聖日礼拝「神の御心に適う者」
説  教    崔 炳一 牧師
旧約聖書  マラキ書 3章 19~24節
新約聖書 マタイによる福音書 17章 1~13節

イタリアのフィレンツェにはサン・マルコ修道院があります。ここには、初期ルネサンスを代表する画家であり修道士でもあったフラ・アンジェリコ(1390/1395-1455)が、1440年頃に制作したフレスコ画「キリストの変容」があります。画面の中央には、白く輝く主イエス・キリストが描かれており、その両脇にはモーセとエリヤ、下方には驚きひれ伏す3人の弟子(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)が配されています。

また画面の左右の端では、聖母マリアと聖ドミニコが祈りを捧げています。この二人を画書き入れた理由は、理想的な祈りの手本を示すためだそうです。中央のキリストは両腕を真横に広げており、その姿はまるで「十字架刑」を予感させます。しかし同時に、キリストが身にまとっているのはまばゆい純白の衣であり、それはその先にある「復活」の予兆(希望)でもあるのです。この絵は、「主イエスの変容」を描きながらも、同時に「十字架(受難)」と「復活」をも瞑想させるという、二重・三重のメッセージが込められた傑作です。

本日、私たちに与えられておりますマタイによる福音書17:1-13は、まさにフラ・アンジェリコが作品のもとにした「主イエスの変貌」を伝える箇所です。17:1節に「六日の後」とあります。これは、直前の16章で起きた出来事を受けての言葉です。主イエスが弟子たちに信仰告白を求めたとき、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。主はこの告白の上に、ご自身の教会を建てると宣言されますが、そのすぐ後に、初めてご自身の「死」と「復活」を予告されたのです(マタイ16:21)。

にもかかわらず、弟子たちはその事実を素直に受け入れることができませんでした。主イエスは「死」と「復活」の双方を予告されたのに対し、弟子たちは「死ぬこと」だけに心を奪われ、動揺し、絶望へと向かっていったのです。主イエスが弟子たちの前でその姿を変貌されたのには、主に3つの意味があると考えられます。

第一に、弟子たちの「絶望」をあらかじめ防ぎ、心の準備をさせるためです。あらかじめ本来の輝かしい神の栄光を見せておくことで、後に主が十字架で無残に殺されたときにも、弟子たちが「いや、先生はただ無力に死んだのではない。あの山の上で見た輝きこそが真実だ。必ず復活される」と信じ抜けるように、彼らの心に希望の光を灯されたのです。

第二に、キリストの変貌は「旧約聖書のすべてがキリストにおいて完成される」という証明だからです。変貌したイエスの脇に現れたモーセは「律法」を、エリヤは「預言」を代表する人物です。この二人が主イエスと親しげに語らう姿は、「旧約聖書の律法と預言が古くから約束してきた救い主とは、まさにこのイエスのことである」ということを弟子たちの目の前で裏付けるものです。

第三に、天の父なる神が、ご自身の声によって、主イエスの権威を宣言するためです。17:5には「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から響いたとあります。この言葉は、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から響いたものと全く同じです(マタイ3:17)。主が自ら「私は神の子だ」と主張されるだけではなく、父なる神ご自身の声によって「この人についていきなさい」という保証を与え、主イエスによって神の国が完成されるという大いなる宣言がなされたのです。

さて、2節をみます。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあります。主イエスの顔が「太陽のように輝いた」という描写はとても象徴的です。これはこれまで弟子たちが見慣れていた「人間としてのイエス」というカテゴリーを打ち砕き、人間の認識を完全に超えた絶対者としての神の現臨(臨在)を示しています。と同時に、神は主イエス・キリストにあって、私たちと顔を合わせてくださるのです。

創世記4章のカインの物語をご存だと思います。カインは自分のものが神に受け入れられなかったとき、「激しく怒って顔を伏せた」のです(創世記4:5)。神はカインに問いかけます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(創世記4:6-7)。しかし、カインは顔をあげませんでした。それこそが罪の始まりです。彼は神と人に対して顔を失っていたのです。「顔を上げること」とは、神と他者との真っすぐな関係にあることです。カインがアベルを殺したのですが、罪を犯した後、彼はこう叫びます。「今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(創世記4:14)。罪を犯した人間は、神の顔の光を浴びることができない。また他者の顔をまっすぐみることもできない。顔を隠し、自分の心と姿を暗闇の中に隠れてしまう。これこそが、人間の根源的な孤立と絶望の姿です。

ところが、神の赦しによる和解がもたらされたとき、私たちは罪びとの人間同士の関係性の中にも、「神の顔」をみることができます。それがヤコブとエサウの再会の物語です。ヤコブはエサウを騙し、20年間逃亡生活をしていました。故郷に戻る途中、ヤコブはエサウが400人の手下を連れてくることを聞きます。彼は恐怖のどん底に突き落とされます。ヤコブはヤボクの渡しで「正体不明な誰か(神の御使い)」と夜通し格闘します。必死に神の祝福を求めたのです。ヤコブはその場所を「ペヌエル(神の顔)」と名付けます。「ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』」(創世記32:31)。

神の顔の光(神の慈しみ)に触れたヤコブは、翌朝、エサウと対面します。互いに抱きしめて和解します。ヤコブはこう言います。「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから」(創世記33:10)。神の赦しを経験した人は、かつて憎しみ合っていた「他者の顔」の中から、神の慈しみと輝きを見出す者へと変えられるのです。和解とは、罪人同士が互いに顔と顔を合わせてくれるように働きます。

変貌の山の上で、主の栄光に触れ、天からの神の御声を聴いた弟子たちは、カインと同じように地にひれ伏しました。罪の中にあるものは、神の圧倒的な聖さの前では、恐れおののいて、顔を伏せるしかありません。しかし、主イエスは近づき、手を置いて「起きなさい。恐れることはない」と言われました。

主イエスが私たちの顔を上げさせる理由は何でしょうか。それは、カインのように、顔を伏せる私たちの赦しのために、主ご自身が十字架の上で、栄光の顔を無残に破壊されたからです。そして主イエスは復活を通して、私たちを「顔を隠す呪い」から解放しました。そして、互いが顔を合わせることによって神の愛をみるようにしてくださったからではないでしょうか。主イエスの贖いの光を浴びている私たちは、かつてヤコブがエサウの顔から神の愛をみたように、時には苦手な人の顔の中にも、主が愛しておられる「大切な人」としての輝きを見出す者へと変えられていくのです。

私たちがこのように、他者の顔から神の愛を見出していくためには、まず私たち自身が神との絶対的な愛の関係の中に置かれなければなりません。そのためには主イエス・キリストから神のことばを聴く必要があります。5節をもう一度見ましょう。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞けという声が雲の中から聞こえた」。「これに聞け」とは、主イエスだけに聞き従えのことです。これは旧約聖書の申命記18:15の預言の成就です。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」。神はモーセやエリヤを通して語られましたが、今や、神のことばそのものである主イエスを通して、直接に語る。だから「これに聞け」と言われるのです。

神が語るとき、そこにもたらされるのは、「赦し」と「命」です。それが、主イエスがもたらす「福音」です。福音は私たちを神に罪から立ち帰らせます。福音は神がこの世を、愛をもって支配しますことを悟らせます。神が「これに聞け」と言われたとき、その直前にいったい何が起こったのでしょうか。ペトロは主イエスの変貌をみて、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と主イエスに頼んだのです。「小屋」と訳されたことばは「幕屋」です。旧約聖書においては大切な場所です。そこには「至聖所」があります。この世において神が住まわれる場所が幕屋です。

ところが、神は「これに聞け」と、すべての視点を主イエスに変えたのです。「幕屋」が神との出会いの場所です。しかし、神のことばの無いままの状態で神との出会いは不可能なことです。これは決して見える礼拝堂を否定することではないのです。そうではなく、「形」に安心する前に、まず、私たちが神の御ことばに耳を傾けるべきであることです。主イエスから聞くことを拒むと、不信仰に陥ります。聞かないから、従わない。従わないから罪を犯すのです。これが顔を隠すことでしょう。

ペトロたちとって「これに聞け」とは、主イエスが苦難を受けることさえも受け入れることです。それが神の愛による計画です。そこに命があったのです。では、今を生きている私たちにといって聞き従うことはどういうことでしょうか。たとえ、理解が出来なくても、キリスト・イエスは神の御心に適う歩みをされていると確信すること、その約束に人生を委ねることです。

神は「これに聞け」と言われました。これは神のお招きでもあります。私たちの周りには様々な声があります。特に、人生の暗闇や困難の中に直面しますと、様々な声を聞きます。世間の常識の声は、「もっと強くならなければ見捨てられるのだ」と。また自分を責める声もあります。「お前がダメだから、こんな目に遭うんだ」と呪います。不安の声は「もう終わりだ。希望はない」と囁きます。こういう声からは命も、赦しも生まれません。こういう声は主イエスの声を遮るのみです。

しかし、福音はこう声かけます。「主イエスはあなたを愛している。罪は赦された。そのため、キリストは十字架につけられた。栄光の顔を無残な姿にされたのだ。あなたのため、命を捨てられた。そして今も、あなたのために仕えることを喜んでいる。だから、キリストの声に信頼してついてきなさい。顔を上げて、神を見仰ぎ、互いの顔から、神の光、命、喜びを見出しなさい」と。神が「これに聞け」と言われたとき、私たちが聞くべきその声こそが、私たちの人生の荒波の中で、決して揺るがない「アンカー(錨)」であり、支えであり、よりところです。

キリストの顔を互いにみるように務めましょう。そのために、常にキリストに聴き従う群れであるように切に願いましょう。変貌の山のキリストの輝きが、私たちの群れの歩みと務めを通して、この地に豊かに示されますように、今週の歩みを全うしていきたいと思います。