欠けています。それは致命的です。

礼拝は生ける、礼拝に臨在される神様を畏れ、崇めるときです。そして、その礼拝の主である神様は、決して私一人の神様ではありません。神様は「わたしたち」の神様です。神様は私の神様であるとともに、私の隣人の神様でもあられます。礼拝の主は、私と私の隣人の間におられ、兄弟姉妹の間におられ、「わたしたち」の間におられるお方です。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と約束された主イエスこそ、わたしたちと共にいてくださる礼拝の主なのです。

14節、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」

このお言葉は礼拝の主である主イエスが、わたしたちの献げる礼拝について言われるお言葉です。
「言っておくが」と訳されているのは、原語を直訳すれば、「私は言う」です。わたしたちの礼拝の主である主イエスがこう宣言されるのです。
「私が言う。礼拝で義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」
神から罪を赦されて、義と認めていただいて、感謝と喜びのうちに家に帰ることを許されるのは、あの徴税人である。自分の罪を赦していただくことなど絶望的だと思って落胆せざるを得ない、あの徴税人の祈りを神様は聞いてくださり、徴税人の罪を赦してくださるのだ。

「あのファリサイ派の人ではない」と言うのは、これも原語を直訳すると、「あのファリサイ派の人を通り越して、あるいは、飛び越えて」この徴税人が義とされて家に帰ったのだと、主イエスが言われるのです。

これは何と言う喜びに満ちた福音でしょう。この言葉を断言されるのは主イエスです。わたしたちにこの計り知れない恵み、まさに「驚くべき、アメイジング・グレイス」である罪の赦しを受けあってくださる方こそ礼拝の主イエス・キリスなのです。この罪ゆるされる恵みの喜びが礼拝の喜びです。そして、この喜びは、わたし個人の喜びではないのです。「私たち!」の喜びなのです。父なる神様からそれぞれに罪を赦していただいた私たちが、お互いに罪を赦し合うことのできるものとしていただく喜びです。それが神様からいただく平和であり、私たち相互の平和です。私たちが心から祈り求め、願い求めている、国と国、民族と民族、全ての人との和解と平和です。

みなさん、依然として世界には戦争が続いています。平和の実現は程遠い、未来のことです。でも私たちは落胆しないでいいのです。私たちは自分たちの努力で何がしかのことが実現できたと言って、ファリサイ派の人のような祈りをしないでいいのです。反対に何もできていない、今後も何もできないだろうと思って絶望する必要もないのです。主イエスは言われます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」

神様は今日もわたしたちに、主イエスの御名によって始まっている神による平和、罪の赦しの福音をこの礼拝で聞かせてくださったのです。罪赦された恵みを喜び、家路に着きましょう。そして、遣わされて行く先々で、それぞれの持ち場で、失望しないで、落胆せずに、諦めることなく祈り続けましょう。
「み国がわたしたちの間に来ますように。み心が天に行われる通り、地においても、わたしたちの間においても行われますように。」と。

主イエスは今日も言われます。
小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

父と子と聖霊の御名によって。