聖日礼拝 「つまずきを超えて、共に生きる」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 詩編 131編1~3節
新約聖書 マタイによる福音書18章 1~9節

イギリスの作家、A.J.クローニンの名作『天国の鍵』(The Keys of the Kingdom、1941年)という小説があります。おそらくご存じの方もおられると思います。これはカトリックの神父が主人公ですが、プロテスタント教会でも広く愛読されている作品です。「キリストに従う生き方」、また「神の前のへりくだり」といった普遍的な信仰の真理への深い洞察を与えるものです。この小説には二人の対照的な神父が登場します。一人はフランシス・チザムで、もう一人は彼の幼なじみであるアンセルモ・ミリー神父です。

主人公のフランシス・チザムは、スコットランド出身の、何の野心も持たない一人の司祭でした。彼は教会での出世や名誉には目もくれず、ただ目の前にいる一人の人に、どこまでも誠実に寄り添い続けます。やがて彼は、貧困と疫病が猛威を振るう、中国の辺境の地へと宣教師として派遣されました。そこで彼を待ち受けていたのは、強い偏見と敵意、そして幾度もの過酷な苦難でした。しかし、チザム神父は決して人々に信仰を押し付けたり、無理に改宗を迫ったりはしませんでした。彼はただ、医術をもって病に苦しむ人々の体をいやし、飢えた人々に食べ物を与え、見返りを求めない無条件の愛と奉仕を捧げ続けたのです。

教派や宗教の壁を超えて、どこまでも低くなり、人々に仕えていくチザム神父の姿。その真摯な生き方は、最初は心を閉ざしていた地元の人々や、神を信じない無神論者の医師、さらには厳格だった修道女たちの頑なな心をも、少しずつ、温かく溶かしていきました。名誉や地位とはまったく無縁のまま、彼は激動の時代を中国の地で捧げ尽くし、やがて老いて、懐かしい故郷へと帰ることになります。その旅立ちの時、見送りに集まった中国の人々は、彼にこう告げました。「私たちは、あなたと天国で再会したいのです。そのために、私たちは神様を信じます」。

しかし、もう一人のアンセルモ・ミリー神父は、雄弁で世渡りがうまく、目に見える業績を次々と上げていきます。彼は、主教、大主教へと出世するのです。世間の評価や教会内での地位から見れば、チザムの生涯は「報われないもの」に見えるかもしれません。しかし彼が示し続けたのは、名声や権力を求める心ではなく、まことの謙遜と愛でした。自らを低くしてただ目の前の人に仕えるチザムの生き方こそが、キリストの示す「天国への鍵」そのものでした。自分を誇らず、小さくなって仕える「謙遜と愛」が、天国の扉を開く鍵であるということを、著者クローニンが『天国の鍵』を通して描こうとしたことだと思います。私たちは普段、誰が偉いか、誰が評価されているかという世の中の尺度に縛られがちです。しかし父なる神がご覧になる「偉大さ」とは一体何でしょうか。これはまさに、今日読むマタイによる福音書18章で主イエスが語られた「まことの偉大さ」という教えと重なります。

1節で弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねました。弟子たちはなぜこのような順位争いを始めたのでしょうか。彼らは直前、主イエスから「わたしは苦しみを受け、殺され、復活する」(17:22-23)という十字架の予告を聞かされたばかりでした。主イエスが最も低くなり、命を捨てようとしておられるその傍らで、弟子たちは「誰が一番上か」という地位や名誉の奪い合いをしていたのです。ペトロが目立ったことで周囲に嫉妬が生まれ、後にはヤコブとヨハネの母親までもが「私の息子をイエス様の左右の特等席に」と頼み込み、ほかの弟子たちが激怒する(20:20-28)。主イエスの御心から遠く離れたこの「自分が一番でありたい」という誇りと争いこそが、お互いを深くつまずかせる原因となっていました。

神の国で「誰が一番偉大な者ですか」との問いに対して、主イエスは「子どものようになること」とお答えになりました。3節と4節です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。また、主イエスは「子どもを受け入れる人は、主イエスを受け入れることである」と言われます。当時の社会において「子ども」とは「もっとも弱い存在」、「自力で生きていけない人」の象徴でした。誰かの助けなしには、今日を生きることすら困難な、極めて弱い立場におかれた人々でした。自らの力だけでは立ち上がることができない、孤独で無力な存在が主イエスの言う「子ども」です。

ならば、「子どものようになる」ということは、自分自身の力や誇り、実績に頼るのではなく、自分の無力を認め、神の恵みにすがる姿勢のことです。本日共に読まれた詩編131編で、詩人は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と歌いました。幼子は自力で食べ物を得ることも、自分を守ることもできません。ただ母親の腕の中で全面的に信頼し切っています。このように、自分の無力を知り、神の腕の中に委ね切る人の口からは、「神さま、私はあなたなしには生きることができません」という祈りのことばが自然と出てくるのではないでしょうか。

主イエスは子どもを受け入れることが、主イエスを受け入れることだと言います。主イエスにとって「子ども」とは、社会的な弱者だけではなく、ただ主イエスだけを頼りに生きる「主を信じる者たち」をも指しているのです。マタイによる福音書25:31-46には、「終末のときに主イエスがすべての民族を裁く」というたとえ話が記されています。天の国において神の右に座るように命じられた者は、飢えている人、乾いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人など、社会的に弱い立場にいる人々を「わたしの兄弟であるこれらの最も小さな者の一人」とみているのです。そして彼らに対する行為を、キリストは「私にしてくれたこと」として受け取ります。単なる知識や言葉としての信仰ではなく、具体的な愛の行いこそが真の信仰の表れであるとの教えです。

これらの行いができるのは、受容の態度の変化からです。まず自分自身が「子どものように謙遜になる(自分を低くする)」ことが求められます。自分が傲慢なままだと、弱い存在を「価値のないもの」と見下してしまうからです。それが「つまずかせること」です。新約聖書が書かれたギリシャ語で「つまずかせる」は「スカンダリゾー(skandalizo)」という言葉が使われています。英語の scandal(スキャンダル)の語源です。これはもともと「罠の仕掛け」や「引き金」を意味していました。そこから転じて、「相手を罪や不信仰に引きずり込む罠を仕掛けること」「人の信仰を転ばせる障害物となること」を指します。人間同士の間の「つまずき」とは、単に気分を害させることではなく、互いに罪を犯させ、神から引き離してしまうことなのです。

ゆえに、キリストは厳しいことばを重ねられるのです。「わたしを信じるこれらの小さな者をつまずかせる者(罪の罠に陥れる者)は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである」(6節)。また18:8節で主は「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい」と言います。「片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」(9節)。

信仰の道を歩もうとする人の足を引っ張り、その人を神から引き離すこと、また自分自身の手や足で罪を犯し続けることとは、単なる「不注意」や「失敗」ではありません。それは聖なる神に対する罪です。罪の中では、まことの交わりも、互いの存在を認め合うことも生まれません。そこにあるのは存在への無関心であり、相手の明日や将来を憂うことさえないのです。交わりの断絶でしょう。キリストが「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言ったのは、キリストの交わりの中に受け入れることであり、受け入れる人も、受け入れられる人もともにキリストの交わりに預かることです。それは、キリストご自身が両方をご自身の交わりに招くことです。そしてキリストが最も小さくされた者になったのだから、キリストの交わりに招かれないほどの無価値な者はいないのです。

キリストは私たちに子どものようになるようと、また子どもを受け入れるようにと、さらに小さい者を躓かせないようにと言われました。それはキリストご自身が弱い兄弟のために十字架の道を歩まれたからです。では、いったい小さい者とは誰なのか。それは自分を誇り、自分自身に頼る者であります。私たちです。神の助けなしには永遠の御国に入ることのできない者、まさに私たちです。その恵みを忘れてしまい、時には他者の信仰を壊してしまう私たちが、小さい者です。そして罪を犯し、アダムとエバのように神の前から自らの存在と行為を隠します。心からは神から遠ざかろうとしている私たちが、自分は大した者だと思い込みながら、実は最も小さな者なのではないでしょうか。罪人でありながらも、なおそれを隠し、自らは義人であろうとする、心の頑なな私たちです。キリストはこの私たちを受け入れてくださり、キリストの交わりへと招いてくださったのです。

先ほど、「つまずかせる」という罪の重さのことを申しました。それは「目をえぐり出して捨てること」「石臼を首にかけて海に沈むこと」「片手や足を切って捨てること」でした。罪はそれほどの苦しみと恐ろしさを伴わせるものです。これからもし私たちが誰かを『つまずかせる』ならば、私たちは主イエスが命じられた(それほどの厳しい)処置を行わねばならないのでしょうか。しかし、それを行うことで私たちは救われるのでしょうか。いいえ、その苦しみを主イエスは十字架の上で担ってくださいました。自分の足を切るような罪の裁きと苦しみ。本来私たちが受けるべきその痛みを、主イエスはご自身の十字架の上で代わりに担ってくださいました。

キリストが私たちの痛みと苦しみをすべて担ってくださったからこそ、今日、私たちはこの恵みの交わりに招かれています。キリストご自身が自らを低くし、子どものようになってくださった。だからこそ主は私たちに、「子どものようになりなさい」「小さき者を受け入れなさい」と呼びかけられるのです。そして、子どものように自分を低くしようとする人を、喜んで受け入れなさいと。また、誰もが安心して自分の弱さを差し出し、ありのまま(子どものように)神様により頼める環境を作ってあげなさいと、主は私たちに語りかけておられます。

説教の冒頭でお話しした小説『天国の鍵』には、二人の神父が登場しました。もし彼らに順位をつけるとしたら、一番はフランシス・チザム神父でしょうか。そしてアンセルモ・ミリー神父が二番手でしょうか。確かに私たちは、誰かと比較して「あの人が一番、自分は二番」と序列をつけがちです。あるいは、その逆(自分を上にして人を見下すこと)も簡単にできてしまいます。

では、神様の前に立つとき、誰かと比べて互いに評価し合うことなどできるでしょうか。これこそが、キリストが私たちに投げかけておられる問いではないでしょうか。「あなたは誰と比べて誇ろうとしているのか。何によって自分を証明しようとするのか」と。キリストは言われました。「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と。人類の歴史の中で、最も低くなり、最も小さくなられたお方。それこそが、主イエス・キリストです。最も小さくなられたそのお方こそが、最も偉大な救い主であり、私たちは今、この方の恵みによって生かされ、仕える者とされています。

けれども現実に目を向けるとき、私たちの力だけでは、自らを低くすることも、人を本当の意味で受け入れることもできません。自分の誇りを捨てられないのが、私たち弱き人間です。だからこそ主は、私たちに助け主である「聖霊」を与えてくださいます。聖霊が私たちの頑なな心を溶かし、キリストの愛で満たしてくださるとき、私たちは初めて、自力を手放して父なる神により頼む「子どものような心」へと変えられていくのです。私たちの内に働かれる聖霊の力によって、私たちは互いに仕え合う者へと造りかえられていきます。

今週の歩みにおいて、このように祈りつつ、主に仕えていこうではありませんか。「神様、私には誇れる義など何一つありません。私は神の国において、最も小さな者です。どうか、キリストが命を捨ててまで愛された尊い魂に、この世の小さく弱い人々に仕えることができるよう、私を励ましてください」と。私たちの歩みを通して、キリストの謙遜が表されますように。そして、世のつまずきの中で苦しんでいる小さき人々に、生きる希望と天国の光が照らされますように。共に祈り求めていきましょう。