ペンテコステ礼拝「聖なる者は朽ち果てない」
説  教    崔 炳一 牧師
旧約聖書  ヨエル書  3章 1〜5節
新約聖書    使徒言行録 2章 14~28節

カリフォルニア州ロサンゼルスのアズサ通り。かつてそこには古びた木造の元馬小屋があり、アフリカ系アメリカ人のメソジスト教会として使われていました。1906年から約3年間、この場所では毎日3回、一日も休むことなく信仰復興(リバイバル)の集会が続けられました。これがキリスト教史を塗り替えた「アズサ・ストリート・リバイバル」です。この運動を率いたのは奴隷の両親を持ち、片目を失明していた黒人牧師ウィリアム・J・シーモア(William J. Seymour, 1870–1922)でした。神は大聖堂ではなく、最も低くされた場所と人を選び、聖霊を注がれたのです。

当時は「ジム・クロウ法」(Jim Crow laws)や連邦最高裁の「分離すれども平等」(Separate but equal)の原則により、人種隔離が法的に正当化された激しい差別の時代でした。この合法的な差別は、1960年代半ばまで続いたのです。シーモア自身も神学校で教室に入れず、廊下で講義を聞かされる屈辱を経験しています。しかし、彼は聖霊に満たされるしるしとしての「異言」を強く信じ、神学校卒業をしてからロサンゼルスで宣教を始めました。

この運動の決定的な特徴は、激しい分断の時代に黒人、白人、ヒスパニック、アジア人が完全に平等に集まり、共に祈り賛美したことです。聖霊の力により人種の壁が打ち壊された光景は、当時の社会に大きな衝撃を与えました。集会ではまるで聖書のペンテコステのように、激しい悔い改め、異言、病のいやしが起こり、プログラムのない自由な賛美が溢れました。現代のアフリカ系アメリカ人の教会で見られる躍動的な礼拝スタイルの源流も、ここにあります。当時のマスメディアはこれを冷ややかな目で見て、「奇妙な異言を話す狂信的な集会」などと批判的に報じました。ところが、その報道とは裏腹に、霊的な渇きを覚えた人々がアメリカ国内のあらゆる場所から大勢押し寄せるようになります。そして聖霊を体験した人々は世界へ遣わされました。これが現在の数億人の信徒を抱える「ペンテコステ派」の源流です。

ほぼ同じ時期の1903〜1907年、朝鮮半島でも似たリバイバルが起こりました。一人のカナダ人宣教師の悔い改めを機にメソジストや長老教会へ炎が広がりました。やがてこの運動が大きな実を結び、終わりを迎える頃、朝鮮の長老教会からは初めての7人の牧師が誕生します。そして彼らは受けるだけでなく、すぐさま日本と中国や済州島へと宣教のために宣教師を派遣します。海外宣教を重んじる韓国教会の源流がここからです。アズサ通りと朝鮮、この二つの地で起こった運動には、共通する本質がありました。これら二つの運動で語られたのは、人間の知恵ではなく「神がイエスによってなされたこと」の聖霊による力強い証言だったということです。使徒時代の熱い信仰が20世紀に再現されたのです。映画ならば演出できますが、現実世界で人間が意図的にこれを再現することは不可能です。まさに聖霊の力であり、私たちはこの歴史的出来事に深い驚きを禁じ得ないのです。

最初のペンテコステのときにも、聖霊の降臨を目の当たりにした周囲の人々は、驚き、戸惑いました。中には「あいつらは朝から新しいぶどう酒に酔っているのだ」と、あざける者もいました。誰も、聖霊の降臨という事態を、どう理解すればいいのかと分からず、混乱していたのです。その混乱の中でペトロは11人の弟子たちと共に立ち上がり、声を張り上げて語り始めました。14節に「立って、声を張り上げ話始めた」とあるが、これは「聖霊によってはっきり言った」との意味です。これが新約聖書に出てくる最初の説教です。ペトロはここで、聖霊降臨について知らない人々の誤解を解いたのです。

まず、ペトロはヨエル書3:1-5を引用しながら、聖霊降臨を「古い預言の成就」であると言います。2:17―18です。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。ペトロはヨエル書の「その後」を「終わりの時」と変えたのです。ペトロはヨエルの預言が終わりの時代に当てはまると考えており、彼の話を聞いているユダヤ人たちが、すでに終わりの時代を生きていると言うのです。神の最終的な救いが今、聖霊の降臨を通して実現されていることの意味です。「終わりの時」とは、世界の破滅ではないのです。それは、主イエス・キリストによって始まった神の救いが、完成される時であります。

また、ペトロは、終わりの日に注がれる聖霊が「すべての人」に行き渡ると語っています。それは世代を超え、性別を超え、そして身分の壁さえも超えて注がれるものです。「女性は男性より劣っている」とか、「肌の色が違えば能力も違う」といった考え、また「僕」と「はしため」を区別し、そこに優劣をつける見方は、人間が勝手に作り出した差別の壁にすぎません。優劣や能力の差をつけ、人を支配しようとする差別と分断は、神の業ではなく、人間の「罪」と「高慢」の業です。しかし、神は聖霊降臨を通して、人間の罪の業を打ち破られます。そして「若者は幻を見、老人は夢を見る」。「すると、彼らは預言する」とあるように、神の御心を伝える聖なる者として用いられます。信仰の歩みが浅いからとか、もう高齢だからとか、聖書についての知識がないからとか、そんなことを神は問いません。そうだからこそ、神はご自身の霊を注ぎ、神の夢を語らせるのです。

神は聖霊を注ぎ、私たちをキリストの証人として用いてくださいます。ペトロが解き明かしたのも、主イエス・キリストによる罪の贖いでした。キリストの「証人」だったからこそ、福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを語ったのです。では、なぜ証人はそこまでして悔い改めを語るのでしょうか。それは、キリストの十字架と復活を「自分の出来事」として深く受け止めているからです。キリストの愛に触れ、生きる本当の意味を見出したからこそ、語らずにはいられないのです。私たちはまさにキリストが、その全存在と命をかけて成し遂げてくださった十字架の尊い犠牲によって贖われました。キリストご自身こそが、命をかけた「神の救いの証人」だったのです。したがって、私たちが全人格をかけて神の証人として生きるということは、キリストのご生涯に倣うことにつながっています。

全人格をかけてキリストを証するということは、人間の「論理」や「言葉」の限界を超えた領域に、神が私たちの不完全な証を用いてくださるということでもあります。本来、神は秩序をもって論理的に語られる方です。私たちが神の偉大な救いの業のすべてを、人間の限られた言葉で矛盾もない形に説明し尽くすことは不可能です。そこには必ず、人間の理屈を超えた「神の奥義(ミステリー)」が存在します。ペトロは説教の後半において(2:22-25)、イエスの死はローマの死刑法によって執行された死だと言います。それが「神のお定め(計画)」です。ならば、ローマの人々が、またユダヤ人が、神のみ旨を行うことになります。これはありえません。主イエスの死というのは、神の救いの大きな御心であって、その大きな流れの中で、人間は自らの罪と意思によって主イエスを殺したのです。人間の悪の行いは人間の責任ですが、神はその人間の罪をも用いて、人類救済の計画を成し遂げられました。神は主イエスを復活させられたのです。復活は、人間の罪深い行いを遥かに超えて「神の救い」の約束こそが最終的に語られるべき、メッセージなのです。

論理的な矛盾の中でも、神の救いの業は続けられるのです。それを止める力はありません。キリストの復活についても、論理的に解き明かしはできませんが、キリストが今も生きておられると、語ることはできます。それは、人間の心を動かすのは洗練された弁論ではなく、証人の背後で働く聖霊だからです。2:37-38です。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですかと言った。すると、ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。ペトロのお勧めは主イエスのメッセージと全く一致しています。すでに神の救いは始まった。だから、それを信じて自らの人生の向きを変えなさいという意味です。悔い改めるからその代価として救いが与えられるのではないのです。信じることは悔い改めることであり、悔い改めることと信じることは同時に生じることです。神の霊に導かれて同時に心の中に起こる一つの事象なのです。

悔い改めは人生の方向を変えることです。生き方を変えることです。ペトロやパウロは方向転換を経験しました。彼らは、心から神を信じ、その通りに生きていました。自分の全存在と人格がキリストの中に置かれていることを自覚し、その中で生きていました。キリストのために生きることができなかったことを深く悔い、キリストのために新たな人生を歩むことが悔い改めです。翻って、私たちはどうでしょうか。「私は本当にキリストの愛に応えて生きているだろうか」。「そこまでの自信が自分にあるだろうか」。「キリストのためにすべてを捧げる心の備えはできているだろうか」。このように自問するとき、私たちは自分の弱さや不甲斐なさに直面せざるを得ません。備えの足りない私たちであるにもかかわらず、今日も生きてキリストを証することができる。このこと自体が、人間の論理を超えた大いなる「矛盾(パラドックス)」であり、神の恵みの証明です。自分自身の足りなさを常に問い、神の前にひれ伏し続けること。この「問い続ける姿勢」そのものが、私たちを「悔い改め的生き方」へと導きます。このように神は、日々新しくされる私たちの全人格を通して、今も世界に聖霊の業を現してくださるのです。

聖霊は「聖なる者は決して朽ち果てない」という確信へと導きます。ペトロは使徒言行録2:25-28で、詩編16編のダビデの詩を引用し、「あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と言います。神は私たちを、朽ち果てたままにはなさいません。「聖なる者」とはイエス・キリストのことですが、私たちもキリストの十字架の死と復活による贖いによって、聖なる者とされているのです。

20世紀初頭のアメリカのアズサ通りや朝鮮の地で、あらゆる社会的地位や人種の壁を超えて人々が命をかけたのも、全存在をかけてキリストに出会った「証人」となったからでした。これは、過ぎ去った歴史ではありません。神は今も、そのように全人格を捧げて従う者たちを通して、聖霊の業を成し遂げられるのです。死から復活し、朽ち果てない命を持たれた主イエスが、今や聖霊によって私たちと共に生きておられるという現実です。

聖霊によってキリストと結ばれた私たちは、すでに永遠の命の豊かさにあずかっています。私たちが地上で歩む中で、主イエス・キリストにあって、誰にも気づかれないような小さな愛の業、他者のために流した祈りの涙、苦難の中で守り通した誠実さは、決して無駄にならず、朽ち果てることもありません。私たちは、死に向かってただ消耗していく存在ではないのです。聖霊の注ぎによって神の国へとつながる確信を抱き、今日を喜びと賛美をもって生きることができます。真のリバイバルとは、聖霊の導きによって内面が新しく生まれ変わることです。私たちの内なる人が御霊によって日々新たにされ、教会が神の夢を熱く語る証人の群れとなるよう祈りつつ、共に主に仕えていきたいと思います。