聖日礼拝「絶えず祈りなさい」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 146編 1〜10節
新約聖書 ルカによる福音書 18章 1〜8節

主イエスは今日の箇所に書かれている喩えのなかで「やもめ」について語っておられます。その「やもめ」については、先ほど読まれた詩編146編に「主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる」とありました。
旧約聖書は「寡婦」について、主が孤児の父、やもめの保護者であると語り、繰り返し、主なる神が身寄りのない孤児や寡婦をみ心に留められると語っています。

例えば、ルツ記にナオミと共にベツレヘムにやってきたルツが畑で「落穂拾い」をしたことが書かれていますが、収穫の残りである「落穂」を拾わずに畑に残しておくのは、それを寄留者、孤児、寡婦のものとしなさいと主なる神が命じておられたからでした。

寡婦を守り、励まし、助けることは主なる神の御心なのです。それゆえ、出エジプト記には、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。」(出エジプト記22章21、22節)と書かれています。

ですから、喩えに出てくる寡婦の訴えと叫びに耳を傾けて聞いてくださるのは主なる神さまに他なりません。

しかし、主イエスが語られた喩えでは寡婦の訴えを聞いて裁くのは裁判官、それも寡婦の訴えに耳を貸そうとしない裁判官になっています。旧約聖書が語っている、やもめの叫びを必ず聞くと約束してくださった主なる神ではないということです。

裁判官は本来、法に従って人を裁くことを務めとしています。裁判官が守るべき法とは、聖書においては、神を畏れ、人を愛することです。神を愛することと人を愛することこそ聖書が教える法の根本です。ところが、この喩えに登場する裁判官は自分がその根本的な法を無視する者であることを公言して憚らないのです。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」。

裁判官は神から立てられた神の僕として、神から授かった法に従って裁きをすることによって、神の御心を実現すべきなのです。寡婦が自分を苦しめる者を裁いて、彼女を守って欲しいと願ったとき、その願いを聞いて裁判をすることは神のみ心でした。それゆえ、裁判官はそうすべきだったのです。

ところが、喩えに出てくる裁判官は寡の訴えに耳を貸そうともしません。「しばらくの間」と訳されている言葉を、長い間と訳す聖書もありますが、そちらの訳の方がふさわしいでしょう。この裁判官は寡婦の訴えを、いな、寡婦の存在そのものを無視しようとします。この裁判官は、寡婦に心を留められる神を無視する結果、寡婦をも無視するのです。

18章1節に「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちに喩えを話された。」とあります。
主イエスが喩えを通して、落胆せずに絶えず祈らなければならないと教えようとされる、その落胆はどこからくるのでしょうか。それは、寡婦の訴えを聞いてくださる神がおいでになるのに、その神によって立てられた裁判官が、神を畏れず、神から託された正義の実現をはたそうとしないことから来ています。

このような落胆はわたしたちが生きている世界にもたくさんあるのではないでしょうか。例えば、沖縄の県民は辺野古に新しい軍事基地が建設されることに反対の声を上げ続けています。県民の多数が反対し、何度も、何度もその訴えを、オール沖縄の声としてあげても日本政府はその叫びに聞く耳を持ちません。

それでも、落胆してはならない、常に、昼も夜も叫びを上げ続けなさい。あなた方は祈り続けなければならない、と主イエスは言われます。

それはどうしてでしょうか。神を畏れない裁判官が、ついには寡婦の訴えを聞いて、寡婦の正義を実現するようになるからだと言うのです。「ひっきりなしにやって来て」と訳されている言葉は、原語では、「終わりがない」「際限なく」と言う意味もあります。裁判官は寡婦のために裁判をしてやらない限り、寡婦が昼も夜もやってきて裁判官を悩ますことに「けり」をつけることはできないと考えるのです。寡婦が諦めずに声を上げ続けることで、裁判官はついに裁判をしようと決心するのです。

「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。
主イエスは、不正な裁判官の言葉を聞きなさいと言われます。一体、何を聞きなさいと言われているのでしょうか。
不義な裁判官はついに寡婦のために裁判をしますが、それは裁判官が神を畏れるようになったからではありません。裁判官は依然として自分のことしか考えない、自己中心的な人間のままなのです。しかし、神は、神を畏れることを知らない裁判官をも用いて、寡婦のために正義を実現なさるのです。そして、寡婦の正義は神の正義であり、寡婦の救いは神の救いなのです。

神は御心にかけておられる孤児、寡婦、寄留者のような、弱くされ、小さくされている人々をご自身の愛する民として選ばれるのです。そして選ばれたそれらの人々の叫びに耳を傾けて、速やかに裁いてくださるのです。そのために、神は神を畏れることを知らない裁判官をすら用いられるのです。主イエスは、そのことを聞きなさいと言われているのだと思います。

先ほど、沖縄の例をあげましたが、今、わたしたちの生きている世界には、神の御心からほど遠い現実があります。その中で正義を求める叫び、平和を求める祈りがささげられています。にもかかわらず、不義な裁判官が寡婦の叫びに耳を傾けようとしないように、世界の強国と呼ばれる国々は、弱い人々の叫びに耳を傾けようとせず、それらは長い間、無視され続けています。また、その存在自体が無視されていることも少なくないと思います。

そのような世界に生きるわたしたちに主イエスの今日のみ言葉は向けられています。
世界が何も変わらないまま、時間だけが空しく経過しているように思われても、あなた方は失望してはならない。祈りがむなしいように思われても、常に祈り続けなければならないと。

今、ガザには束の間の休戦が訪れています。その停戦が訪れるようにどれほど多くの人たちが切実に願い、その実現を祈って来たことでしょうか。六週間の停戦、それは人々の祈りが聞かれたからではないでしょうか。確かに、この停戦合意が破られて、再び戦闘状態に戻る可能性があるとも言われます。だからと言って、私たちは祈ることをやめるべきでしょうか。

ルカによる福音書は、わたしたちが今日読んでいる18章の寡婦の喩えの前の17章で、方舟をつくって洪水を生き延びたノアのこと、硫黄の火で滅亡したソドムを離れて命を救ったロトのことを記していました。神の裁きと救いが来ることを信じようとしなかった人々が、自分たちの日常生活がいつまでも続くかのように思って、それには終わりが来ることを信じようとしなかったとき、ノアもロトも神のみ言葉を聞いて、まだ見ていないことを見ているようにして信仰に生きたのです。それは、目の前の現実に失望しないで、常に神に祈り続けたと言うのに等しいのです。

寡婦の祈りがついに聞かれることは、終わりの日に神が救いを完成されることの前触れ、その印です。
ガザの停戦が束の間の停戦とは言え、それが実現していることの中に、私たちはいつの日か、完全な平和、神の平和がくることの印を見ていよいよ、神に祈り続けるべきではないでしょうか。

今日の御言葉の最後で主イエスはこうが警鐘を鳴らしておられるのを聞き逃してはならないと思います。
「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」。

ファイサイ派の人々は主イエスに問いました。「神の国はいつくるのか」。
主イエスは答えて言われました。「神の国は見える形では来ない。『ここにある。あそこにある。』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

主イエスは人の子としてこの世に来られました。そして、寄留者、孤児、寡婦、徴税人、罪人を愛し、その友となってくださいました。それは神が寄留者、孤児、寡婦、徴税人、罪人を心に留め、彼らの叫びに耳を傾け、彼らを救われる救いと愛の御心の実現でした。人の子イエスにおいて神の国はわたしたちの間に来たのです。ファリサイ派の人々は、神の国が人の子イエスにおいて目の前に、自分たちの間に来ているのに、それを見ようとはしないで、主イエスに向かって「神の国はいつ来るのか」と問うていました。

人の子においてわたしたちの間にある神の国は小さいのです。飼馬桶に寝かされている嬰児のように、貧しく、みすぼらしいものでしかないのです。しかし、そこに限りない神の慈しみと愛が宿っていることをわたしたちは知っています。それゆえに、どんな時にも感謝して祈り、すべてのことを喜んでいることができるのです。

人の子において今、ここに始まっている神の国を喜びましょう。
ノアやロトのように私たちもやがて完成する神の国に希望を抱き信仰に生きましょう。
それゆえに、愛する選民の叫びに耳を傾けて聞いてくださる神に、神の国と神の義を求めて、昼も夜も祈り続けましょう。
主イエスは言われます。恐れるな、小さな群れよ。御国をくださることは、あなたがたの父の御心なのである。

それゆえに失望せずに常に祈りましょう。
み国が来ますように。御心が天に行われる通り、地にも行われますように、と。

父と子と聖霊の御名によって。