聖日礼拝 「あなたの罪は赦される」
説教 内田 聡 長老
旧約聖書 ダニエル書 7章13~14節
新約聖書 マルコによる福音書 2章1~12節
本日は、マルコによる福音書2章1節から12節を通して、「あなたの罪は赦される」というイエス様の御言葉に聴きたいと思います。
この記事で私の目を引くのは、中風の人をイエス様のもとに連れてくる四人の男です。4節、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」。これを目にした大勢の人は驚いたと思います。しかし、その記述はありません。屋根をはがし、穴をあける時の「ドン、ドン、ドン」という振動を感じなかったのでしょうか。
この記事による説教を何回か聞きましたが、この点に注目したものはありませんでした。現代なら器物破損と不法侵入というべき、罪深い行動です。
ところがイエス様は「その人たちの信仰」を見て」、彼らが連れて来た中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。なんだかポイントが逸れていると思いませんか。そこは、四人の男に「あなたがたの罪は赦される」と言うべきでしょう。「人の家の屋根をはがし、穴をあけるなど罪深い行動だけれども、中風の人を思いやる あなた方の熱意は伝わった。」ということです。「諸君も、彼らのように隣人を愛しなさい。“情けは人の為ならず”というではないか。」 このメッセージならば、どこかで聞いた気がします。しかし、イエス様は、そのように言われませんでした。
この記事には、他にもポイントが逸れている者がいます。屋根をはがして穴をあける「ドン、ドン、ドン」という音が聞こえないかのように、イエス様の御言葉に反応する律法学者たちです。7節、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 ごもっともな理屈ですが、彼らに中風の人は見えているのでしょうか。人が癒されることより、癒される手続きの方が気になる。現代でも、このようにして論点をすり替える、頭のいい人たちを見かけますね。
四人の男が非常識な振る舞いをするのは、らい病人がイエス様に清められたという噂を聞いたからでした。一つ前に書かれている記事です。実は、この噂のためイエス様はしばらく町の外に退かれました。噂を聞いた人が奇跡だけを求めて押し掛けたからです。
イエス様が再び町を訪れた数日後、2節に「御言葉を語っておられる」とありますから、人々にようやく聞く姿勢ができたのでしょう。律法学者も聞くべき話があると思ったのかもしれません。その静寂を破るかのように天井から「ドン、ドン、ドン」。四人の男と中風の人は、奇跡目当ての場違いな闖入者なのです。
イエス様は、この非常識な四人の男に信仰を見ました。静かに イエス様の御言葉に耳を傾けていた人々や律法学者ではありません。場違いな闖入者に信仰を見るのです。彼らは中風の人を癒してもらおうと必死です。なりふり構っていられません。隣人への愛と、イエス様に頼む神の愛だけで来ているのです。イエス様は、その姿勢を四人の男の信仰と見ました。その信仰によって、中風の人は癒されることになります。
この当時、病はその人の罪の結果であると思われていました。病人は罪人だったのです。病人は汚れた者として、人々から距離を置かれていました。四人の男が、中風の人の友達なのか肉親なのか分かりません。何者であれ彼らは、自らが汚れることを恐れないのです。イエス様が、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた時、彼らの心の中にも一筋の光が輝いたでしょう。罪の赦しは病が癒されることだからです。
律法学者ならば、「どうして中風になるか」を、長々と講釈するかもしれません。しかし、罪の原因をどんなに語られても、罪がなくなるわけではありません。律法の知識は罪を明らかにするだけで、罪から救うことはできないのです。四人の男は罪を客観的に眺めません。罪ある人間であることを受け入れ、その罪からの救いを求めています。
律法学者は心の中で呟きます。7節、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。」それは、癒しの業への嫉妬ではありません。中風の人への癒しを凌ぐ、重要な関心が彼らに迫っているのです。
癒しの業をする者なら知っている。奇跡を商売道具にして自分に注目させたいのだ。ならば大袈裟に言うだろう。「起きて、床を担いで歩け」と。奇跡が起きれば拍手喝采、感謝の献金が宙を舞う。しかし、この男イエスは違う。「子よ、あなたの罪は赦される」と。なんという物言いだ。「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 この男、イエスとは何者か。
イエス様は語ります。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
「人の子」とは、イエス様が自らの呼び名として用いられるものです。旧約聖書では預言者ダニエルが見た幻の中で出てきます。先ほど朗読していただいたダニエル書7章13節から14節の御言葉です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り 「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」
預言者ダニエルが見た「人の子」はユダヤ人が待ち望んでいる救世主、メシアでした。メシアは、異邦人に支配された民を解放する王です。その王は政治的な力を持ちます。自らを「人の子」と呼ぶイエス様は、そのような王でしょうか。そのような王は、「地上で罪を赦す権威」まで持つのでしょうか。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 イエス様は、何者なのでしょう。
イエス様は中風の人に命じます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 彼の病は癒されました。― 「わたしはあなたに言う。」 わたしとあなた、という人格的関係の中で癒しが起こります。病を、それという現象として見るのではありません。わたしとそれ、それとあなた。その関わりは一時的で、一つの病を治しても別の病が現れたら再び向き合わねばなりません。イエス様の呼びかけは中風を患う人、あなたへの人格的なものです。旧約聖書の中で、神様が人間に呼びかけるのと似ています。
続く「起き上がり、」という御言葉は、新約聖書の原文では「起き上がらせる」と受け身で用います。11節を直訳するなら「あなたの床を担いで起き上がらせよ。そしてあなたの家へ去れ。」です。中風の人を「起き上がらせる」のは神様ですから、イエス様はそれを執成していることになります。同様に、「あなたの罪は赦される」も受け身で用いられています。「赦される」のは神様ですから、イエス様は神の赦しの恵みを宣言していることになります。律法学者が考える「神を冒涜している。」者ではありません。神様へ執り成し、赦しの恵みを宣言する者です。ではイエス様は祭司なのでしょうか。新しい霊的指導者として律法学者と対立するのでしょうか。いいえ、イエス様は「神の子」です。祭司以上の権威があるのです。
わたしたちが読んでいるマルコによる福音書は、1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という御言葉から始まります。しかし冒頭の「神の子」は、後から書き加えられたものだそうです。オリジナルは「イエス・キリストの福音の初め。」 イエス様が何者であるか、よく分からなかった当時の人々の立場で書き進められているのです。イエス・キリストとの出会いを、読者が追体験するためです。それは孤独な読書ではなく、教会の礼拝の中で読まれる時に起こります。―イエス・キリストは 「神の子」である、と。
具体的にマルコによる福音書の中では、「神の子」について二ヶ所の記述があります。
1章11節。イエス様の洗礼の時、天から告げられる声。「あなたはわたしの愛する子」。また、15章39節。イエス様が十字架で死んだ時、百人隊長の告白。「本当に、この人は神の子だった。」 福音宣教の始まりと終わりに、神と人から告げられているのです。
「神の子」という呼び名は、キリスト教独自のものです。イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事によって、初代教会の信仰者たちが告白しました。「神の子」とは、神から創られた被造物・「人の子」ではなく、神から生まれた独り子である。それ故「神の子」は父なる神と同じ権威を持つキリストであると。
ですから「神の子」という呼び名は、ダニエル書で預言された「人の子」以上の意味を持ちます。「人の子」・メシアは力ある王として、ユダヤ人を異邦人から解放しますが、「神の子」・キリストは十字架に掛けられた罪人として、全ての人の罪を贖って解放するからです。イエス・キリストだけが、「あなたの罪は赦される」と言う権威があるのです。
12節、「人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」 イエス・キリストの権威は、「今まで見たことがない」 ただならぬ気配として顕かにされます。「このようなこと」は、中風の人が癒された奇跡だけを指すのではありません。それは四人の男が屋根をはがして、穴をあけるところから始まっています。集まった人々も感じています。「ドン、ドン、ドン」と響かせて、何かただならぬ出来事が起るのだ。多くの病人が癒されている。らい病人も清められた。久しく待ち望んだ神の救いが、今、突入する予感です。
「あなたの罪は赦される」という神の恵みの宣言。そして、律法学者の戸惑いを超える癒しの業。この全てに神様の権威があることを、人々は知りました。だからこそ目の前にいるイエス様ではなく、「神を賛美した。」のです。神についての知識を学ぶのではなく、神様から直接、知恵が与えられるのです。これが神の国の福音でなければ、何でしょう。
かつて、預言者イザヤは幻の中で「人の子」・メシアを見ました。その幻は、囚われたユダヤの民を解放する希望でした。今や、「神の子」・キリストは現れ、全ての人の罪を十字架と復活によって解放されました。わたしたちの希望は、既に成就しているのです。
「あなたの罪は赦される」 イエス様の御言葉は中風の人に向けて語られました。この中風の人とは、わたしたちのことではありませんか。身動きが取れず絶望しているわたしたちのことではありませんか。マルコによる福音書12章1節から12節の記事は、隣人への愛の勧めとして読むだけでなく、神の救いの突入として、終末論的に読むべきではないかと思います。この救いは現在も継続しており、キリストが再び来たり給う「終わりの日」に完成します。
最後に、ヨハネの黙示録3章20節の御言葉を読みます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
皆さん、聞こえますか。イエス・キリストがたたく「トン、トン、トン」という音。かつて四人の男が響かせた主への信仰の音を、今度は主ご自身が わたしたちのために響かせるのです。それは非常識に屋根をはがして穴をあける音でなく、わたしたちの人格を認め、一人一人の扉をノックする音です。
黙示録の中で、この御言葉が書き送られたラオディキアの教会は、「熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい」 教会でした。世間に同調した常識的な教会だったのです。わたしたち福岡城南教会も創立して95年が過ぎました。始めの頃よりも、信仰は「なまぬるく」なったかもしれません。信仰の先輩は次々と天に召され、信仰を受け継ぐ者は少なく、高齢化して、現状維持が精一杯です。世間の常識に囚われて 「終わりの日」を見失うなら、自らの教会に閉じ込もって、身動きが取れずに絶望するだけでしょう。
聞こえますか。「トン、トン、トン」という音。閉じた心の屋根を「ドン、ドン、ドン」とはがし穴をあけ、扉を開いてイエス・キリストを迎え入れましょう。「あなたの罪は赦される」という、神の恵みの宣言に一筋の光を見ましょう。神様に起き上がらされて、歩いて行きましょう。
父と子と聖霊の聖名によって。
お祈りします。
父なる神様。御子を世に遣わし、わたしたちを起き上がらせ神の愛によって、新しく生きる者とされた恵みを感謝します。わたしたちが生活の中で御子を証し、神様を賛美できますように。わたしたちの教会が、神の希望を示す所として建ちつづけますように。これらの感謝と願いをイエス・キリストの聖名によって受け入れたまえ。 アーメン。
