聖日礼拝「働き人が与えられる喜び」
説 教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 詩編 125編 1~5節
新約聖書 使徒言行録1章 12~26節
先ほど朗読していただいた使徒言行録1:12-26は、主イエスの昇天の後に起こったある出来事を伝えています。それはユダの裏切りによって12使徒の中にできてしまった空席を、どのようにして補充したかということです。15節に「百二十人ほどの人々が一つになっていた」とあるが、主イエスの昇天を見届けた人々の数はおよそ120人でした。これはユダヤ人の慣習によれば、新しい共同体をつくるのにちょうど必要な数です。互いに「兄弟たち」と呼び合っていたこの120人の群れが最初の教会です。主の教会は、最初から合法的な群れでした。神は、新しいことを始めるために必要な土台を、あらかじめ過不足なく用意してくださっていたのです。
彼らは主イエスの命令に従い、オリーブ山からエルサレムに戻ります。その距離は「安息日にも歩ける距離」(12節)とあるように、2,000キュビト(およそ1km前後)以内とされています。120人の群れはエルサレムのある部屋に集まり「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。詩編125編にはこうあります。「山々がエルサレムを囲んでいるように、主は御民を今もとこしえに囲まれる」。弟子たちがエルサレムに戻り、祈りをしているとき、彼らの目にはエルサレムを取り囲む山々が見えていたはずです。彼らはその山々を見上げながら確信したのではないでしょうか。「私たちがこうして祈り、人を備えようとするよりも先に、神さまはすでに山のように大きく、私たちを包み込んで守ってくださっている」と。
教会の備えよりも先に、神さまのお守りが先行しているのです。 この大きな安心感(つまり、囲まれているという確信)があったからこそ、弟子たちは不安に陥ることなく、深い連帯意識の中に置かれていたのです。弟子たちは聖霊に満たされることを願って祈っていました。主イエスは彼らに聖霊を待ちなさいと言われましたが、弟子たちはただむなしく待っていたのではなく、祈りをもって聖霊の臨在を待っていたのです。彼らは心から備えをしていたのです。もし欠けがあれば、神が補ってほしいとの祈りだったのではないでしょうか。このときの120人のキリスト者は、神の備えという恵みを共有していたに違いないと思います。教会はこの想いを共有できる群れです。
この備えですが、11人の使徒だけの合意によらず、全教会的な集会において論じられ、決定されたのです。これはとても重要な意味をもつのです。それは、使徒が教会を作り出すのではなく、キリストの福音が教会を生み出すからです。教会のうえにあるのは、何よりも福音です。使徒は特別な存在ではなく、教会の中にあって、教会とともに行動する者です。これが彼らの信仰であり、その信仰が「兄弟たち」の群れである(15節)という深い連帯意識を育むように働いたのです。それは「神の家族」という意識であり、すでにそのような関係に入っていることへの確信でした。キリスト者の集まりは、自然な血縁関係を超えており、それこそが「兄弟意識」です。私たちを兄弟たらしめているのは、神なのです。
深い連帯意識に導かれた教会員たちの備えによって新しい使徒が与えられます。1:21-22です。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。使徒の資格は、人間の能力や財力、学歴や経験によって決まるものではありません。世的な条件ではなく、全く別の基準があったのです。二つの条件が問われていました。第一は、「いつも主イエスと一緒にいた者」です。主イエスの地上生活の同伴者であり、キリストと苦楽をともにしていたことです。主イエスが捕らえられ、苦しまれるとき、弟子たちは皆、逃げてしまいました。そこで彼らは、自らの信仰の弱さによる挫折を味わったのです。しかし同時に、復活のキリストによって再び立ち直らせられました。罪への深い認識と悔い改め―いわば「踏み絵」を踏むような経験を経た彼らを、キリストの復活が真の悔い改めへと導いたのです。
第二は、主の復活の証人であることです。福音は何か宗教理念の体系ではないのです。それはイエス・キリストの出来事です。だから、福音は出来事に対する証人を必要とするのです。主イエス・キリストの福音の証人が使徒です。この使徒の証は教会とともに、教会のためになされるのです。福音によってキリストの教会が建てられるのですから、使徒はあくまでもキリストの教会に仕える者として立てられているのです。
22節に「主の復活の証人になるべきです」とあるが、この「証人」にあたるギリシャ語は 「マルテュス」 です。三つの意味があります。第一の意味は、法廷などで「自分が直接見たこと、聞いたことをそのまま証言する人」、つまり目撃者です。第二の意味は、「イエス・キリストは今も生きておられる」という事実を、人々の前で実証および体現する人という意味。第三の意味は、「命をかける」という意味です。のちに「マルテュス」は英語の 「殉教者」 の語源になります。「命を奪われてもなお、この真実を曲げることはできない」というほどの強い確信と覚悟を持って立つ人。それが聖書の言う「証人」の本来の姿です。
この補充選挙によって「マティア」が12番目の使徒として選ばれました。意味は「ヤーウェの賜物・神の賜物」です。マティアはここだけに出てくる人ですし、あまり知られてない人でもあります。使徒を選ぶとき、教会は「祈り」をささげ、また「くじを引いた」のです。箴言16:33に「くじは膝の上に投げられるが、ふさわしい裁きはすべて主から来る」とあります。人間が選ぶのではなく、神が選んでくださるようにと言う願いです。働き人は教会が選ぶのではなく、神が選び教会に与えられるものです。
ここで私たちは、「選ばれた」という事実、そのものが持つ「重み」を覚えたいと思います。教会にとって、マティアという人物が「無名」であったこと自体に、むしろ大きな意味があるのではないでしょうか。彼が選ばれたのは、「名前が売れていたから」でも「目覚ましい手柄を立てたから」でもありません。ただ「主の復活の証人として、そこにいた」という事実、それだけで彼は十二使徒の列に加わる資格があったのです。これは、目立つ活動だけが信仰ではないという、私たちへの大きな励ましではないでしょうか。歴史の表舞台に名を残すことはなくとも、ただ黙々と与えられた役割を果たして去っていく。そう考えると、マティアこそは「最も謙虚で、最も無名な、しかし決して欠かすことのできない最後の一人」だったと言えるかもしれません。
私たちの役割がたとえ小さく見えたとしても、そのすべては神によって選ばれたものです。私たちは互いに、神の教会の「働き人」として迎え入れられています。いくら立派な建物であっても、レンガが一つ欠ければ、そこから崩れてしまいます。私たちは皆、マティアのように「無名な一人」かもしれません。しかし、主の教会にとっては、誰一人として欠けてはならない存在なのです。教会において、誰かが排除されるようなことがあってはなりません。互いを働き人として迎え合うこと、それは神への「服従」そのものです。教会を教会たらしめているのは、人間の計画ではなく、神のご意志です。神は、ご自身が選ばれた「人」を通して、その愛の思いを私たちに伝えてくださいます。新しい働き人を選ぶということは、単なる「欠員補充」ではありません。それは、神の愛と満ちあふれる恵みが、目に見える形となって私たちの間に届けられたということなのです。
ですから、働き人は神のみ旨が実現されることを願いつつ働くべきです。神の喜びと平和が、また愛と慈しみが働き人を通して伝わるようにとのことです。神の働き人は不調和を生じさせたらいけません。人に仕えることは神に仕えることです。人のために給仕の仕事をも喜んで引き受けるのが働き人であり、それが神に仕えることです。奉仕(ディアコニア)は尊い務めです。キリストが弟子たちの足を洗われたように、キリストが罪深い私たちのために死んでくださったように、キリストの謙遜にならい行う人が働き人です。キリストの謙遜が神の御心です。主イエスの善きサマリア人の譬えにあるように、誰にも助けられず半殺しされている人を助けるのが神の御心です。人の働きを通して、神のみ旨を示し、そのことを通して教会はますます深い連帯意識に導かれるのです。
互いに心を合わせて祈り合っていた120名の教会員にとってマティアが与えられたことは大きな喜びです。この箇所を読みながら、無牧師の教会のことを思い起こしました。そういう教会は「牧師が与えられますように」と、ひたすらそのことだけを祈るのです。そして牧師が与えられますと喜ぶのです。でも、それだけが、神の喜びのすべてではないと思います。そこに遣わされる働き人自身もまた、大きな喜びに包まれるのではないでしょうか。マティアにも、選ばれたことへの喜びがあったはずです。群れの喜びと、働き人の喜び。その両方が合わさることこそが、神さまの喜びなのです。
その喜びとは、務めが与えられる喜びでしょう。互いに仕える喜びでしょう。ともに神を仰ぎながら生かされている喜びでしょう。礼拝が楽しくて、讃美歌を歌うことが楽しくて、短い時間ではありますが、主の日に兄弟たちと顔を合わせることが楽しくなります。ともに伝道し、そういうときの苦しいことを分かち合うときも楽しいのです。また、働き人が覚えておくべきことは、神は必ず働き人を備えてくださることです。ユダが離反した後にマティアが与えられたように、神の働きは必ず神によって備えられるのです。
説教の冒頭において、120名の初代教会は「備える群れ」であったとお話ししました。しかし今、私たちはそれが決して「人間による備え」ではなかったことを知らされています。
すでに神の備えが先行しており、その恵みに導かれたからこそ、彼らは備えのための祈りを捧げることができたのではないでしょうか。だとすれば、私たちの歩みも同じです。私たちが今から何かを「備える」から問題が解決されるのではありません。また、その努力が私たちを喜びへと導くのでもありません。神の備えがすでに与えられているからこそ、私たちはその慈しみに導かれ、備えをさせていただけるのです。
私たちが「立派なキリスト者」として振る舞ったから救われたわけではありません。神がすでに、キリスト・イエスにおいて私たちを救おうと定めておられた。その神の備えこそが、私たちを救いへと導いたのです。この「神の先行する備えの恵み」を深く知るならば、私たちは「選ばれた喜び」に満たされるはずです。「救われている感謝」に溢れるはずです。そして、そのような喜びを抱く者が仕える場所では、必ず共に喜び合い、感謝が満ち溢れるのではないでしょうか。
もし、共に礼拝し、仕えることが喜びとなっていないのであれば、それは神が先立って備えてくださった恵み、すなわち「救いへの感謝」に、まだ心が満たされていない証拠かもしれません。もし私たちが感謝を失っているならば、本当の意味でキリストの証人となることはできず、この世にあって神の栄光を表すことも叶わないでしょう。このあと、120名の群れは聖霊降臨を体験し、世の人々を驚かせます。そして3000人もの人々をキリストへと導いていくのです。それが可能だったのは、彼らが「神の先行する備え」を信じ、その恵みにふさわしく生きることを心から願ったからです。それは「人間の努力(Doing)」ではありません。どこまでも「神の先行する恵み(Being)」に根ざした信仰です。
私たちの教会も、このような群れでありたいと願います。自分たちの業に頼るのではなく、神の恵みに生かされる喜びを分かち合いましょう。この教会の中だけでなく、この世においても、「神の大切な働き人」「かけがえのない存在」と互いに認め合い、キリストの復活の尊さを証ししていく。そのような務めを、全うしていくことを願いましょう。
