聖日礼拝 「キリストの名によって集まる」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 申命記 19章 15〜21節
新約聖書 マタイによる福音書18章15~20節
私たち人間にとって最大の病、あるいは「死に至る病」とは何でしょうか。また、私たちは身近な人に深く傷つけられたとき、その痛みと怒りをどう終わらせればよいのでしょうか。おそらく、私たちはその痛みを終わらせようとして、「相手を謝らせる」とか。「自分の正しさを証明する」とか。「関係を断ち切る」といった方法を選びがちです。しかし、それらは本当の解決にはならず、心の怒りや苦しみは残り続けます。なぜでしょうか。
デンマークの哲学者キルケゴール(1813-1855)は、彼の主著『死に至る病』(1849)において、罪について鋭く定義しています。この根底には「自分で自分を救おうとする罪」があると語りました。彼によれば、そこには二つのパターンがあります。一つは、「自分の力、つまり道徳や正しさで自分を救える」との思い込みです。もう一つは、「自分の罪は深すぎて、神の赦しなど届かない」と絶望して開き直ることです。一見すると、「謙虚に自分の罪を認めている」ように見えます。ところが、実をいうとこれは「神の慈悲の大きさを自分の絶望の小ささ、あるいは自分の頑なさで測り、神の赦しさえも拒絶する」状態です。
主イエスは、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)と言います。もし、聞き入れなければ、二人、三人の証人を伴っていきなさいと仰せになります。「それでも、聞き入れなければ、教会に申し出る」(17節)ようにと。また「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、罪の赦しに積極的にかかわるように仰せになりました(18:15-17)。
私たち人間は神の前に一人ひとりの「単独者」として絶望し、自分の罪を自分で背負い切れずに苦しんでいます。しかし、主イエスは孤立した私たちをそのまま放置なさいません。その自己義認を捨てて神の赦しに身を委ねるよう招いています。だから主イエスは、「兄弟を得るために」まず相手のところへ行きなさいと命じられるのです。私たちが互いの罪や弱さから逃げずに向き合い、その泥臭いプロセスを通して、「お互いの正しさを主張し合う裁判(断罪)」を終わらせるために、主は罪の赦しの道を示しておられるのです
では、なぜこのプロセスが必要なのか。それは、私たちが自己愛やプライドの殻を打ち砕かれ、神の前に「ただ赦されるべき一人の罪人」として立ち返ったとき初めて、キリストがその中心に臨み、私たちの中で本当の平和と新しい交わりが始まるからです。そのために、この「罪の赦し」の約束が与えられているのです。
その目的は、あくまでも兄弟を得るためです(15節)。「失いかけた関係の修復」です。敵ではなく「兄弟(家族・友)」として共に歩む仲間を取り戻すことです。罪やわだかまりに囚われて、滅びに向かいそうになっている相手を、父なる神の赦しと愛の光の中に連れ戻すことです。「父なる神が私たちに与えてくださる恵みと言える、かけがえのない人間関係、絆・赦しという宝が、人生において一番大切なものなのだ」ということです。
キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもその中にいる」(20節)と仰せになりました。これは私たちが誰かを赦し、本当の意味で「兄弟(仲間)を得る」とき、そこには主イエスご自身が臨場してくださるという最高の約束です。人間の側の神を拒絶する罪(絶望)よりも、キリストの「どこまでも追いかけて赦し、つなぎ留める愛」の方が圧倒的に勝っているという深い恵みのメッセージです。
私たちにとって、互いに罪を告白することが信仰において重要なことです。罪を犯した人と一人、二人、三人、そして教会全体が関わる。それは、人の罪を教会の罪として受けいれることです。そして赦しのためにかかわる人も、その関わることを通して自分の罪に気づくのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)とは、互いに罪を告白し合いながら、互いの罪を赦し合うことのお勧めです。
主イエスは「主の祈り」において、「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」と祈るようにされたのです。「私たち」とは、「教会全体」を指すと思います。「人」とは、まさに私たちに対して罪を犯した人です。ならば、罪の赦しのためにかかわるとき、まず神に許しを求めて祈り、その後、「忠告」する。これが本来の兄弟の罪を赦しの「プロセス」です。
ここで主は、教会全体が罪と関わるように仰せになったのです。これは罪を明るみに出すということです。「忠告」(elencho)とは、「指摘する・明るみに出す・戒める」の意味ですが、「正しさに気づかせるために明るみに出すという意味合いが強い」言葉です。単に「アドバイスをする」という優しい響きではなく、相手が罪や過ちから立ち返るように、真実を直視させるという厳しさと愛が内包されています。罪は隠すべきものではないのです。罪は人の前で告白すべきものです。
告白することは、神が赦してくださるとの信仰が前提とされています。告白すると、すでに赦しの祈りは始まるのです。アダムとエバに神は、どうしてあなたたちは自分たちを隠したのか、と仰せになったのです。神は彼らのところに探しにきたのです。先に告白すべきことを、彼らがしなかったゆえに、神はわざわざ隠れた場所に訪れました。神が聞きたかったのは、「罪を犯しました」「お赦しください」という罪の告白でした。
では、なぜ告白すべきなのか。どうして明るみにだすべきなのか。それは罪の特徴を神はすでに知っておられるからです。罪は小さきものです。善悪を知る木の実をとって食べたこと、ちっぽけなことです。そこから罪は雪だるまのように大きくなり、解決できなくなるのです。私は罪を「心の炎症」に例えることができると思います。最初はほんの小さな擦り傷のようなものであっても、それを「大したことない」「見なかったことにしよう」と放置しておくと、やがて化膿し、体のバランスを崩し、最終的には取り返しのつかない致命傷になってしまいます。
だからこそ、主イエスがマタイ18章で示された罪の告白のプロセスには、深い意味があるのです。まず「行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)と言われました。これは、炎症がまだごく初期の、本人同士の小さな痛みのうちに対処するための「最初の処置」です。傷が深く広がる前に、愛をもってその真実を直視し、お互いの絆を守ることです。しかし、もしその初期段階の処置を怠り、放置してしまうと、炎症は周囲を巻き込み、膿んでしまいます。だからこそ、聞き入れなければ二人、三人の証人を伴います(16節)。それでもダメなら教会全体という公の場に出して(17節)、膿を出し切る必要があるのです。
もちろん、それは誰かを断罪して切り捨てるためではありません。炎症が全身に回って死に至るのを防ぐためです。そして何より、失いかけたその人との関係をもう一度「兄弟」として取り戻すための、痛みを伴う愛の治療プロセスです。またここで注意しなければならないのは、「個人の罪の責任を、教会の「お互い様」という空気の中に曖昧に溶かしてしまうこと」ではないということです。罪の重さは決して不問にされません。
それにもかかわらず、なぜ主は二人、三人、そして教会全体が関わるように命じられたのでしょうか。それは、他人の罪を「自分とは無関係な問題」として切り捨て、傍観者でいる私たちの冷たさをも問いつつ、その傷や罪を教会全体が我が事として引き受け、共に担うためです。つまり罪を犯さないように互いを守り合うためです。一人ひとりが自分の罪に気づき、互いに罪を告白し合いながら、キリストの十字架の前に引きずり出されていくのです。
17節の後半です。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、キリストは仰せになります。「異邦人」と「徴税人」とは、神の民の輪から外されていた人々です。ルカによる福音書19章の「ザアカイの物語」から分かるように、「罪人」の代名詞が、「異邦人」と「徴税人」です。社会から嫌われていた人々でしたが、でもキリストは彼らの友になったのです。「同様に見なしなさい」ということですが、キリストの友であり、キリストの救いの必要な人と受け入れることです。罪深い者だから切り捨てるのではなく、罪深い者ではあるが、切り捨ててはいけない。
これは、キリストの愛の逆説です。互いの罪の赦しのために、共に気づき合うこと、告白し合うこと、罪を自覚させ、再び本当の意味で神のもとに立ち返らせるための、痛みを伴う愛による行いは、私たちの悔い改めの祈りです。とりなしの祈りです。主なる神はかならずそれを叶えてくださると、キリストは仰せになります。たとえ、それが二人、三人の少ない人々の信仰による営みであっても、そこにキリストは聖霊において共に執り成してくださるのです。
私たちはキリストの名によって集うことが許されています。これは父なる神の赦しによる恵みです。そして私たち一人一人がここからさらに、キリストの名を背負って派遣されるのです。たとえ、一人一人の歩みであっても、また、単独者のような歩みのように見えても、聖霊によって一つの群れとされています。一人一人が互いのことを覚えて祈るときと場所、そこにキリストは臨在してくださるのです。そこで私たちの営みは、「人間の罪が正しく問われる場」とされるのでしょう。」。「神の赦しが現実において起こることを願うこと」ではないでしょうか。共に悔い改め、共に取り成すのです。どうしてでしょうか。人間にとって「死に至る病」である罪とその痛みを、ただ関係の打ち切りによって、私たちが解決できないからです。
キリストは「二人または三人がわたしの名によって集まるとき、わたしもその中にいる」(20節)と仰せになりました。それぞれが離れた場所にいても、心を合わせて私たちが誰かを赦し、それによって本当の意味で「兄弟を得る」とき、そこには主イエスご自身が臨在してくださるのです。この最高の約束を信じて、それぞれの場所において、託された歩みを全うしていきましょう。
