聖日礼拝 「自由だからこそ、愛のために」
説教 崔 炳一 牧師
旧約聖書   出エジプト記 30章11~16節
新約聖書 マタイによる福音書17章24~27節

課せられた「義務」と私たちの日常

本日、私たちに与えられた聖書の箇所は、主イエスと弟子たちがガリラヤ湖畔の町、カファルナウムに到着した場面から始まります。カファルナウムは、主イエスが宣教の拠点とされ、数々の奇跡を行い、多くの教えを語られた場所でした。しかしこの親しみ深い町においてペトロは、神殿税を集める者たち「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と、思いがけない問いかけを突きつけられるのです。

ここで語られている「神殿税」という言葉は、現代の私たちにとっては、馴染みのないものです。これはイエスの時代、ユダヤ人たちが納めていた「宗教税」のようなものです。この「神殿税」の歴史的な根拠は、出エジプト記30章11節以下の律法にさかのぼります。そこには、神がイスラエルの民に対し、荒れ野の移動式神殿(幕屋)を維持し、礼拝の秩序を守るための「命の贖いの献金」を納めるよう命じられた規定が記されています。神の前にはすべての命が等しく尊いものであるという信仰に基づき、豊かな者も貧しい者も同じように半シェケルを納めることとされていました。イエスの時代、20歳以上のユダヤ人男性には(一説には55歳まで)、毎年神殿税を納める義務がありました。

また、この義務は、パレスチナ地方に住む人々だけでなく、世界各地に散らばっていたユダヤ人(ディアスポラ)にも課せられていました。集められた税金は、エルサレムの神殿で毎日捧げられる生け贄などの費用を賄うために使われました。その額は旧約聖書に書いてある通り「半シェケル」であり、当時の労働者の約2日分の給料に相当します。決して払えないほどの暴利(法外な額)ではなかったと言われていますが、この神殿税は貧富の差に関係なく「一律」で課せられました。そのため、日々の暮らしがギリギリだった貧しい人々にとっては、決して小さくない負担でした。

世のルールに従わなければ生きていけない、しかし、それでは神の前に誠実であることができないという葛藤は、今の私たちにとっても決して他人事ではないと思います。押し寄せる世の波の中で、私たちは知らず知らずのうちに、神との親密な交わりや信仰の純粋さを後回しにし、形だけの義務をこなすことで、自らの魂を乾かしてはいないでしょうか。

律法主義の罠と歴史が物語る葛藤

ところが、主イエスが予言された通り、紀元70年にユダヤ戦争が勃発し、エルサレム神殿はローマ帝国によって完全に破壊されてしまいました。その後、ローマ帝国はユダヤ人に対し、ローマの「ジュピター神殿」のために納税せよという、残酷な命令を下します。「ジュピター」とは「ゼウス」のラテン語名です。これが「ユダヤ人税(フィスクス・ユダイクス=ユダヤ人国庫)」と呼ばれる人頭税です。当時のユダヤ人、とりわけ「ユダヤ人キリスト教徒」にとっては苦悩の種となりました。異教の最高神である「ジュピターの神殿」を維持するために税を払うことは、信仰の裏切りであり、偶像礼拝に魂を売ることになるからです。しかし、もし納めることを拒めば、今度はローマ帝国への反逆者として、命すら危うくなるのは目に見えていました。

24節に、「一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、『あなたたちの先生は神殿税を納めないのか』と言った」とあります。実は、徴税人たちがペトロに放った問いは、単なる事務手続きとしての質問ではなく、非常にトゲのある問いかけでした。神殿税を集める者たちは、主イエスを試そうとしたのです。「もし神殿税を払わないと言えば、この新しいラビ(教師)は、神殿や律法を軽んじる反逆者だとしてレッテルを貼ることができる。逆に、おとなしく払うなら、既存の神殿制度に従う平凡なユダヤ人にすぎないではないか」。

神殿税を納めることが「神を愛すること」と直結させられる世界では、納めない人は「神を愛していない人」とみなされます。税を納めないことは、律法の掟を破る罪となるのです。このような世界では、人間の本当の自由は妨げられてしまいます。それはまるで、「臣民としての義務を果たす限りにおいて、信教の自由を有す」とした明治憲法の思想にも似ています。天皇の御真影に頭を下げない自由を駆使した途端に、「非国民」という烙印を押されてしまうような空気です。律法主義社会は人間の心の自由を奪い、人はその不自由さの中で、かえって罪を犯してしまうのではないでしょうか。

主イエスは「心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するように」と仰せになりました。神を愛し、礼拝することには、本来何の強制もありません。主イエスは常に人間の自由意志を重んじ、それを妨げたことは一度もありませんでした。しかし、ペトロは違いました。「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と問いかけられたペトロは深く考える間もなく「納めます」(25節)と答えました。彼は、世間の常識や周囲の目に合わせておこうと考えていたに違いないと思います。彼の心はまだ、律法主義の恐怖や同調圧力から自由ではなかったのです。

私たちは日々「キリスト者としてどう生きるか」に悩みます。世間のすべてが聖書的ではない現実の中、時に浴びせられるトゲのある問いにハラハラし、ペトロのように世間の常識に合わせて妥協的な選択をしてしまうことはないでしょうか。主イエスの元へ駆け込み、窮地を逃れようとしたペトロの姿は、世間の波に揺れ、葛藤しながら必死に生きている私たち自身の姿そのものなのです。

人を「つまずかせない」というキリストのへりくだり

25節から27節には、主イエスとペトロの「神殿税」をめぐっての対話が記されています。「『シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか』。ペトロが『ほかの人々からです』と答えると、イエスは言われた。『では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう』」。ここで主イエスは、「王の子ら、すなわち神の子である自分たちは、本来なら貢ぎ物を納める義務から免除されている」と主張されます。神の神殿に対して、御子であるイエスが税を納める必要はないという論理です。なぜなら、主イエスこそが「神の子」であり、神殿そのものであるからです。そして神を「天の父」と呼ぶ神の子どもたちもまた、本来はこの税を納めなくてよいのだと言われます。

しかし主イエスは、彼らを「つまずかせないために」、あえてご自身の正当な権利(免税の特権)を放棄することを選ばれました。特権を絶対視せず、むしろこの世の秩序をあえて受け入れる選択をされたのです。ここでいう「つまずかせる」とは、不必要な誤解や対立を生むことで、本来最も大切であるはずの「福音(良き知らせ)」が人々に届かなくなってしまうことを意味します。これこそが主イエスの謙遜であり、やがて十字架へと向かう神の愛の姿そのものです。

この出来事から、私たちは現代を生きるキリスト者としての姿勢をさらに深く掘り下げて考える必要があります。私たちは「世の光、地の塩」(マタイ5:13-16)として生きるようにと召されていますが、それは具体的にこの世のルールや社会構造と、どのように関わることを意味しているのでしょうか。キリスト教の歴史において、教会は常に国家や社会権力との関係性に頭を悩ませてきました。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)という主イエスの有名な言葉があるように、私たちは地上に生きる市民であることと、天の御国に属する神の子どもであること、「二重の市民権」を持っています。

一部のキリスト者たちは、この世の汚れや不条理から完全に身を引くために、隔離されたコミュニティを作ったり、社会のあらゆる義務を拒絶したりする道を選びました。しかし、主イエスがペトロに示されたのは、社会からの逃避ではありません。むしろ、社会システムという神殿税の徴収のただ中に身を置きながらも、それをつまずきとさせないために、信仰をもって関わる道でした。

このことは、私たちにとっても、非常に実践的な知恵となります。私たちが納める税金が、必ずしも自分の望む平和的な目的のためだけに使われていないと感じることもあるでしょう。社会の法律や規則が、非効率的であったり、不条理であったりすることもありますでしょう。しかし、キリスト者は自らの「正しさ」や「自由」を掲げてそこでただ反発するのではなく、より高い目的、すなわち「福音の証し」のために、その秩序を甘んじて受け入れる自由を持っているのです。これは、不義への屈服ではありません。むしろ、社会のルールに縛られているから従うのではなく、「人を愛し、つまずかせないために、自らの意志で従うことを選ぶ」という、圧倒的な精神的優位に立った自由です。私たちはルールに従わされている奴隷ではなく、愛のためにそのルールさえも包み込む「神の子ども」なのです。

日常の備えを信じて、愛の「第三の道」を歩む

主イエスはペトロにこう言います。27節の後半です。「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。おそらく主イエスは、手元にすぐお金を用意することも、あるいは奇跡によってその場に銀貨を出現させることもできたはずです。しかし、非常にユニークな、しかも奇跡的な解決を主イエスは提示されています。その一つは、「つりをすること」です。湖でつりをすることは、漁師であるペトロにとって日常的な慣れ親しんだ営みです。でも、今回のつりは性格が違います。それは「最初に釣れた魚の口から、銀貨一枚を見つけること、それを取ってくること」でした。今まで、経験してないことをペトロは命じられたのです。

  つりをすることは、現実的なことです。それに対して、魚の口から銀貨を取ることは非現実的で、不思議なことです。しかし、それは神の備えです。これは「神のユニークな摂理と十分なケア」のことだと言えます。また、主イエスは「銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と言われます。神は自然(魚)を通じて、主イエスとペトロの2人分の必要をちょうど満たしてくださるのです。最初の問いに戻りましょうか。24節です。「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」です。しかし、主イエスはペトロの分まで配慮してくださったのです。

私たちは、様々な不安やプレッシャーに常にさらされています。そういう場所とときに、神が思いもよらない方法で備えてくださるのです。神の奇跡が行われる場所はどこなのか。またいつなのでしょうか。また何を神の奇跡だと言えばよいでしょうか。例えば、もうこの人はこれで終わりです、と医師から宣告された人が、急に癒されること。確かに神の奇跡でしょう。神には十分可能なことだと信じています。その場所はどこでしょうか。私たちの現実という場所です。また、神は、私たちが自分の自由を、神の愛を行うために、すなわち他者を生かすために用いようと決断するとき、そこに「奇跡的な備え」をもって必ず伴走し、支えてくださるお方なのです。

イエスの十字架と神の自由

神は主イエスを十字架につけない自由がありました。しかし、神は私たちの贖いのために、ご自身の権利を一歩退かせ、譲ってくださいました。これが、神の現された最大の「義(正しさ)」であり「愛」です。私たちが今日、この礼拝の場に集い、自らの罪が赦されていることを喜び、不条理な世界の中でもう一度顔を上げて立ち上がることができるのは、他でもない神ご自身が、「愛のために自由を用いた結果」として、私たちを救ってくださったからです。それを私たちは「恵み」と呼びます。

本日、私たちはこの礼拝の場所から、それぞれの家庭、職場、学校という、個々に与えられた日常の派遣先へと赴きます。私たちの正しさや信仰の熱心を示すとき、私たちは「自分が正しい、間違っていない」と声高に権利を主張する前に、まず一歩立ち止まりましょう。その私たちの言葉、その態度が、本当にあの十字架へ歩まれた主イエスのへりくだった姿を証ししているのか、それとも、自分の正義感を満足させているだけなのかを、神の前に静かに確かめてほしいのです。

そして、本来の目的である「福音」が守られ、目の前の他者がつまずかないために、あえて自分自身の権利や主張を「一歩譲る」という、キリストの「へりくだりの愛」を選び取っていきましょう。その時、私たちの神は必ず、極めて平凡な日常の歩みのただ中に驚くべき方法で介入し、豊かな摂理とケアをもって、すべての必要を満たしてくださいます。この確かな神の約束を信頼し、今週もしなやかに、愛のための自由を生き抜いてまいりましょう。