聖日礼拝 「従う者のまなざし」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 詩篇 73編25~28節
新約聖書 マタイによる福音書19章 16~30

主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と仰せになります。これは、金持ちの青年へのお答えです。同時に何かものを握りしめつつ、神を信じようとする私たちがきくべき福音です。金持ちの青年は永遠の命を得る方法を求めて主イエスに近寄ってきました。そして「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに尋ねました。その問いから分かるように、彼は「永遠の命」を、道徳的な人間が正当に確保できる報酬として理解していたのです。

青年が所有している財産は、当時の背景から見れば「不動産」の意味でした。おそらく彼は両親から多くの財産を相続していたのでしょう。当時のユダヤ社会において、富とは神の祝福の目に見える証しと理解されていました。また、この青年は自分の生まれや財産にただ胡坐をかいていたわけではなく、実際に宗教的な義務をしっかりと果たしていたのです。主イエスから十戒のことを言われたとき、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言い返すほど、彼は自分の歩みに対して自信に満ちていました。彼には、道徳的な誇りも、社会的・経済的な安定も、人間が幸せの根拠とするもののほとんどが揃っていたのです。しかし、そんな彼にとって唯一欠けていると感じられたもの、それが「永遠の命」でした。だからこそ、彼は「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と主イエスに尋ねたのです。

この青年の言う「得る」とは、「持っている」「所有する」「手に入れている」「保つ」の意味です。それは、すでに何物かを手中に収めて保持している状態、あるいは「自分の努力や業績によって、それを自分のものとして獲得・所有する」という自己達成のニュアンスを持つ言葉です。金持ちの青年は「永遠の命」を、自分の善い行いという代価を支払って、自分の手柄として手に入れ、自分のものとしてがっちりキープすることができる商品や権利のように考えていました。日々の仕事や業績、目に見える安心の蓄えによって、自分の人生や将来を自分でコントロールしようとしていないでしょうか。私たちが握りしめている確実なものこそが、実は私たちの偶像なのだと、この青年の姿は教えています。

この青年の問いは、決して彼一人のものではありません。私たちはすでに、別の箇所でこれによく似た問いに出会っています。それはルカによる福音書10章にある「善いサマリア人の譬え」の冒頭に出てくる、律法学者の問いです。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。ここで使われる「受け継ぐ」とは、「親の遺産や土地などを相続人として当然の権利や割り当て分として受け取る」という意味です。それは単に自分の個人の努力でゼロから勝ち取るものというよりは、「家族の一員、あるいは正当な資格によって与えられる分け前」のニュアンスです。自分たちユダヤ人は神の家族・民なのだから、当然この特権を受け継ぐべきであると考えていたのです。

ところが、律法の専門家は「どうすればそれを受け継ぐことができるか」と、そこに自分の宗教的行いや条件を持ち込みました。しかし、本来「相続(遺産相続)」というのは、自分の労働の対価や努力の報酬として得るものではない。「親と子の関係(身分)」そのものによって無条件に受け取るものです。ここに「何か素晴らしい善行や律法の行いという労働をすれば、永遠の命を自分の功績としてゲットできるはずだ」という、根深い思い込みや律法主義的な発想が表れています。

私たちが金持ちの青年や律法学者の姿から深く教えられるのは、彼らが決して神を求めていなかったわけではないという点です。彼らはむしろ熱心に、真面目に信仰の道を歩もうとしていました。しかし、彼らにとって「永遠の命」とは、神の圧倒的な恵みによって一方的に与えられる生きた関係ではなく、努力の代価として手に入れる「所有物」や「権利」でした。これは、神を「自分の思い通りに動かせる自動販売機」のように扱う発想です。「これだけの善い行いをしたのだから、救いをくれて当然だ」と、神さえも自分の計算の中に閉じ込めようとする。このとき、人間の行いや功績こそが神の座に座り込んでいるのです。ですから、金持ちの青年も、この律法の専門家も、外見は立派に「宗教的」であっても、その本質においては「偶像崇拝者」であり、まことの神を否定しているという意味で「無神論者」に過ぎないと言っても過言ではないのです。

主イエスは、自らを神とする無神論者であった青年に、「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われます。その掟とは、殺すな、盗むな、隣人を自分のように愛せよという十戒の後半です。人とどう関わりをもって生きるべきかを教える戒めです。これらを行うことこそが、神への礼拝にほかなりません。十戒の後半の戒めは、前半の見えない神を愛することを前提としています。見えない神を、見える隣人への愛として具体的に行うこと、それが隣人への愛の核心であり、見えない神を拝むことです。では、果たして私たちはこの戒めから本当に自由になれるのでしょうか。本当にこれらの戒めをすべて守り、行っていると言えるでしょうか。この厳粛な問いの前に立ったとき、私たちはただ沈黙せざるを得ないのではないでしょうか。

主イエスが掟を守るように言われたのは、決して人間の誇りを挫くためだけではありません。それは、青年が真の神の愛へ、また神の御心を行う人へと変えられるためでした。それは道徳主義信仰からの解放であり、同時に自分自身を神とする無神論からの解放です。主イエスは青年にまことの悔い改めを求めたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

神は悔い改めを用いて、人間を完全へと導きます。主イエスの言う「完全(テレイオス)」とは、「道徳的・宗教的な点数を完璧に満たしている状態」ではありません。それは「神との関係において、一切の妥協や二股が取り払われ、心が一つに整えられている状態」のことです。イエスは「財産をすべて手放しなさい」と命じることで、彼が一番大切に握りしめ、自分の人生の絶対的な保障にしている「偶像(お金・自己の誇り・安心感)」を、その手から無理やり引きはがそうとされたのです。「天に富を積む」とは、自分の力やお金でキープできる見せかけの安心を失う代わりに、神の支配の中にある真の永遠の豊かさ、すなわち「神ご自身との絆」を自分の本当の財産にしなさいということです。

この主イエスのお勧めを聞いて、青年は悲しみながら立ち去りました。彼には、これまで自分の神としてきた財産や誇りを捨てることができなかったからです。この主イエスの厳しいお言葉に立ち返るとき、私たち自身の信仰も深く問われます。もし私たちが試されたとき、何もかも捨てて、主に従うことができるだろうか。本当にそのような歩みができているだろうかということです。イエスがこの青年、そして現代を生きる私たちに求めているのは、文字通り全員がすべての財産を失って社会的な経済活動を一切やめることではありません。

ここで問われている本質は、「自分の心の王座に、いったい何を座らせているのか」という人生の問い直しです。私たちがこの主の御言葉に向き合うとき、それは「今すぐ全財産を寄付しなさい」という外部的な強制ではないのです。「自分が一番、手放すと不安になるもの、すなわちお金、ステイタス、プライド、自分の業績などを、神よりも上に置いていないか」と、私たちの内なる心をレントゲン写真のように鮮やかに照らし出される問いなのです。この「受け入れがたい厳しさ」こそが、かえって私たちがどれほど偶像に深く依存して生きているかを教えてくれる、痛みを伴う鏡なのです。

では、主イエスが語られる「永遠の命」とは、具体的にどのような「命」なのでしょうか。永遠の命の本質は、時間の長さではありません。その命の「中身、質」にあります。ヨハネによる福音書5章24節で主はこう言われます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。ここで「得ている」とは完了形であり、「移っている」とは現在形的な意味を持っています。つまり、私たちが主イエスを信じるときから、すでに神の命の中に生き始めているということです。また、ヨハネの福音書11章25-26です。「イエスは言われた。わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と宣言されています。決して死ぬことがないとは、単に肉体の死を超越するというだけでなく、私たちがすでに「死から命へと完全な引っ越しをしたこと」を意味しているのです。

ヨハネによる福音書17章3節で、主イエスはこう祈られます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたがおつかわしになったイエス・キリストを知ることです」。ここで言う「知る」とは、人格と人格が深く結ばれ、愛の交わりに生きる最も親密な関係を表す言葉です。永遠の命とは、「神ご自身と共にあること」「神の命に生かされ、神と深い親しい交わりの中に生きること」そのものです。そして、その永遠の命の源泉がどこにあるのかを、私たちはヨハネによる福音書3章16節で教えられます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。「永遠の命」とは、私たちが自分の努力や善行で勝ち取る報酬ではなく、神が「独り子を与えるほどに私たちを愛してくださった」という、十字架の愛のゆえに一方的に与えられる絶対的な賜物なのです。

このようにただ神を知り、神の愛に生きること。それこそが、主イエスが私たちに招いておられる「永遠の命を生きる」ということであり、私たちに約束された「完全」な幸いなのです。この「神を知り、神の愛の交わりに生きる」ということこそが、詩編73章の記者が歌い上げた「神近くおることは幸いである」という現実そのものです。私たちの人生の保障は、地上の富や自分の功績ではなく、まさにこの生ける神ご自身との深い絆の中にこそあるのです。

そして、この「永遠の命に生きること」と「主イエスに従うこと」は、決して切り離すことのできない一つの不可分の出来事です。金持ちの青年は「永遠の命を得るには」と問いながら、主イエスと共に歩む関係を拒んでしまいました。彼は「永遠の命という商品」だけが欲しかったのであって、それを与えてくださる「主イエスご自身」を必要とはしなかったのです。しかし、今、私たちを呼んでおられる主イエスの後ろに一歩一歩ついていく、その主との交わりの中にこそ現実のものとして存在しています。

主イエスに従うこととは、自分の人生の主導権を自分で握りしめるのをやめ、主イエスのまなざしに自分の人生を丸ごと委ねることです。「わたしに従いなさい」という招きは、私たちが自分を守るための見せかけの鎧(お金やステイタス、自己の誇り)をすべて脱ぎ捨てさせ、愛の主と真っ直ぐに向き合わせるための招きです。だからこそ、主イエスに従って生きるとき、私たちはすでに「死から命へと移された者」として、この地上の歩みを始めます。神を愛し、隣人を愛する新しい現実が、私たちの日常の中で息づき始めるのです。十字架の贖いの恵みが深められ、まことの幸いがそこから湧き出るのです。罪深い私たちが「永遠の命に生きる者」とされた恵みと祝福の中で歩みを全うしていきたいと願います。