聖日礼拝「マルタとマリヤの家のキリスト」
説  教 谷村禎一長老
使徒書簡 フィリピの信徒への手紙 4章 4〜7節
福音書  ルカによる福音書 10章 38〜42節

もし、みなさんの家に宣教活動中のイエスさまをお迎えするとしたら、どのようにもてなしますか。

マルタとマリアの家に主イエスと弟子たち一行が招き入れられました。この聖書の場面で、マルタ、マリア、イエスの3人はどのような立ち位置、距離にあるのでしょうか。

オランダの画家フェルメール は、「マルタとマリアの家のキリスト」という作品で、この情景を描いています。これは、フェルメールが聖書を題材にした唯一の作品として知られています。
絵の中央には、白いテーブルクロスがかかった小さな丸い机があります。その右側の椅子に主イエスが座り、マリアはその前にひざまずいて、イエスを見つめています。一方マルタは、運んできたパンをテーブルに置きながら、イエスに語りかけています。ちょうど、イエスがマルタに答えておられる瞬間です。イエスのまなざしはマルタに向けられていますが、その右手はマリアを指し示しています。三人の顔を線で結ぶと逆三角形になりますが、イエスとマルタの距離は、イエスとマリアの半分ほどです。

イエスの時代には椅子に座る食事の形式は一般的ではありませんでした。しかし、この絵には、当時としては驚くべき光景が描かれています。マリアが、イエスのすぐそばでひざまずき、教えを聴いていることです。

ユダヤ教では、ラビの足もとに座って教えを受けるのは弟子の姿でした。福音書には、イエスの前にひれ伏して救いを求めた人はいます。しかし、このように近くに座り教えを受けている姿は例がありません。フェルメールは、マリアを「イエスの弟子」として描いているのです。

当時、シナゴーグで聖書を朗読し、祈りを導くのは男性だけでした。女性が宗教教育を受ける機会もほとんどありませんでした。そのような時代に、主イエスは、差別され、周辺へ追いやられていた女性たちと親しく交わられました。

世界で女性の権利が認められ始めるのは、20世紀に入ってからです。日本で女性参政権が認められたのは1945年でした。教会の中で女性が牧師として立てられるようになるまでにも、長い年月が必要でした。イエスがマリアをそばに座らせ、語りかけておられる姿は、時代をはるかに先取りする出来事であったのです。

さて、40節には、マルタが「そばに近寄って」とあります。マルタは、イエスのすぐ近くまで来て、不満を訴えています。それも、「何ともお思いにならないのですか。手伝うようにおっしゃってください」と語りかけているのです。マルタは、イエスと同じ土俵で、自分の不平や不満を率直にぶつけています。普通なら、イエスは「なぜ私に言うように指図するのか」と叱責されてもおかしくない場面かもしれません。しかし、イエスは「マルタ、マルタ」と二度、彼女の名を優しく呼ばれます。聖書において、名前を繰り返して呼ぶことは、深い親愛や愛情を表す呼びかけです。たとえばイエスは、ペトロに対しても「シモン、シモン」と呼びかけておられます。これは、相手を深く受け止める言葉なのです。

このような三人の姿と関係を見ていくと、イエスはマルタとマリアを、まるで家族のように親しく接しておられることがわかります。

そのことは、ラザロの記事にも記されています。188ページのヨハネによる福音書11章5節には、「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。この「愛」は、友情や親愛を表す愛の言葉です。イエスは、マルタ、マリア、ラザロと、非常に親しい交わりの中におられたのです。

さて、イエスの宣教活動は、三年ほど続いたと考えられています。その間、イエスと弟子たちは、どこで寝泊まりし、何を食べていたのでしょうか。

福音書を読んでいくと、いくつかの家が宣教の拠点になっていたことがうかがえます。ルカによる福音書8章には、「婦人たちが自分たちの持ち物を出し合って奉仕していた」と記されています。そこには、マグダラのマリア、ヨハナ、スザンナをはじめ、多くの女性たちの名前が挙げられています。彼女たちは、イエス一行の生活を支えていたのです。

ガリラヤでは、ペトロの家が重要な拠点の一つであったと思われます。また、徴税人ザアカイの家、レビであるマタイの家などでも、イエスは食事をされています。当時のユダヤ社会には、旅人に食事と寝床を提供する慣習があったようです。弟子たちも、「迎え入れてくれる家にとどまりなさい」と教えられています。

エルサレム近郊のベタニアでは、マルタ、マリア、ラザロの家が滞在先となっていたのでしょう。ファリサイ派の人々は、「イエスは罪人と食事をしている」と批判しました。しかし、身分や立場によって人を分け隔てせず、共に食卓を囲むことこそ、イエスの福音の中心の一つであったのです。

当時の食事はどのようなものだったのでしょうか。おそらく、パンに豆の煮込み、少量の野菜、時には焼き魚、といった質素な献立だったと思われます。一日二食ほどで、人々は横になりながら、大皿から手で取り分けて食べていました。そのため、大人数でも比較的柔軟に食卓を囲むことができたのでしょう。

さて、42節の「しかし、必要なことは一つだけである」という文章は、写本によって少し異なります。新約聖書には多くの写本がありますが、いくつかの古い写本では、この箇所は「必要なものは少ない。いや、一つだけである」と読むことができます。これを料理のことだと解釈する人がいます。

つまりマルタは、一行をもてなすために、たくさんの料理を一人で用意していたのでしょう。そのため忙しくなり、マリアにも手伝ってほしいと思ったのです。そこでイエスに、「手伝うように言ってください」と頼みました。それに対してイエスは、「そんなに多くの料理を作らなくてもよい。一つあれば十分ではないか」と語られたという解釈です。この読み方は間違っているかもしれませんが、現実的で、温かみがあります。久しぶりにイエス一行を迎えたマルタが、精いっぱい歓待したいと思ったのは自然なことです。しかしイエスは、「そんなになくてよい」と助言されたのかもしれません。当時のユダヤ文化では、多くの食事でもてなすことが大切にされていました。そして、その中でイエスが「たくさんの料理は要らない」と語られたのだとすれば、とても興味深いことです。しかし、注解書には、このひとつとは霊的なことであり、イエスの教えを聴くことであると書かれています。

さて、マルタとマリアのどちらをより高く評価するかについては、時代によって解釈の傾きが異なります。

教父アウグスティヌスの時代には、マルタの働きも必要ではあるものの、より高く評価されたのはマリアでした。中世になると、マリアの姿は修道士的な生き方の理想として受け止められます。宗教改革の時代にも、「行いによってではなく、信仰によって義とされる」という理解から、み言葉に聴くマリアの姿勢が重んじられました。

しかし近代になると、マリアばかりを高く評価することの危険性が指摘されるようになります。そして、具体的に人を支え、仕えるマルタの働きの大切さが、改めて見直されるようになりました。

おそらくマルタは、料理が上手だったのでしょう。空腹の弟子たちに、少しでも美味しいものを食べさせたいと思っていたに違いありません。しかし同時に、彼女はイエスの教えを深く理解していた人でもありました。ヨハネによる福音書11章で、マルタはイエスに向かってこう告白しています。「あなたは世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じています。」これは、とても重要な信仰告白です。マルタは、忙しく働くだけの人ではありませんでした。深い信仰を持った人であったのではないでしょうか。

一方マリアは、もしかすると細かな気配りや実務にはあまり向いていなかったのかもしれません。彼女は、何よりもまずイエスの言葉に耳を傾けることを大切にしていました。

40節の「もてなし」という言葉は、ギリシア語では「ディアコニア」です。後に教会の「執事」や「奉仕」の働きを表す大切な言葉となってきました。教会にとって「ディアコニア」は、教会の中における奉仕だけでなく、この世に建てられた教会の外への奉仕です。

城南教会では、皆さんの献金の7%を、国内で主にキリスト教主義に基づく社会活動を行っている約30の団体に献げています。これもまた、現代における「マルタ的な働き」と言えるでしょう。ディアコニアとは、教会が社会と関わる働きでもあります。教会は、この世から閉ざされた場所であってはなりません。

さて皆さん、この聖書の記事の続きを想像してみたくなりませんか。マルタは台所に戻り、マリアはイエスの元に留まったのでしょうか。

こうだったら素敵だなと思う展開があります。マリアが立ち上がって、
「お姉さん、ごめんなさい。お姉さんばかりに準備をさせてしまって。イエスさま、私、手伝ってきます」と言うのです。

一方、意外な展開もあります。マリアはパンをテーブルに置き、
「そうですよね。わたし、ちょっと取り乱していてごめんなさい。イエスさまのお話を、私ももっと聴きたいです。」と言ってイエスのそばに座ったのです。すると、空腹だった弟子たちが、仕方なく立ち上がって料理の続きに取り掛かった――そんな想像です。もっとも、弟子たちに料理ができたかどうかは、怪しいです。

この展開には、「家事や奉仕を女性だけの役割にしない」という現代的な問いかけが含まれています。奉仕は、男女を問わず共に担うものではないか、という視点です。

もちろん、神の言葉に聴くことが最も大切です。しかし同時に、ディアコニアの働きも軽んじることはできません。マリアだけを高く評価して、マルタの働きを低く見ることはできないのです。

教会には、マリアも必要ですし、マルタも必要です。それこそが、イエスが示された「共に生きる福音」なのだと思います。

最後にまとめてみます。

私たちは、男女の別なく、マリアとマルタの両方を兼ね備えた信仰者でありたいのです。二つの生き方のバランスを取りながら歩んでいきたいと思います。そして、そのバランスを保つうえで、決して失ってはならないのが、マリアのように神のみ言葉に耳を傾ける姿勢です。人によって、あるいは、人生の時期や置かれた状況によって、マリア的になることもあれば、マルタ的になることもあるでしょう。しかし、それもまた、神さまが与えてくださった多様な個性でしょう。その中で、もてなしの料理はひとつで良いという禁欲的な節度も重要かと思います。互いの違いを認め合いながら、共に歩んでゆきたいと思います。

このあと、讃美歌493番「いつくしみふかい友なるイエス」を歌います。

私たちの友となってくださった主イエスは、まことに慈しみ深い方です。主は、私たちを家族のように親しく受け入れてくださいます。私たちの弱さも、罪も、悩みも知っていてくださいます。そして、私たちの嘆きや愚痴に耳を傾け、慰めを与えてくださいます。

その友なる主イエスの愛と交わりをいただきながら、私たちはこの世界のすべての人々と共に、主の平和を求めて歩んでいくことができるのです。