聖日礼拝「真ん中に立たされる喜び」
説 教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 申命記 5章 12節
新約聖書 ルカによる福音書 6章 6~11節
11節には「彼らは怒りに狂い、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。ここで激怒している「彼ら」とは、神の律法を文字通り厳格に守ろうとしていたファリサイ派の人たちです。旧約聖書の申命記には「安息日を守って、これを聖なる日としなさい」と命じられているのです。彼らにとって、主イエスが安息日に手の不自由な人を癒やしたことは「明らかなルール違反」に映ったのです。ルカによる福音書6章を見ると、この安息日を巡る対立が「ある安息日に」(1節)、「また、ほかの安息日に」(6節)と続いており、以前から何度も積み重なっていたことが分かります。
ファリサイ派の人たちがイエス様を殺そうとまでした理由は、「自分たちが命がけで守ってきた宗教のルールを、主イエスに壊されてしまう」と恐れたからです。しかし、イエス様はルールを破ろうとしたのではありません。人間の手によってガチガチに縛られ、歪んでしまった「律法の本来の精神(神様の本当の御心)」を教えようとされたのです。
当時の指導者たちは、ルールを細かく規定して人々を縛り、それを守ることだけが「正しい信仰」だと教えていました。例えば、安息日に運んでいい荷物の重さを「杯一杯分のワイン」や「雀一羽分の牛乳」といった極端な細かさで指定していたのです。ファリサイ派たちは、ほんの数滴の飲み物さえ運ぶことが禁じられるほど、がんじがらめだったのです。ここには人間の良心や、心からの自由はありませんでした。
しかし、十戒が命じる安息日の本質は、本来「休むこと」にあります。かつてエジプトで奴隷として休めなかった民を「自由にする」ためのものだったのです。日々の苦労から解放され、神様の救いと恵みを味わう日。それこそが安息日です。神様が求めたのは、私たちを新しいルールの奴隷にすることではなく、自由へと招くことでした。主イエスは、この本末転倒な人々の姿に、深く怒られたのです。
主イエスはファリサイ派の人々に、「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と問いかけられました。人間がルールに縛られるのではなく、自由な心で神様の御心を行うことこそが、安息日の本当の意味です。これこそが、主イエスの言われる「善を行うこと」でした。
では、「善を行うこと」とはどういう意味でしょうか。それは「安息日に人を苦しめない」ということです。心が縛られるとき、人は苦しみます。しかし、そこに善が行われるとき、人は苦しみから解放されます。私たちは、自由な意志で神様を礼拝しているでしょうか。もし私たちの奉仕や礼拝が、「やらなければならない義務」になって心を苦しめているとしたら、それは本当の意味で神様に従っているとは言えないかもしれません。
私たちは今日、礼拝に来ることを喜んでいるのでしょうか。まるでピクニックに行くときのような、ワクワクした喜びの心でここに来ているのでしょうか。それとも義務感から「仕方がない」と思って来たでしょうか。主イエスはまさに、私たちの「心の動機」を問いかけておられます。ただ、もしあなたが「義務感」で来ていたとしても、主イエスはそんなあなたを絶対に責めません。その重い足取りで踏み出した大切な一歩を、主は優しく見つめてくださっています。
さて、ここでイエス様が目を留められた一人の人がいました。それが、右手の萎えた人です。ファリサイ派たちが怒り狂ったのは、主イエスが安息日に、右手の萎えた人を元通りに癒やされたからでした。彼らの規定で禁止されていた「医療行為」を、主がなさったからです。この右手の萎えた人は、以前は自由に手が使え、仕事や奉仕をしていたはずです。しかしながら、いつの間にか手が動かなくなってしまっていました。その人に向かって、主イエスは「手を伸ばしなさい」と言われます。
すでに力が衰え、動かせない人に向かって「手を伸ばしなさい」というのは、理不尽で不条理な命令です。立ち上がれない人に「立ち上がれ」、車椅子の人に「走りなさい」と言うようなものです。普通なら、怒り出すか、悲しんで諦めてしまう場面でしょう。主イエスは、人間の力では到底不可能なことを彼に命じられました。しかしこれこそが、主が彼に求められた「主の権威と言葉への信頼(信仰)」だったのです。
この理不尽とも思えるような命令に対し、手の萎えた人は主イエスに「言われた通りに」しました。すると「手は元の通りになった」(10節)のです。主イエスは、彼が自力で手を伸ばせないことを百も承知しておられました。彼があまりにも無力な存在であることを分かった上で、「手を伸ばしなさい」と言われたのです。ここに、主の求める信仰の本質があります。たとえ主の命令が人間の理屈に合わなくても、主の言葉を信頼して一歩を踏み出してみなさい、という強いメッセージが込められていたのです。
手の萎えた人にとって、手を伸ばすことは不可能な挑戦でした。しかし、主イエスが求めておられたのは、完璧に伸ばし切ることではなく、「無力のままに、あなたが今伸ばせるところまで伸ばしてごらん」ということだったに違いありません。「主よ、私にはここまでしかできません」という率直な告白を、主は待っておられたのです。神さまは、人間の弱さをすべてご存じです。私たちは、神様に言われた通りに100%従うことなど、到底できない存在です。それを素直に認め、告白することこそが信仰ではないでしょうか。
主が私たちに求めておられる信仰とは、決して「完璧にできるか」という量的なものではありません。それは、私たちの心がどこを向いているかという「方向性」です。示された御言葉に100%従うことはできず、たとえ5%、1%しか動けないとしても、あるいは無力さのあまりピクリとも動けないとしても、主はそれを責めたりはしません。「主よ、私にはこれしかできません」と、自分の弱さをありのままに認め、悔い改めつつ神様の恵みと赦しを求めること。その無力のままの小さな一歩を、主は尊い信仰として受け止めてくださるのです。主イエスが求めておられるのは、完璧な姿ではなく、不完全さを常に背負いつつ、ただ主を仰ぎ見るその心です。
8節ですが、手の萎えた人は主イエスから「立って、真ん中に出なさい」と言われています。この奇跡が行われたのは、会堂の「真ん中」でした。主イエスは決して、人目の付かない片隅でこっそりと奇跡を行われませんでした。群衆からはっきりと見える場所へと、彼を呼び出されたのです。真ん中では、何も隠すことができません。手が萎えているという不自由な現実、罪人だと言う人々からのやじ、そのすべてが白日の下に晒されます。彼は恥ずかしかったでしょう、隠れたかったはずです。しかし、彼は主の言葉を信じて、一歩を踏み出しました。
私たちの弱さや罪のすべてが明らかにされるその場所でこそ、主イエスは手を癒やしてくださるのです。私たちの信仰の弱さが完全に露わになるとき、まさにその時、その場所が、主の奇跡の舞台となります。この人は、真ん中に出ることで、自分の弱さを素直に認めたのです。神の国の奇跡は、常に群衆の真ん中で行われます。
主イエスに召されている私たちは今、どこに立っているでしょうか。この社会の片隅でしょうか。それとも世界の真ん中でしょうか。かつては、この手の萎えた人のように、世間からは存在すら気留められなかった私たちかもしれません。しかし私たちは今、神の国の真ん中に立たされ、神に従っています。私たちは罪の現実から引っ張り出され、神の国の真ん中へと招かれているのです。
あの手の萎えた人は会堂の真ん中に出ることで、ファリサイ派たちの冷酷な視線、すなわち「ルールを破る者は許さない」という宗教的な律法主義と、図らずも正面から戦わされました。それはその人にとって「不条理」です。ここで私たちは、この物語の中にある「2つの不条理」の対比に気づかされます。ファリサイ派やこの世の律法主義が突きつけるのは、「冷酷な不条理」です。動かない手を持つ人に向かって、様々な掟や条件、あるいは生産性や完璧さを求め、「それができないお前は価値がない」と縛り付け、裁く不条理です。私たちもまた、日常の中で、この世の容赦ない律法主義の激しい視線に晒されています。当人の無力を一切顧みず、ただ結果と資格だけを要求する不条理。 これが、この世の律法主義の冷たい視線です。
しかし、これに対して主イエスが突きつけられた「手を伸ばしなさい」という命令もまた、人間の理屈から見れば完全に「不条理」です。動かないから困っている人に「動かせ」と言うからです。けれども、この主イエスの不条理の裏には、全く違う動機があります。この世の不条理は「お前がやってみせろ、できなければ切り捨てる」ですが、イエス様の不条理は「あなたはできない。だから、わたしがやる」という、ひっくり返った愛の不条理です。
主イエスが「手を伸ばしなさい」と言われたとき、それは「お前の自力で頑張ってみろ」という意味ではありませんでした。主イエスがその言葉を発した瞬間、その不可能な命令を可能にするための「神の力と権威」が、すでにその男の右手に100%注がれていたのです。
つまり、主イエスの命令は、人間に対する要求ではなく、「わたしがあなたを癒やす」という神様の100%の約束の裏返しだったのです。人間の無力を百も承知の上で、その無力を神の恵みで包み込むために、あえて理不尽な命令の形をとられたのです。
会堂の真ん中で、この二つの不条理が激突しました。片や、「ルールを守れない奴に価値はない」と睨みつける、冷酷な不条理。片や、「あなたにはできないが、わたしがすべてを補う」と招く、愛の不条理。手の萎えた男が、自分の無力を抱えたままイエス様の言葉を信じて、ピクリと動かない手を前に突き出した瞬間、この世の冷酷な不条理は完全に敗北しました。完璧さを求めるこの世の価値観に対して、神の圧倒的な恵みが勝利したのです。
そして主イエスは今、この「恵みの勝利」を引っ提げて、私たちをあの激しい不条理の戦いの真ん中へと、「主人公」として派遣されるのです。「私には5%しか、1%しかできない」という弱さを背負いながら、それでも神の自由と赦しを信じて仕え続けるとき、私たちは「完璧さ」を求めるこの世の価値観に対して、神の恵みによる圧倒的な勝利を宣言しているのです。私たちの人生を、ただの「片隅の敗北者」で終わらせない主が、今日も私たちを神の国の真ん中に立たせてくださいます。
主イエスは今も、私たちと教会を通して救いの御業を進めておられます。私たちの力は大したものではないかもしれません。しかし、私たちが主に仕え、善を行おうとするところ、そこが神の国の真ん中です。様々な掟をもって、人間のまことの自由を縛り付けようとするこの「世の律法主義」に対して、私たちが信仰の証しをもって戦うところ、そこが神の国の真ん中なのです。「私にはこれしかできない」という弱さを背負いながら主に仕え、主の前で悔い改める場所、それこそが神の国の真ん中なのです。
苦しみの道を歩まれ、しかし十字架という不条理によって死なれた主イエス。しかし、復活を通してこの世の不条理に打ち勝たれた主イエス・キリストは、私たちのあまりにも弱い信仰と行いを、必ず豊かな恵みで補ってくださいます。その約束を信頼し、今、私たちに与えられているそれぞれの歩みを、喜びをもって全うしていきたいと思います。
