聖日礼拝「主の家族が共に集まる」
説  教      伊藤健一 長老
旧約聖書  詩篇 133篇 1~3節
新約聖書 コリントの信徒への手紙二 13章 11~13節

 

先ほど読んでいただいた詩編133編は、いろいろな集会などで主題聖句として選ばれることもあり、とくにその第1節は非常によく知られているのではないでしょうか。改めてそのことばを味わってみたいと思います。

(1)見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

この聖句は、歴史的には聖餐式が執行される礼拝において、主題聖句として取り上げられることが多かったようです。アウグスティヌスは、彼の詩編注解の中で、この聖句がキリスト者の共同体である修道院を生み出したものであると主張しました。確かに、この句は、召命を受けて修道院に入り、ここで共同生活を送り、学びと奉仕のわざに仕える修道士たちの姿と重なるものを感じさせますし、アウグスティヌスの主張は傾聴に値する意見でしょう。しかし、それは後世の話であり、この詩編がどのような状況で、どのような思いを込めて生み出されたのかは、それとは別の話となります。まず、背景を見てみましょう。

先ほどは、新共同訳から引用しましたが、改めて、私がヘブライ語の原文から訳した試訳をお読みします。

「見よ、なんと良い、そしてなんと喜ばしいことか、兄弟たちが実に一緒に座っているということは。」

「座っている」と訳しましたが、この語は「住んでいる、暮らしている」とも訳すことができます。動詞の形態が少し異なりますが、ここと同じように「兄弟たちが共に住んでいる」と書かれている箇所が、聖書の中にもう一カ所あります。それは申命記の25章の5節です。そこをお読みします。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」いわゆるレビラート婚に関する規程です。現代ではあり得ない制度ですが、すぐに理解できることは、この制度は大家族制、すなわち親とともに兄弟たちが同じ家に住んでいることを前提にしているということです。そうでなければ、たとえば長男が亡くなったとき、遙か遠くの別世帯に住んでいる弟が、長男の嫁を自分の嫁として引き取らなければならない、というルールは、あまりにも現実離れしていると思われることでしょう。しかし同じ所帯の中で暮らしていれば、こうしたルールには、それなりの合理性があることがわかります。

この詩編133編が作られた時代は、この大家族制が失われようとしていた時代であったと推測されています。古代社会においては、大家族制は基本的な慣習で、多くの民族がこうした生き方をしていました。だからこそ、創世記に描かれているアブラハムとロトの別れや、ヤコブとエサウ兄弟の別れは大事件であったわけです。しかしこうした習慣が、この詩編が作られた時代には、もはや一般的ではなくなりつつあったと考えられています。詩人は、こうした状況の中で、この習慣が失われないようにしてほしい、大切にしてほしいという思いを込めて、ここでこう歌っているという背景があるかと思われます。同じ親の子であり、血を分けた存在である「兄弟がともに座っている」ということが、いかに祝福に満ちた状況なのか、家族の一致がいかに恵みに満ちたものだったのか、そのことにもう一度注目してほしい、と詩人は言うのです。「見よ」ということばは、単に眺めるということではありません。注目せよ、霊の眼を開いてしっかりと見て理解せよ、という強い注意喚起のことばなのです。子たちが父の家に住み続けて生活の場を共有することができる、この大家族の中で、その生活の豊かさ、親と子が共にいること、兄弟たちが別世帯を設けずに同じ世帯の中で暮らすことの喜びをかみしめよ、それをもう一度思い出せ、という勧告のことばでもあったのです。

しかし同時に忘れてはならないことは、この詩編133編1節の前半にこう書かれていることです。「都に上る歌。ダビデの詩。」これがこの詩編が歌われる文脈です。これを踏まえて読み味わわなければなりません。「都に上る」とはどういうことでしょうか。それは、祭りなどにあわせてエルサレムに上るということ、すなわち巡礼者となるということです。この文脈で第1節を読むならば、主と契約を結んだ信仰者として、定められた祭りの時に同じ場所に集まった巡礼者たちが、お互いに近しい者とされ、祝いの食卓の席に共に座っている、すなわち、主の現臨のもとで兄弟とされ、一つの家族として集められ、共に食卓の席に座っているという姿が目に浮かびます。血を分けた兄弟たちだけではなく、信仰において主とつながっている兄弟たちが共に座っている、そのことが祝福されているということなのです。

今の箇所で、新共同訳で「恵み」と訳されていることばは、原語では「トーヴ」という語です。この語は、創世記の冒頭で、幾度となく「良しとされた」と訳出されている言葉です。神様の創造のわざは、すべて完全で、「良い」ものです。そこで用いられていることばが、ここでも用いられていることに、詩人が、どれほど兄弟たちが共にいることに恵みと祝福を感じ取っているかを、改めて読み取ることができます。

第2節と第3節は、その恵みと祝福を、豊かなイメージを駆使して語ります。第2節はこう記されています。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」。わたしの試訳はこうです。「頭の上に、あごひげ、すなわち彼の衣服の襟の上に降りるアロンのあごひげの上に降りる良い油のようだ」。

油注ぎという行為は、特別な意味を持つ行為です。神さまが選び出し、特別に取り分けた人、つまり祭司や王、預言者などに対して行なわれる儀式で、香油をその人の頭に注ぎます。アロンの名が語られていますが、アロンとは、モーセの兄で、大祭司として神さまに任じられた人で、その一族が祭司の家系とされたのでした。そのアロンに油が注がれたと言うのですが、頭に注がれた油は、あごひげに滴ります。しかもそのあごひげは衣の襟まで届く長いひげで、そのひげにたっぷりと滴るのですから、注がれた油も、ほんの少しなのではなく、たっぷりと注がれたことがわかります。長いあごひげは、男性の麗しさと威厳のしるしであり、切ってはならないものと規定されていました。その上にたっぷりと注がれた油の量の多さは、そこに注がれた恵みと祝福の豊かさを象徴していると言えます。しかも、アロンが身につけている着衣の襟の下には、イスラエルの12部族の名を刻んだ胸当てがあり、その油はその胸当てまで届くのです。今、祭りの時にエルサレムに集まって礼拝している民にとって、実に適切な譬えであると言えるでしょう。兄弟たちの一致から来る祝福は、イスラエルの12部族すべてに豊かに及ぶのだということを象徴しているのです。

第3節も同じように、比喩が続けられます。「ヘルモンにおく露のように シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。」ここでも、わたしの訳をお読みしたいと思います。「シオンの山々の上に降りるヘルモンの露のようだ。なぜなら、そこで主は祝福を、永遠までの命を命じられたからだ。」

砂漠地帯のイスラエルにおいて、昼間の暑さは、およそ快適さや祝福とはほど遠いものに違いありません。しかしパレスチナ北部に位置するヘルモン山には特別に露がたくさん降りるようで、そこから「ヘルモンの露」という表現が生まれてきたものと言われます。ヘルモンもシオンも山の名称ですが、これらの山々は遠く離れていて、北にあるヘルモンの露が南のシオンの山々に滴ることはあり得ないでしょう。2節に歌われた、頭からあごひげが届く襟まで油が滴るという比喩でも、それほど離れていてもたっぷりと油が注がれ滴り落ちると歌っていたのですが、この3節では、それとは比較にならないほどの、あり得ないほどの遠さを、兄弟たちの交わりの輪の大きさ、その広がりを描写するために用いているということが言えるでしょう。

この詩編において、新共同訳からはわかりませんが、原文では、アロンのあごひげの上に「降りる」、襟の上に「降りる」、シオンの山々の上に「降りる」と、全く同じ「ヨーレード」という動詞が3回用いられています。そのことから、上から下へという動きを読み取ることができます。これは、神の祝福が主にある家族、主にある兄弟たちのうえに降るということを描写したものであると言うことができると思います。

改めて第1節に戻りましょう。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」私たちは、ここまでで、このことばがいかに祝福に満ちた、喜びに満ちた告白であるかを、確認することができたと思います。しかし、残念ながら、私たちの現実はこうなっていません。皆さんもよくご存じの、キング牧師の「私には夢がある」というスピーチの中に、こういうくだりがあります。「私には夢があります、いつかジョージアの赤土の丘でかつて奴隷だった人の息子と奴隷所有者だった人の息子が兄弟愛という名のテーブルに肩を並べて座るという夢が。」このことばの背後に、今日取り上げた詩編133編1節があることは明らかだと思います。キング牧師のスピーチには、兄弟が共に座ることができていない現実がはっきりと示されています。人種の違いのために、自由人と奴隷という違いのために、兄弟として共に座ることができない、という現実です。でも、それがすべてではありません。現実の社会の中では、それ以外のさまざまな要因によって、兄弟として共に座ることができない人たち、兄弟愛の食卓から遠ざけられている人がたくさんいます。それが社会の現実です。

20世紀の2度の世界大戦を経て、私たちは大きな学びをしたはずです。戦争への反省の中から、主を信じる信仰を持つ人も持たない人も等しく、「私たちは戦争をしない」という強い思いを共有するに至ったと思います。特にイエスを主と告白する私たちは、それだけにとどまらず、「平和を造る人」となろうとの思いを共有しているのではないかと思います。しかし21世紀を迎えて、局地的であるかも知れませんが、世界は再び戦争を始めてしまいました。このような現実の中で、私たちは改めてこの詩編を自分たちの告白の歌にして行かなければならないと思います。私たちは、主にあって真の兄弟にならなければならないのだ、真の兄弟になれるのだ、ということを覚えなくてはならないのだと思います。

主イエスは、律法の戒めの中で最も重要なものは何かと聞かれたとき、まず「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」と答えられました。これは、「シェマーの祈り」として知られる申命記6章5節から取られています。それに続けて主イエスはさらに、「隣人を自分のように愛しなさい」と答えられました。こちらはレビ記19章18節にあります。「神を愛する」ことがきちんとできているのかについても吟味が必要でしょうが、私たちの社会の現状からすると、「隣人を自分のように愛しなさい」との教えは、まったく守られていないと断言できるのではないでしょうか。それに先立つレビ記19章の2節には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と記されています。神さまが「聖」であるから、あなた方も「聖」なる者になりなさい、との命令です。「聖」と訳されているヘブライ語は「カドーシュ」ですが、このことばの本来的意味は、「分けられているもの、異なるもの」ということです。レビ記19章は、民に対し、自分たちの神の性格と調和して行動しなさいという教えを展開しているのです。神さまの「義」や「聖」は関係概念なのです。そうすることが「隣人を自分のように愛しなさい」ということであり、それができたとき、私たちは本当に兄弟として「共に座る」ことができるのだと思います。

説教の後、私たちは讃美歌161番「見よ、主の家族が」を歌います。この讃美歌はなじみがないかも知れませんが、詩編133編1節の歌詞をそのまま歌ったもので、イスラエル民謡として親しまれています。私は、神学部のヘブライ語の授業の中でこの歌を紹介され、みんなで歌いました。いくつかのメロディーがあるようですが、讃美歌161番に取り上げられているメロディーが標準的なもののようです。

最後に、パウロのことばを引用して、説教を閉じたいと思います。コリントの信徒への手紙二13章11~13節をお読みします。

(11)終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。(12)聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

(13)主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

父と子と聖霊の御名によって。

主なる神さま、ダビデの詩編を通して、私たちが主にあって兄弟として、共に座る喜びを教えられ、感謝いたします。世界を見渡しますと、残念ながら主にある平和が実現できているとはおよそ思えない現実があります。主イエスを告白する信仰者たちの中からすら、戦争が引き起こされていった現実に、心が痛みます。そんな中、この詩編が示している、主にある兄弟たちが共に座る平和の喜びを、私たちの信仰告白とし、地上においてもそれを実現するために祈り、活動していくことができるよう、私たちを励まし、強め、主の器として用いてください。思いを一つにしてお互いに仕え合うものとしてください。

主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。