聖日礼拝「世の光である主イエス」
説  教    崔 炳一 牧師
旧約聖書  詩篇 89篇 31~33節
新約聖書 ヨハネによる福音書 9章 1~12節

ヨハネによる福音書9:1-12は、主イエスが生まれつき目の見えない人を癒す物語です。1節にあるように、主イエスは、神殿に近いエルサレムに上っています。そこで主は生まれつき目の不自由な人と出会います。彼は、生涯において一度も光を見たことがなく、深い暗闇の中で重荷を背負って生きてきた人です。彼は自力で生きる術を持たなくて、ただ人に頼り、物乞いをして日々の糧を得ていました。光を奪われているというそれだけでも大きな苦難ですが、彼は社会的にも困窮し、完全に孤立した生涯を余儀なくされていたのです。

この世のすべての不幸を背負ったかのような盲人の前に、主イエスは歩みを止め、彼に目を留めてくださいました。同時に、弟子たちもまた、この人の現実を目の当たりにしました。その悲惨な姿に、弟子たちも深く心を動かされたはずです。しかし、その現実を前にして弟子たちの口から出たのは、あまりにも冷酷な問いでした。2節です。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」。

弟子たちは、この苦難の原因がすべて「人間の罪に対する当然の刑罰」にあると考えたのです。「彼らの背きに対しては杖を、悪に対しては疫病を罰として下す」と詩編89編33節にあるように、弟子たちは目の前の人が流している涙に共感するより、彼がこうなった原因や責任を問い詰める「犯人探し」、すなわち「自己責任の追及」を始めてしまいました。

当時、ユダヤ社会には、因果応報の考え方が広く浸透していました。その背景には、ギリシャの哲人プラトンの「霊魂先在説」のような、前世の善悪が今世の肉体に影響するという異教の思想さえもが、知らず知らずのうちに混じり合っていたと言われています。「健康な子供は良い霊魂を受け継いだ証拠だ」と。聖書に基づかない人間の浅知恵によって、彼らはこの人の不幸を説明し、納得しようとしたのです。

また、弟子たちはもう一つの可能性として、「両親の罪」を疑いました。出エジプト記20章5節には「私は熱情の神である。私を否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」とあります。弟子たちはこの言葉を盾にとって、「両親が神の掟を破った報いが、この哀れな子に現れたのではないか」と考えたのです。このように弟子たちは、苦しむ人を前にして、過去の原因ばかりを詮索し、裁きの目を向けていたのでした。

このような弟子たちの因果応報の考え方は、決して2千年前の遺物などではありません。むしろ、今の時代を生きる私たちにとっても、驚くほど身近で、根深く染みついている思想ではないでしょうか。私たちは、身近な人や大切な人が予期せぬ不幸や病気、あるいは突然の事故に遭ったとき、その現実に胸を痛め、共に苦しむことよりも、先に「いったい何が悪かったのだろうか」。「誰のせいでこんなことになったのか」と、無意識のうちに原因を探し始め、犯人探しをしてしまうことがあります。それは、神の御言葉とは全く無縁な教えです。しかし私たちは、それがあたかも正しい信仰の姿勢であるかのように錯覚し、自分自身に、そして他人に信じ込ませようとしてしまうのです。

この姿は、最初の人間であるアダムとエバの姿そのものです。彼らが罪を犯したとき、互いに責任を転嫁し合い、自らの正当性と義を必死に守ろうとしました。苦しんでいる人の隣に寄り添い、その痛みを分かち合う「連帯」ではなく、原因を突き詰めて誰かを裁こうとする「人間関係の断絶」。それこそが、現代の私たちの中にも厳然と存在する、罪深い人間のありのままの姿なのです。このような人間の冷ややかな視線に対して、主イエスは驚くべき宣言をなさいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。弟子たちが必死になって「罪人」を見つけ出し、苦難の責任を誰かに押し付けようとしていたのですが、主イエスはその不毛な追及を「拒否」されたのです。

ここにある弟子たちの問いと、主イエスの答えの間には、とても超えられないほどの大きな隔たりがあります。それは、苦難と罪に対する認識の決定的な違いであり、人間を見る目、世界を見る見方の転換です。弟子たちの目は、常に「過去」へと向けられていました。過去の過ち、過去の罪、過去の家系の咎。原因を過去にのみ求める彼らの視線からは、人間の心を縛り付ける、暗くて冷たい言葉しか生まれてきませんでした。それに対して、主イエスの目に映る世界は、弟子たちのそれとは全く異なっていました。目の不自由な人が置かれていた現実は、決して彼らを縛り付ける暗くて重い鎖ではなく、罪に対する刑罰でもありませんでした。主イエスにとって、過去はすでに過ぎ去ったものであり、それが主の行動や、人間に対する無限の慈しみを縛ることなど決してできなかったのです。主の目には、もはや彼一人の孤独な現実ではなく、神との交わりにおいて新しくされるべき「現在」であり、大いなる祝福へと向かうべき「将来」として映っていました。

主は「神の業がこの人に現れるためである」と仰せになりました。これは、人間のあらゆる不幸や苦難が、神の御手によって用いられるとき、暗闇から光へ、絶望から希望へ、挫折から立ち直りへ、そして罪の現実から大いなる救いへと変えられていくのだという、力強い福音の宣言です。これこそが、主イエスの真の「慈しみ」であり、神の御業そのものなのです。罪を犯しているものだから、神から断絶されるべきではない。人々から批判されるべきでもない。罪人だからこそ、神の御業が必要であり、神との連帯の中にいるからこそ、恵みを受けるのにふさわしいと言うのです

私たちは信仰生活の中で、よくこのような言葉を口にしてしまわないでしょうか。「あなたが、あるいは自分が、熱心に祈っていなかったから、こんな悪いことが起きてしまったのだ」と。そのように過去の原因を責め立てる言葉と、「今、一緒に祈りましょう」という言葉とを比べたとき、どちらが信仰的な態度だと言えるでしょうか。どちらの言葉が、傷ついた人を暗闇から光へ、絶望から希望へ、挫折から立ち直りへと導くことができるでしょうか。答えは「一緒に祈りましょう」です。なぜなら、その言葉の背後には、過去の原因や罪の奴隷になることを拒み、これから力強く現されるであろう「神の御業」を心から期待する、神への固い信仰が潜んでいるからです。主イエスが示してくださった慈しみは、私たちを過去の呪縛から完全に解放し、神の栄光と希望に満ちた未来へと私たちの目を向かわせてくれるのです。

弟子たちの「誰の責任なのか」という犯人探し、また周囲の人々の無関心という冷え切った暗闇のような社会において、主イエスは「私は世の光である」と仰せになります。そして主は生まれつき盲人の目を癒し、光の世界へと導きました。盲人にとって「光」が与えられたのは、目が見えるようになったことです。これは彼の人生において、見えないという物理的な闇の世界からの解放ですが、それだけではなく、過去との断絶を意味します。彼はこれまで、偽りの因果関係の中に置かれました。それは迷信でした。「お前は、神から呪われた存在だ」というレッテル、つまり「偽りの暗闇」の中に置かされていたのです。主が彼の眼を癒すことによって、彼はこれ以上、「罪人」にはならなくなったのです。自由な人になったのです。キリストの贖いは、罪からの解放ですが、それは偽りの暗闇を完全に暴き、それを無効化されたことです。

また、「私は世の光である」ということは、祝福された未来へと導くということです。盲人にとっての苦しみは確かに目が見えないことです。では、目が見えるようになってからは、すべての苦しみから解放されるのでしょうか。本当はそうではないのです。私たちは生きている限り、苦しみと立ち向かわねばなりません。コヘレトの言葉1章には、このようにあります。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる」。

でも、苦しみがあっても、それを神の恵みとして受け止めるのです。苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すと説かれています(ローマの信徒への手紙 5章3-4節)。また、パウロがコリントの信徒への手紙二 1章3-4節で言っているように、苦難を通ることで、神からの慰めを知り、同じように苦しんでいる人々を慰めることができるようになるのです。そして、苦しみの時にも神が共にいて助け、すべての涙をぬぐい去るという約束が待っていることを、私たちは信じるのです(ヨハネの黙示録 21章4節)。私たちは、主イエス・キリストにある神との連帯の中で、現在の苦しみと過去の苦難を、そしてこれからの苦難をも恵みとしてみるのです。ゆえに、神を賛美し、喜ぶのです。

さらに、「私は世の光である」というキリストの宣言は、キリストご自身が私たちを肯定する「温かい光」であるということです。盲人の目を癒されたのは、光の中で生きるべき存在であることの宣言です。見えないときには人の冷たさや、断絶された存在でした。盲人は愛されるべき「隣人」ではなかったのです。しかし、キリストが彼に光を与えたのは、彼がキリストの「隣人」であり、キリストご自身が彼の人生の主人になってくださったことです。これがキリストの贖いです。ヨハネによる福音書9:8以下です。癒されたにも関わらず、周りは「物乞いだ」。「いや似ている人だ」と一人の人間として受け入れようともしなかったのです。癒された後も、彼は周囲の人々にとって、ただの「元・物乞い」というレッテル(ラベル)に過ぎませんでした。 彼の目が見えるようになった喜びや、彼がこれまで流してきた涙、一人の生身の人間としての心の痛みに、誰も目を向けようとしなかったのです。現代のことば言えば、主イエスに癒された人は「記号化されていた他者」でした。しかし、主イエスは「私は世の光である」という宣言を通して、彼の人生を肯定する「温かい光」を注ぎ、私たちと同じく彼をキリストとのかかわりの中で生きる人としてくださったのです。

かつて社会から無関心の対象となり、「記号化されていた」一人の他者が、光である主イエスとの出会いと癒しによって、この世のどんな高慢な批評をも恐れず、「主よ、信じます」と告白する主体的な一人の人間へと生まれ変わりました。これこそが、キリストの贖いがもたらす解放の現実です。人間の引く境界線、冷たい視線、過去に縛り付ける鎖など。それらすべての暗闇は、主イエス・キリストの十字架と復活の光によってすでに無効化されました。主イエスは今、私たちに向かって「私は世の光である」と宣言しておられます。今週、私たちの周りで苦しんでいる人に「なぜそうなったのか」と原因を問うのではなく、「今、一緒に祈りましょう」と声をかけることから始めましょう。過去の原因に怯える日々は終わりました。神の御業が現れることを期待し、驚くべき恵みの未来へと、この光の主イエスと共に、喜び歌いつつ歩み進んでいきたいと思います。