聖日礼拝 「弱さのなかに注がれる祝福」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 申命記 7章 6~8節
新約聖書 マタイによる福音書19章 13~15節

1870年(明治3年)に横浜で始まった女子学院があります。皆さんもご存じのフェリス女学院です。創立者はアメリカ女性宣教師のメアリー・E・キダー(1834年-1910年)です。彼女は、日本に派遣されて定住した最初の独身の女性宣教師だと言われています。当時、キダーは横浜の外国人居留地にあるヘボン塾(後の明治学院につながる学校)で教えていました。その一方で、日曜日には教会で子どもたちに聖書や英語を教える日曜学校を開いていました。この日曜学校に参加する女子たちへの教育をさらに発展させる形で、女子教育を始めたのが、フェリス女学院の出発点になったのです。

その後、生徒が増加するにつれ、専用の校舎と寄宿舎を建設するための資金が必要となりました。アメリカ各地のキリスト教会の「日曜学校(Sunday School)」やその初等部グループにおいて、生徒たちが献金を出し合いました。彼らはフェリス・セミナリーに通う日本人女子生徒の奨学金などを送金したのです。また、日曜学校の生徒や婦人会からの献金で得られた資金により、教科書などの教育用備品を購入し、日本に送付しました。日本の女子教育のために、捧げた小さな献金の積み重ねが大きな支えとなっていたのです。

一人の子どもを迎えることは、一人の人間を大切にすることです。その人に与えられた神の可能性を信じることです。日曜学校から始まった小さな働きが、やがて女子教育へと広がっていきました。その背後には、名も知らない遠い国の子どもたちのための祈りと支え、また祝福を願う想いが潜んでいたのです。そして、派遣された宣教師の働きによって神の御ことばが教えられ、日本にも神の国が広がっていきました。こうした「小さな者へのまなざし」や「祈りと祝福の連鎖」の原点にあるもの、それこそが本日の聖書個所に示されている主イエスの御心です。

今日は、マタイによる福音書19:13-15の箇所が与えられました。人々が主イエスのところに子どもたちを連れてきたとき、弟子たちは彼らを止めようとしました。しかし主イエスは言われます。「子どもたちを、来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」(14節)。「来させなさい」この言葉は、とても短い言葉です。けれども、主イエスが子どもたちをどのように見ておられたのかが、この一言に表れているのではないでしょうか。子どもだから後回しにしてよいのではない。まだ何もできないから価値がないのでもない。その小さな存在一人ひとりを、主イエスはご自分のもとに招いておられる。神の無限な憐れみが、「子どもたちを、来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない」であり、そのような主の御心が宣教師の働きを通して伝わっていたのです。

13節です。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」とあります。子どもたちを主イエスのもとに連れてきたのは、子どもたちの親です。その目的は「イエスに手を置いて祈っていただくため」です。つまり幼子が祝福されることです。「手を置いて祈ること」とは按手を指すのです。私たちの教会でも、伝道師が牧師になるとき、長老任職の際には「手を置いて祈る」形を取ります。また、宣教師を派遣する際にも、すでに按手を受けた教師であっても、手を置いて祈るのです。それは、神の祝福を希うことです。私たちの信仰の表しです。

子どもの親が主イエスに「手を置いて祈る」ことを求めたのは、当時の風習による行為です。両親が子どもの頭に手を置いて祈ることもあれば、教師が教師に手を置いて祈った記録もあります。安息日や休日の夕食の前に手を置いて祝福することがしばしばだったのです。特に、尊敬する教師から子どもの頭を触れてもらうことは、もっとも喜ばしいこととされました。すると、偉大な教師からの魔術的な力が按手を受ける人に流れ出る。教師の教師である主イエスが手を置いて祈ってくださると、自分の子どもには不思議な力が伝達される。民衆はこう信じており、子どもたちを主イエスのところに連れてきたのです。

ところが、弟子たちはこれらの民衆たちを叱ったのです。これは弟子たちが一般の民衆たちと主イエスについての理解が違ったことを意味します。弟子たちは、主イエスを幼子の祝福のようなことで、煩わせる。それはどんでもないことだと考えていたのです。言ってみれば、子どもたちの親も、弟子たちも自分たちの尺度で判断し、自分たちの利益のために行動していた。こういう点においては同じであると言えます。ところが、主イエスの反応は違いました。キリストは「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われ、彼らを祝福されたのです。

当時のユダヤ社会において、子どもは社会的に一人前の人間とみなされず、地位の低い存在でした。主イエスが彼らを祝福したのは、親たちの希望をかなえてあげたことではないのです。魔術的な力を与えるためではなく、子どもたちも天の国の市民である。主イエスに祝福されるのにふさわしき存在だったからです。そして「このような者たち」とは、単に年齢が若い人という意味ではなく、「自分の力を誇らず、神の前に心を低くし、子どもが親を信頼するようにただ素直に神の恵みを受け入れる人」のことです。主イエスは、「大人が子どもを育てる」という関係性を超えて、「大人が子どもから神への信頼と謙遜さを学びなさい」と教えられたのだと言えます。

主イエスの子どもを祝福することから分かるのは、主イエスは律法の枠から解き放されている自由な神である姿です。弟子たちも、親たちも当時の価値観にとらわれていたのです。しかし、主イエスは人間の社会的な肩書や価値基準を根本からひっくり返す、神の国の価値観を示されたのです。主イエスは、「自分の善行、実績、地位、律法の知識などで神の前に自慢できるものは何もない」と自覚し、ただ神の恵みにすがるしかない貧しい心(謙遜な心)を持つ者こそが、天の国に入るのだと言います。神に対して計算や駆け引きをもせず、全面的に自分をゆだねる姿勢が、神への確かな信仰であると言うのです。

この主イエスの教えですが、すでにマタイ18章において語られたのです。マタイ18:2-5です。「イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。「子どものようになる」こととは、「自分には誇れるものが何もない」という無力さと謙遜さのことであり、無条件の「信頼」と「素直な受け入れ」のことです。心を入れ替えるという「回心」を指します。

聖書には人間の回心の物語がたくさんあります。それは神との出会いによって、心を入れ替えたことです。本当のことを言うと、そうせざるを得なかったほどの、神の圧倒的な愛に捉えられた経験です。ルカによる福音書15:11以下です。「放蕩息子の譬え」が記されています。父からもらった遺産をもって、父のところを離れた次男。彼が父のもとに戻ったのは、父の憐れみです。その憐みが働き、心を入れ替えることができたのです。ルカによる福音書19:1以下にある「ザアカイの物語」はどうでしょうか。富みを求めて生きていたザアカイでした。主イエスのところにきて、永遠の命を得る方法を求めた金持ちの青年のように、マンモンを神としていた人がザアカイ。しかし、彼は主イエスに出会いました。本当は主イエスが彼を探しにきたのです。周囲のユダヤ人からの批判が飛び込むことを知っているにもかかわらず、主イエスはザアカイに「あなたの家で泊まりたい」と言われました。これが主イエスの憐れみです。パウロの回心はいかがでしょうか。異邦人の使徒として神はパウロを選んでいた。それがやがて回心へと導いたのです。

私たちは先週「一万タラントンの恩寵に生きる」ことを聴きました。一万タラントンの重さはどのくらいなのか。1タラントンは当時の重量単位で約20〜30kgに相当します。1万タラントンを現代の重量に換算すると、およそ200トン〜340トンという桁外れの重さになります。新幹線の車両1両が約40〜45トンなので、新幹線のおよそ7〜8両分の重さです。誰が耐え得ましょうか。私たちはこの恵みを拒むことができるでしょうか。これが主イエス・キリストの贖いです。人間の回心の背後には、神の圧倒的な恵みと憐れみがすでに働いていたのです。それは目には見えませんが、また五感で感じることはできない。でも、徐々に迫ってきますし、それを拒むことはできないのです。人間がそのときできることは、無条件の「信頼」と「素直な受け入れ」のみではないでしょうか。神との駆け引きなんかはできないのです。

キリストは「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と言われました。今日、私たちが心に留めたい言葉は、「来させなさい」という主の御ことばです。直訳すると、「彼らが、私のところへ来るのを許しなさい」。「来るのを妨げず、そのままにさせておきなさい」となります。「来るのを許し、妨げるな」と重ねて言うことで、「神の恵みやイエス自身のもとへ進もうとする人を、人間側の都合や教理・地位の偏見で遮ってはならない」という主イエスの強い意思が示されています。

また、この「来させなさい」という招きは、自分の弱さや幼さを隠さず、そのままの姿で主のもとへ駆け寄ることを許してくださるとの神の愛の宣言です。私たちは自分の力で立派になろうとして神に近づくのではありません。むしろ、自分の弱さをありのままに認め、ただ神の深い憐れみにすがるしかないその心のなかにこそ、主は豊かに祝福を注いでくださるのです。

私たちが自分の「弱さ」や、誇れるものの無さに直面するとき、私たちはまさに神の前に立つ子どもとなります。私たちの社会では「弱さ=ダメなこと、隠すべきもの」と捉えがちです。ところが、私たちにとっての「弱さ」とは「神の前に虚しくなること」であり、「神に対して一番オープンな状態」になるべきです。申命記の箇所が語るように、主なる神がイスラエルを選ばれ、愛してくださったのは、イスラエルの民が、数が多かったからでも、強かったからでもありませんでした。同じく、私たちが神に愛されるのは、私たちが何か立派な業績を上げたり、強さを持っていたりするからではないのです。「自分には何もない」。「誇れるものなど何一つない」というその無力さ、弱さこそが、かえって神の圧倒的な恵みと一万タラントンの憐れみを受け取るための開かれた扉なのです。

私たちは、何歳になっても、天の御国に召される時でも、否、永遠に至るまで神の愛に包まれた子どもです。何かができるから愛されるのでも、選ばれるのでもありません。ただ、神が先回りして私たちを愛してくださるからこそ、私たちは神の子どもなのです。その無限の恵みを十字架において決定的に示してくださったイエス・キリストの招きに応えていきたいとい思います。子どものように、自分の弱さをそのままにしながら、主の愛のなかに一歩を踏み出していくことを願ってまいりたいと思います。