降誕節聖日礼拝 「ソロモンの栄華にまさる主イエスの栄光」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 139編 1〜6 節
新約聖書 ルカによる福音書 11章 31節

クリスマスおめでとう。教会の中だけでなく、教会の外の世の巷にまで、メリー・クリスマス、クリスマスおめでとうの声が満ちています。しかし、クリスマスおめでとうというのは、そもそも誰が誰に向かって呼びかける呼びかけなのでしょうか。

聖書では、クリスマスの出来事、主イエスの誕生に関して、最初に「おめでとう」という呼びかけがなされたのは、主イエスが誕生する前、天使ガブリエルがマリヤのところを訪れた受胎告知の時でした。天使ガブリエルは言いました。「おおめでとう、恵まれた方」!と。ここで「おめでとう」と訳されている言葉は、直訳すれば「喜びなさい」という言葉です。

その次に、天使が「おめでとう」と告げたのは、クリスマスの夜、ベツレヘムの村はずれで、羊飼いたちが野宿しながら羊の番をしていた時でした。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった」。このとき、天使が羊飼いたちと民全体に対して告げた「大きな喜び」とは、神が救い主をこの世界に生まれさせてくださった、だからすべての民がその誕生を「喜びなさい」という意味でした。

聖書が告げる「クリスマスおめでとう」という呼びかけは、父なる神さまが、クリスマスの出来事を通して、マリアに、また民全体に対して、喜びなさいと呼びかける、呼びかけなのです。

神さまはクリスマスの出来事において、マリアが、イスラエルの民が、そしてわたしたち一人一人が自分自身について何を喜びなさいと言われるのでしょうか、わたしは、今日それを、一つの賛美歌を紹介することでお話ししたいと思います。会報の裏にパウル・ゲルハルトというドイツの牧師の書いた詩を、私訳したものを載せていますのでご覧ください。

この詩がもとになってドイツの教会で親しまれているクリスマスの賛美歌「馬槽のかたえに我は立ちて」が作られました。私たちの用いている賛美歌21の256番の賛美歌です。その日本語の歌詞を読むと、それ自体とても美しい詩ですが、元のドイツ語の歌詞は、日本語の歌詞よりもはるかに豊かで、深い内容を持っています。1、2、3節と次のように歌われます。

命の君なる、我が主イエスよ

あなたの飼い葉桶の側にわたしは立ちます

あなたがわたしにお与えくださったものをおささげするために、今、ここに参りました

これはわたしの精神、思い、心、魂、志の全てです

あなたに喜ばれる贈り物として受け取られますように

わたしがまだ生まれていなかったとき、あなたはわたしのために生まれてくださいました

わたしがまだあなたを知らなかったとき、わたしがあなたを選ぶ前にあなたはわたしを選び、わたしをあなたのものとしてくださいました

わたしが御手によって造られる前に、あなたは御心のままにわたしのために計画を立ててくださいました

わたしが死の最も暗い闇の中に横たわっていたとき、

あなたはわたしの太陽であってくださいました

あなたはわたしに光、命、喜び、楽しみをもたらしてくださいました

信仰の光をわたしにもたらしてくださった太陽である主イエスよ、あなたの輝きはなんと美しいことでしょう

この詩の第1節では、わたしが主イエスにささげるささげものについて、「わたしの精神、思い、心、魂、志の全て」それを主におささげしますと歌われています。しかし、2節に読み進むと、1節ですでに「あなたがわたしにお与えくださったものをおささげする」と言われていましたが、わたしが主イエスにささげるものは、わたしが主イエスからいただいたもの、主イエスからいただいた「新しいわたし」であることがいよいよはっきりとわかります。

その「新しいわたし」とは2節で歌われているように、わたしがまだ生まれない先に、まず、主がわたしのために生まれてくださり、わたしが主イエスを知る前に、主イエスがまず、わたしを知ってくださり、わたしが主イエスを選ぶ前に、わたしを選んでくださった、そのような主イエスからいただいたわたしです。

そのようなわたしをわたしが主イエスにささげるのは、主イエスから信仰の光を受けて、主から受けた信仰によってです。

3節で歌われていますように、最も暗い死の闇の中でも、信仰の光に照らされて、主イエスこそわたしにもたらされる復活の光、命、喜びであることを賛美しつつ、自分自身を主にささげるのです。

神さまが、クリスマスの出来事を通して、マリアに対して、イスラエルの民、さらにわたしたち一人一人に対して、自分自身について喜びなさいと呼びかける喜びとは、わたしたちが主イエスを通して受けた、このような「新しいわたし」のことを喜ぶ喜びなのです。

クリスマスには、わたしたちはお互いに贈り物をします。主なる神様に対しても感謝の捧げ物をしようとするでしょう。しかし、わたしたちが贈るすべての贈り物に先立って、神さまからの私たちへの贈り物があるのです。

ヨハネは言います。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」

神様は独り子を、わたしと同じ人間としてこの世に送り、独り子であるキリストを私たちの兄弟として与えてくださいました。それによって、わたしたちはキリストを通して、新しい「わたし」、神から極みまでも愛される新しい「わたし」を与えていただいたのです。

クリスマスおめでとう。クリスマスにあたり、おめでとう、喜びなさい、そう呼びかけられているのは、そのような恵みをいただいたわたしたちなのです。神さまが、わたしたち人一人に向かって、おめでとう、神から極みまでもの愛を受けている、あなた自身を喜びなさいと呼びかけておられる、これがクリスマスおめでとうという呼びかけなのです。

今日の礼拝の中で、一人の兄弟の洗礼式が行われます。9月から洗礼に向けての準備の時を、礼拝前に開かれているカテキズムのクラスにおいて持ちました。そこで、洗礼について最初にぶつかった質問は、新約聖書の4つの福音書のどこを読んでも、主イエスの弟子たち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネといった人たちが主イエスから洗礼を受けたという記録がないのはどうしてかということでした。

共に学んでいる仲間と一緒に考えて得た結論は、それは弟子たちにはいつも主イエスが一緒にいてくださったからではないか、人々が主イエスの名によって洗礼を受けるようになったのは、弟子たちを離れて主イエスが天にゆかれて、もはや地上におられなくなってからではないかというものでした。

確かに、主イエスが弟子たちと一緒にいてくださった間は、主イエスが弟子たちに対する全責任を負ってくださっていました。主イエスが弟子たちを教え、導き、あらゆる危険と誘惑から守っていてくださったのでした。

洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられます。それはこの洗礼に対して父なる神と、御子イエス・キリストと、聖霊なる神様が責任を負われるという意味です。主イエスが地上におられた間、弟子たちをあらゆる危険と誘惑から守り、彼らを教え、導き、弟子たちに対して全責任を負ってくださったように、この洗礼を通して父なる神が、父として共にいてくださって守り、導き、聖霊なる神様も慰め主、執り成し手として共にいて祈ってくださり、さらに主イエスも、かつて弟子たちと共にいてくださったように、わたしたちと共にいてくださるのです。そのことを父と子と聖霊なる神様が御自身の名において、ご自身に対して誓い、さらにわたしたちに対して誓われるのです。

わたしたちは、洗礼はわたしたちが神さまを信じ、神さまに従うことの誓いであると思って洗礼を受けます。す。しかし、私たちのその誓いに先立って、神さまがご自身の名によって自らに誓う、誓いがあるのです。

洗礼準備のカテキズムクラスで心に残ったもう一つのことがありました。それはマルコによる福音書2章に出てくる中風の人の話でした。そこに出てくる中風の人は動けなかったので、床に載せられて4人の人に運ばれてきました。けれども主イエスに近づこうとしても、主イエスのおられる部屋が戸口のあたりまで隙間もないほど人でいっぱいで、近づくことができなかったので、4人はなんと屋根に登って、天井を剥がして床ごと中風の人を主イエスのおられるところにつり降ろします。すると主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

もちろん主イエスは中風の人の信仰をご覧になったに違いないと思います。しかし、主イエスはこのとき、中風の人を運んできた4人の人の信仰をも見られたのです。

クリスマスは私たちがこれ以上大きな愛はないほどの大きな愛の贈り物、独り子を賜るという神様からの愛の贈り物を、感謝をもって受けるときです。この大きな愛を受けたことによって、わたしたちは互いに愛しあうものとされるという、もう一つの贈り物をいただくのです。

神からの愛を受けた私たちに主イエスは新しい掟を与えてくださいました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

わたしたちにとって、だれかを洗礼に導くことは、その人を愛することですし、洗礼に導かれたその人と互いに愛し合うことになると言えますが、もう一つの側面があると思います。それはちょうど中風の人を床に載せて運ぶ仕事は一人ではできず、4人の人の協力が必要だったように、だれかを洗礼に導くために、何人かが互いに力を合わせ、協力し合うことは、わたしたちが互いに愛し合うことだと思います。神様からイエス・キリストを賜ったという愛の賜物は、わたしたちが互いに協力し合うこと、人々への伝道や愛の奉仕において一つになるという形で、互いに愛しあう者にしてゆきます。

このクリスマスのとき、お互いに、もう一度考えてみましょう。父と子と聖霊の御名による洗礼のことを。

自分が受けた洗礼のことを。自分の子どもが受けた洗礼のことを。今、教会から遠ざかっている兄弟姉妹の受けている洗礼のことを。父なる神がその洗礼に全責任をとっておいでになるとはどういうことかを。

十字架に死なれ、復活された主イエスがわたしたちの救いに対して全責任を果たしてくださるとはどういうことかを。

聖霊がわたしを慰め、どんな逆境にあっても導き続けてくださっていることがどれほど確かなことであるかということを。わたしたちは、それゆえ今日、喜んで、主イエスの飼い葉桶のもとに来て、そこに立ちたいと思います。

それだけでなく、自分一人で飼い葉桶の傍に立つのでなく、わたしたちの愛する家族を、友人を、すべての人々を喜んで主イエスのもとにつれて來たいと思います。そしてすべての人の救いに全責任を負ってくださる主に、愛する人々を託したいと思います。

そのために、主イエスが私たちを愛されたように、私たちが互いに力を合わせ、協力し、愛と喜びを一つにされたいと思います。

クリスマスおめでとう。これは神さまからのすべての人に対する呼びかけです。神さまから愛されている、自分自身のことを喜びなさい。神様から愛され、喜ばれている一人ひとりのことを喜びなさい。

わたしたちは、今日、このクリスマスを覚える日に、神様の喜びを私たちに与えてくださった主イエスを喜びます。そして、わたしたちを、主イエスを通して喜び、愛することを、ご自身の喜びとなさる神さまを、誰よりも、何よりも喜び、愛さずにおれないのです。

父と子と聖霊の御名によって。