聖日礼拝「神の恵みを共に分かち合おう」
説 教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 士師記 13章 15~18節
新約聖書 使徒言行録2章43〜47節
皆さん、ある有名な寓話をご紹介しましょう。それは「天国と地獄のスープ」というお話です。ご存じの方もおられるかもしれません。こういう話です。ある人が、天使に連れられて「地獄」の見学に行きました。そこには、大きな鍋に美味しそうなスープが、ぐつぐつと煮立っています。周りにはお腹をすかせた人々が座っていました。彼らは、みんなガリガリに痩せて、険しい顔で文句を言っています。なぜならば、彼らの手には「1メートルもある長いスプーン」が縛り付けられていたからです。自分でスープをすくっても、スプーンが長すぎて自分の口に運ぶことができません。無理に食べようとしてスープをこぼし、互いにののしり合っていました。
次に天使は、その人を「天国」へ連れて行きました。驚いたことに、そこにも全く同じ大きな鍋、同じ美味しそうなスープ、そして同じ1メートルの長いスプーンを持った人々がいました。しかし、天国の人々はみんなふくよかで、笑顔にあふれ、楽しそうに賛美を歌っています。よく見ると、彼らは長いスプーンを使って、向かい側にいる人の口にスープを運んでいたのです。「どうぞ、先に召し上がれ」。「ありがとう」。「次はあなたの番ですよ」と、互いに満たし合っていました。
天国と地獄の違いはどこにあるのでしょうか。エゴや自己責任が働くところが地獄のようなところです。そこには分かち合いたいという想いはかけているからです。天国は先に与える。あなたの喜びが私の喜びである。また、共に生き、共に仕え、与えられたもの、それを恵みと言えますが、そのことを分かち合うという想いが働くところが、天国です。天国とは聖霊降臨によって誕生した最初の教会の姿、否、今の私たちが目指すべき教会の姿ではないでしょうか。
使徒言行録2:43-47節には、聖霊降臨によって誕生したばかりの最初の教会の姿が描かれています。聖霊に満たされた弟子たちは、霊が語らせるままに福音を語りました。これは、福音宣教の主体が神であること、また教会の基礎を据えたのは、神ご自身が御霊においてなさる出来事である、ということでしょう。エルサレムに集まった大勢の人々は同じ福音をそれぞれの言語で聞きました。福音を聴くことによって、彼らは言語の違いを乗り越えられたのです。そこで、ペトロは十字架に殺された主イエスが、ユダヤ人が待望しているメシアであること、信じて悔い改め、神に立ち帰ることを促したのです。このペトロの説教によって3000人が洗礼を受けます。主イエスをキリストと告白する信仰へと導かれ、仲間に加えられたのです。こうして、最初の教会が誕生しました。
彼らの生活は2:42節にあるように「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」ということでした。「教え」とは、主イエスについての伝承を指します。「交わり」とは、信仰の証を分かち合ったことです。「パンを裂くこと」とは、復活した主イエスを覚えるための食事のことです。そして「祈り」です。それは、使徒言行録3:1節からも確認できるように、ユダヤ教の祈りの時間に合わせて、毎日、祈りをしていたのです。2:44-47節において、詳しく解き明かしています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。これが神による「不思議な業」(43節)です。人間の力では不可能に思える「本当の和解や一致」が実現されていたからです。
教会はますます進歩して行ったのです。信者たちは信仰の証をしていたのですが、その特徴とは彼らが「一つであったこと」です。彼らは「共に生きること」を目指していたのです。「共に生きること」とは、神の恵みを「分かち合うこと」です。物資のみならず、信仰においても恵みを分かち合う生活をしていたのです。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(46節)。聖霊降臨によって誕生したばかりの教会が進歩したのは、信仰において一つにされることを求めていたことです。
聖霊によって結ばれると共に祈り、一緒に礼拝をささげることができます。それを通して、教会は一致されていることを確かめつつ、それを喜ぶところです。「神殿」から「家」へと、その一致は場所が変わっても続き、共に集まることができます。聖霊による一致は場所に制限されません。聖霊の導きは、物理的な環境を乗り越えさせるのです。また、聖霊による一致は、多様な集会へと導くのです。神殿での集いと家での礼拝は、同じ神を礼拝している。また、私的空間をも神は「共に生きる場所」として用いるのです。共に生き、賛美する教会、これが神の国です。「御国がきますように」という主イエスの祈りが、こうして教会の歩みにおいて実現されるのです。
教会は互いの賜物を認め合い、それを用いることによってイエス・キリストを再現するのです。そして教会は多様性の中で一致を求める群れです。使徒言行録2:43-47節において「一つ」ということばが3か所出てきます。44節に「信者たちは皆一つになって」とあります。「ト・アウト」と言いますが、47節にも使われています。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。「一緒に」「一箇所に」「共通の目的のもとに」という意味です。信者たちが物理的に同じ場所に集まり、かつ精神的にも「一つの運命共同体として集結している」状態を指します。
使徒言行録1:15節です。「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた」。主イエスが天に昇られた後、弟子たちや信じる者たちが約束の聖霊を待つために、一つの場所に集まっていたのです。そのことを「一つになった」と言います。2:1節です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」。ペンテコステ(五旬節)の日に聖霊が降臨したまさにその瞬間、彼らが心を合わせて同じ場所にいたことを示しています。
コリントの信徒への手紙一11:20節です。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。ここでパウロは、信者同士の派閥争いをしていたコリントの教会に対して、体は同じ場所に集まっていても、心がバラバラでは、集まる意味がないと戒めているのです。コリントの信徒への手紙一14:23節です。「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」。御子イエス・キリストを信じる信仰によって、心も空間も、生活のすべてを共有する運命共同体として集まっているということを言うのです。教会の一致は、場所を共有し、共に集まることです。
しかし、これらのことだけが「一致のすべて」ではないのです。2:46節では「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」とあります。ここでの「一つ」とは、「ホモシュマドン」と言います。「同じ思いで」「一斉に」という意味です。これは「同じ」を意味する「homo」 と、「心・情熱・魂」を意味する 「thumos」 が合体した言葉です。ただ物理的に一緒にいるだけでなく、「同じ情熱や目的を持って、一つの心として調和している状態」を表します。
ローマの信徒への手紙15:6節です。「心を合わせ、声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が、互いの違いを乗り越え、完全に一つの心となって神を賛美することをパウロが強く願っていることです。強い感情や祈り、あるいは行動が、複数の人々の間で完全に一つに溶け合っているダイナミックな光景を表しています。教会の一致は、信仰の一致によるものです。キリストという聖なる溶鉱炉の中で、私たちの自己が溶け合い、一つとなる時、そこにキリストご自身が(教会として)現されるのです。
もう一度、44節に戻りましょう。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。現代を生きる私たちは、自分の力で生きていかなければならないという強いプレッシャーの中にいます。自己責任という言葉が飛び交い、人に迷惑をかけないこと、と同時に自分の取り分を必死に守ることが美徳とされる社会です。まるで、誰もが「スープを自分の口に入れようと、1メートルのスプーンを必死に振り回している」かのような、孤独でギスギスした利己主義の空気が漂っています。国同士の間においても同じです。しかし、神は聖霊に満たされた教会の歩みを通して、現代の常識を完全に破られます。御霊において一致を求めるのは、利己主義からの解放であり、それは救われたものによる主イエスの姿の再現です。
私たちは十字架と復活のイエス・キリストに出会い、聖霊に満たされたとき、決定的な事実に気づかされたのです。それは、私たちは、主イエスの命という最高の対価を払って買い取られた、「一つの家族」なのだということです。誰かが倒れれば、自分も痛む。誰かが飢えれば、自分も悲しい。私たちにとって、他者に分け与えることは、そういうものがあるとすれば、それは義務でも自己犠牲でもなく、主にある家族として当然の喜びです。罪は、私たちに人を出し抜いてでも、自分のスプーンを満たせとささやきます。しかし、その先にあるのは、どれだけ物があっても心が満たされない、天国と地獄のスープの「地獄」のような孤独です。
聖霊の降臨を通して神は教会という群れをつくってくださったのです。そしてそこには聖霊による「一致」がありました。それも聖霊による賜物です。そして今日まで、キリストの教会は存在し続けています。その中には私たちも含まれています。神が、教会という群れをこの地上に置いてくださったのは、この冷え切った社会に対して、そうではない生き方があるという主イエス・キリストにあるまことの希望の光を、私たちを通して見せるためです。自己責任が美徳とされているこの時代において、私たちの教会は、聖霊の愛によってつくり出されます。そして私たちの手に持たされている神の恵みと賜物を分かち合うことによって、誰もがその愛に溶け込みたくなる場所でありたいと願います。このことこそが、この現代の利己主義への真っ向からの抵抗であり、このキリストの愛のつながりこそが、今、傷ついた世界が最も必要としている救いなのです。
私たちの教会の一致という問いは、人間の努力の限界を測るものではありません。今、私たちがどれほど御霊に満たされているかという、内なる信仰の動かしがたい証しであり、結実です。キリストという聖なる溶鉱炉の中で私たちのエゴを溶かし尽くし、聖霊に導かれるとき、私たちもまた、自分の所有を遥かに越えて神の愛を分かち合う「一つとなった教会」として、キリストを力強く再現していくことを願っていきたいと思います。
