聖日礼拝 「一万タラントンの恩寵に生きる」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 詩篇 130篇 3〜4節
新約聖書 マタイによる福音書18章 21~35節
太平洋戦争末期の沖縄戦の最中、沖縄本島西側に位置する離島・久米島で実際に起きた、日本軍守備隊による「久米島守備隊住民虐殺事件」をご存じでしょうか。島に駐屯する日本軍司令官や兵士たちは、極限の恐怖と疑心暗鬼にとりつかれていました。彼らは「島民の中に米軍に通じているスパイがいるのではないか」という狂気的な不信感を募らせ、少しでも疑わしいとみなした善良な住民たちを次々と「スパイ」に仕立て上げていきます。その中には6歳の子どももいました。
その結果、言われなき容疑をかけられた20人の住民が無残に虐殺されました。さらにその中には、日本の敗戦を迎えた後(1945年8月20日)であってもなお、父親が朝鮮人であるという理由で命を奪われた家族7人が含まれていました。この事件については、のちに『久米島住民虐殺事件資料』(不進出版)としてまとめられたほか、韓国の作家キム・スムによって小説化され、昨年(2025年)には日本語版『沖縄スパイ』としても出版されました。
実はこの「自分が脅かされている恐怖から、他者を裁き、追い詰める」という人間の姿は、私たちが今日向き合う聖書の御ことば、マタイによる福音書18章の「一万タラントの借金のたとえ」に深く重なります。王から到底返しきれないほどの圧倒的な借金(莫大な憐れみと赦し)を帳消しにしていただいたはずの家来が、一歩外に出た途端、自分にごくわずかな額を借りている仲間を見つけたのです。その仲間に対し、家来は「金を返せ」と首を絞め、容赦なく牢屋に放り込みました。この姿が重なるのです。
私たちは、神から計り知れない命の恵みと赦しを受けて生きている者です。しかし、日常生活の中で少しでも不安や脅威、あるいは自分を脅かす「気に食わない存在」に出会うと、すぐにその受けた憐れみを忘れ、心の中で相手を「スパイ(悪者)」に仕立て上げ、心から裁いてはいないでしょうか。
私たちが歴史の痛ましい現実に目を向け、その過ちを問うことは、決して過去の他人のアラ探しではありません。それは、人間社会の中で失われがちである「神の憐れみ」の回復を求め、私たちが、改めて神の圧倒的な憐れみを希う(乞い願う)ことなのだと言えます。私たちは今日、歴史の痛ましい現実と御ことばの鏡の前に立ちつつ、私たちが神からいただいた「本当の憐れみ」とは何なのか、そして私たちはその憐れみをどう生きるべきなのかを共に深く見つめていきたいと思います。
ペトロは主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)と尋ねました。もしペトロにこう問われたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか。また、このような問いを、ふだん考えてみたことがおありでしょうか。人の罪や過ちを赦すことについて、その赦すことは権利なのでしょうか、それとも義務なのでしょうか。このペトロの質問は、正解を求める問いだと思います。「七回までですか」という言い方からして、すでに自分の中では答えを決めており、主イエスから「よろしい」と言われることを願っていたのかもしれません。また、「何回赦すべきでしょうか」と尋ねることで、その回数を満たせば義務は果たしたと言える。もしこうした狙いがあったとすれば、ある意味で自己満足に基づいた、律法主義的な考えがペトロの問いの中に潜んでいると言ってよいでしょう。
人の罪を赦すことに回数を問うべきであるのか。ここに問題があります。しかし本来、1回でも真心から赦すのであれば、つまり、ルカによる福音書15章の放蕩息子の譬え話に出てくる父のように、その人の困窮を深く憐れむのであれば、罪の赦しは1回で済むはずです。これに対し主イエスは、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)とお答えになりました。一つの罪に対して七の七十倍までも赦すように、あるいは、同じ人が何回も罪を犯したとしても、七の七十倍まで赦す。つまり490回までも赦しなさいということです。もともと、490回を数えること自体が難しいため、これは「罪の赦しとは数えるものではない」という比喩です。放蕩息子の父のように真心からの赦しとは、相手に対して犯した罪や、自分が施した赦しの記憶にとどめないことです。
罪の記憶という視点から考えてみると、私たちは他人の罪や過ちをずっと覚えています。そして、その人に対して施した赦しや行いさえも記憶し続けています。これが私たちの現実です。では、神はさらに問われます。自分が神に対して犯した数々の罪を、私たちはどれほど記憶しているでしょうか。「何月何日に、自分はとてつもない罪を犯し、そして赦してもらった」と、常に覚えているでしょうか。主は「490回赦しなさい」と言われましたが、それは言い換えれば、私たちが日々「神に赦してもらったことへの恵み」をそれほど深く覚えているかという問いかけでもあります。
主イエスは別のところでこう言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイ7:3-5)。私たちは自分の正しさをいつまでも記憶しているのに、他人が与えてくれた恵みや、自分が受けている赦しはすぐに忘れてしまいます。そして自分の中に「赦しの限界ライン」を引いている。「何回赦すべきでしょうか」とのペトロの問いは、恵みを忘れ、自分の中に「赦しの限界ライン」を引いてしまう私たち自身の姿をそのまま映し出しているのです。
私たちが覚えておくべきことは、赦しを数えることではなく、神の無限な憐れみの中に生きていることです。そして神の憐れみを日頃、行っているのだろうか、ということを覚えるべきです。それが主イエスの「仲間を赦さない家来の譬え」です。一万タラントン借金している家来は、主君からその借金を帳消しにしてやったのです。それは、家来の主君の「憐れみ」です。しかし、主君から一万タラントンの恩寵を与えられた家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を憐れもうとはしませんでした。
1デナリオンは当時の労働者(兵士や日雇い)の1日分の賃金です。100デナリオンはおよそ、5-6か月分の給料になります。1タラントンは、6,000デナリオンです。労働者の20年分の賃金です。1万タラントンは労働者の「6万年分の給料」、あるいは「6万人分の生涯賃金」に匹敵します。現代の日本の賃金水準から言えば、420億円-6,000億円です。一生働いても返せない、国家予算レベルの借金です。これが神の憐れみです。主イエスは「神の憐れみ」を数字に表したのです。しかし、この数字は神の「圧倒的な恵み」、一万タラントンの恩寵です。
27節です。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」とあります。「憐れみ」は「はらわたが痛み、激しく揺さぶられる」。「内臓から突き動かされるようにして深く憐れむ」という意味のことばです。単なる頭での同情ではなく、「相手の苦境を自分のこととして、内臓が引き裂かれるほどの痛みを感じ、じっとしていられずに行動を起こしてしまうほどの深い憐れみ」を表します。
マタイ9:36です。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。マタイ14:14です。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」。これは5000人の給食の直前の主イエスの憐れみです。マタイ15:32です。「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」。ここでは「かわいそうだ」と訳されています。主イエスのたとえ話の中では、ルカによる福音書10章のサマリア人の譬え話にも出てくることばです。「神の憐れみ」は、「圧倒的な恵み」です。それは「冷淡な傍観を赦さず、相手の苦しみを自分のものとして引き受けるような、熱烈で生々しい愛の行動」です。
33節です。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。この節には二つの憐れみが出てくるのです。前者の「憐れみ」は、神の憐れみです。後半の「憐れむ」(原語のエレオー)とは、「力を持つ者が弱い人に対して施す救済の行為や寛容さ」を意味します。その名詞形である「エレオス(憐れみ)」こそが、一万タラントンの恩寵に生きることです。罪人である人間からは本来、真の憐れみは生まれません。神の憐れみこそが、私たちの憐みの泉であって、そこから流れ出る神の愛を人間は思い出し、それを続けるのみです。これが主イエスの言う「心から人を赦すこと」(35節)ですが、自分の力や道徳的な心だけで、相手をねじ伏せて赦すことではないのです。
これは、私たちが神から途方もない罪を一方的に帳消しにしてもらった罪人であるかを深く自覚することです。そしてその「圧倒的な恵み」に満たされているからこそ、相手を自分の手で裁くことを辞める姿勢です。神の赦しの中に生かされている喜びの表れが、仲間への憐れみ(エレオス)です。私たちは時々、「あの人をもっと愛さなければ」と、また「あんなひどいことをされたけれど、クリスチャンなのだから心から赦さなければ」と、自分の心にムチを打って頑張りすぎてしまいます。それで自分の力で、自分の内側から「憐れみ、エレオス」を絞り出そうとして、疲れ果ててしまうのです。しかし、主イエスが示してくださった道はそうではありません。「一万タラントンの恩寵に生きる」とは、私たちが聖人君子になることではなく、ただ、自分がどれほど途方もなく、神の深い憐れみによって赦されているかという「泉」のほとりに、もう一度座り直すことなのです。
私たちは今日、再びその「一万タラントンの帳消し」をいただいた者としてここに立っています。だからこそ、もし今、私たちの心の中に「どうしても赦せないあの人」の顔が浮かんでいるとしても、焦る必要はありません。自分の力でその人をねじ伏せる必要もないのです。ただ、主なる神さまが私たちに注いでくださった、あの途方もない「はらわたが引き裂かれるほどの憐れみ」を思い出すこと。その圧倒的な恵みの泉から、ほんの一滴が、隣にいる人へとポタリとこぼれ落ちていく。そういう仕方でしか、私たちは本当の意味で、互いを赦し合うことはできないのです。
かつて歴史の中で、極限の不安や恐れに囚われた人々は、自分を守るために他者を疑い、心の中で「敵」や「スパイ」に仕立て上げて裁いていきました。しかし、一万タラントンの恩寵に生きる私たちは、もはやその恐れの支配に生きる必要はありません。主が注いでくださった圧倒的な憐れみの泉のほとりに今もう一度座り直し、自分を裁く者から、隣人へ「憐れみ」を注ぎ出す者へと変えられながら、それぞれの家庭へ、職場へと遣わされていこうではありませんか。
