聖日礼拝「すべての者を弟子にしなさい」
説  教    崔 炳一 牧師
旧約聖書  イザヤ書 49章 1~6節
新約聖書  マタイによる福音書 28章16〜20節

マタイによる福音書28章16節から20節は、主イエスが残された大宣教命令として知られている箇所です。主は19節で、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられました。ここで主イエスが示された宣教の目的は、単にキリスト教の知識を広めることではなく、「すべての人を弟子にする」ことにあります。「弟子」とは、主イエスの歩みに倣い、キリストのように生きる人のことを指します。

それでは、「弟子になる」とは、どういうことでしょうか。20節には、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、わたしが命じておいたすべてを、守るように教えなさい」とあります。まず「洗礼を授ける」とは、自らの罪を悔い改めて古い自分に別れを告げ、父と子、そして聖霊という三位一体の神との深い交わりの中に迎え入れられることです。罪人が主イエス・キリストを信じることによって義とされること、つまり神との正しい関係に入れられることを意味します。創世記15章6節では、アブラハムが神を信じ、それが彼の義と認められたように、私たちもまた神に受け入れられ、信仰の歩みの入り口に立ちます。それが洗礼の持つ恵みなのです。「弟子にする」という働きも、このアブラハムのような信頼関係へと人々を招くことだと言えます。

次に、主イエスは、洗礼を受けた人々に対して「わたしが命じておいたすべてを、守るように教えなさい」と命じられました。「守るように教える」ことの本質は、神への従順にあります。信仰とは、主の御言葉に従うという具体的な歩みを通して、形作られていくものです。主が示された愛の戒めを、日々の生活の中で、いかに体現できるか。悩みながらも懸命に追い求める、その試行錯誤こそが、神との信頼関係に導きいれられた者の品性を清める聖なる格闘となります。この歩みを通じて主の命令を守るよう導くこと、それは、私たちがキリストの似姿へと変えられていくのです。

ところが、弟子を育てるということは、単に誰かを洗礼へと導いて終わる、といった一過性の働きではありません。それは、主にある豊かな交わりの中で、共に聖なる者へと成長していく継続的なプロセスです。弟子が弟子を生み出す、ということです。先に主の弟子として導かれた私たちが、その生き様を通して、また新たな弟子を育んでいく。この連鎖こそが主イエスの願いであり、そこで主イエスは私たちの歩みを用いて、御業をなさるのです。

さらに、この大宣教命令に従うことは、導かれる側のためだけではありません。実のことを言うと、先に弟子となった者自身である私たちが、人を弟子にしようと励むのですが、その働きを通して最も深く聖められていくのです。主の命令を実践しようと格闘し、誰かの信仰に寄り添う中で、私たちの内にあるキリストの形は、より鮮明に、より深く刻まれていきます。主の弟子をつくるとは、主の愛の中で共に成長していく歩みです。私たちは、誰かを主のもとへ導くことを通して、私たち自身が深く主の弟子へと造り変えられていきます。

およそ7、8年前のことですが、私には忘れられない出来事があります。愛するお孫さんを亡くされた、あるご高齢のご夫婦がいました。お孫さんは小児がんを患い、わずか12歳という若さで天に召されたのです。「孫と一緒のお墓に入りたい」。その一心な願いを抱いて、お二人は教会を訪れるようになりました。私はお二人にこうお伝えしました。「お墓に入ることに執着しすぎる必要はありません。お孫さんは今、神様の国にいます。神様を信じるならば、いつか天国で再会できるのですよ」と。その言葉をきっかけに、まずは奥さんが、一年という月日をかけてじっくりと学びを深め、洗礼を受けられました。

しかしその後、奥さんも病に倒れ入院することとなり、天に召されていきました。お二人はそれぞれ別の病院に入院されていたため、ご主人は奥さんが亡くなったことを知りませんでした。お見舞いに伺っても、奥さんが天に召されたと伝えるのはあまりに辛く、伏せておくことにしたのです。その後、ご主人も脳腫瘍の手術を受けられました。そして、入院先の病院から、長崎の出島の近くにある病院へと転院されることになったのです。

ある日曜日のことです。転院の知らせを受けて病院を訪ねました。脳手術の跡が残っている頭に包帯を巻いた彼を目の当たりにし、死が間近に迫っていることを直感せずにはいられず、言いようのない悲しみがこみ上げました。まずは共に祈りを捧げました。翌週の日曜日には病床洗礼を授けようと心に決め、その日は帰ることにしました。別れの際、彼の手を握り「~さん、来週に、また来ますからね。聖書を読んで、一緒に祈りましょう」と声をかけました。すると彼は、私の手を強く握り返し、こう言ったのです。「先生、私は神さまを大事にしますから……」。「神さまを大事にしますから」と何度も繰り返しながら、いつまでも私の手を離そうとはしませんでした。

私は彼に「分かっています。来週、また来ますから」と言い、無理やり彼の手を離して家に帰ってきました。ところが四日後、彼は帰らぬ人となりました。報せを聞いたとき、「あの時、すぐに応えるべきだったのではないか」という思いがこみ上げ、それは今も消えることはありません。この経験を通して教えられたことがあります。それは、神の働きに対して、今、すぐに応答することの切実な大切さです。そしてもう一つは、人間の歩みにおいて、たとえそれが判断の誤りであったとしても、神はその背後ですでに働いておられるということです。言い換えれば、自分は正しく判断できる。自分は愛のある行動ができるという自信。つまり、自分の義を打ち砕かれる経験でした。また、神の主権への全き信頼への移行。自分の失敗さえも神が包み込み、用いて完成させてくださると信じられるようになることです。

主は「すべての人を弟子にせよ」と命じられた直後、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この約束を与えられた「あなたがた」とは一体誰なのか。弟子たちであり、私たちです。17節を見ると、そこには主に出会い、ひれ伏しながらも、「疑う者もいた」と記されています。この「疑う」という言葉は、神を否定する不信仰ではありません。二つの思いの間で揺れ動くこと、また確信が持てず、ためらうこと、迷うことという、私たちの誰もが抱く心の弱さです。

弟子たちは、完璧な確信があったからひれ伏したのではありません。戸惑いや不安を抱えたまま、それでも主の前にひれ伏したのです。主イエスは、彼らに対して、疑いが晴れて、立派な信仰を持ってから行きなさい、とは仰いませんでした。むしろ、揺れ動く弱さを抱えたままの彼らを信頼し、その姿のままで、「全世界へ行く」という重大な務めを託されたのです。この不完全な者への信頼を支えるものこそが、「わたしは世の終わりまで共にいる」という約束です。

主が「共におられる」ということは、単なる精神的な支えではないと思います。それは、具体的に私たちを助け、導く存在がすでにおられることです。ヨハネによる福音書の中で、主イエスはこう約束されました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ14:16-17)。かつて、ためらいの中にあった弟子たちは、聖霊に満たされることで、力強い主の証人へと変えられていきました(使徒言行録1:8)。私たちも同じです。自分一人の力で疑いの壁を乗り越える必要はありません。復活の主が聖霊によって私たちの内側におられ、私たちを内側から造り変えてくださるからです。

主イエスが聖霊において「世の終わりまで共におられる」がゆえに、福音を伝える歩みは、決して孤独な戦いではありません。それは、主イエスご自身が、私たちを通して継続される御業なのです。自分のような弱さを持つ者が、弟子を育てることなどできるだろうかと、ためらう必要はありません。私たちの弱さを知った上で「共に行く」と言ってくださる主を信頼してほしいです。その確信こそが、私たちを疑いから解放し、次の一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのです。それゆえ、「すべての人を弟子にしなさい」という主イエスの命令は、主イエスがいつまでも共におられるというインマヌエルの約束です。それは弱さを抱えたままの私たちと共におられること、大宣教命令は、主への信頼を確かにするものであるということ、決して孤独な戦いではないということ。そういう確信へと導くのです。

今週、私たちは大きなことをする必要はありません。ただ、「共におられる主」を信じて、弟子となるために、また弟子にするために、一歩を踏み出してほしいです。不完全なままでよいのです。そのままで遣わされているからです。失敗した自分自身さえも神の手の中にあります。過去の痛みや過ちをただの後悔に終わらせず、出会う人に、次はないかもしれない、という切実さを持って、今、手を差し伸べることへと変えられたのであれば、それは私たちの内面で聖霊がすでに働かれた確かな証拠であり、これがまさに聖化の一歩でありましょう。主イエスは世の終わりまで共におられます。この約束に信頼して、それぞれの託された場所において、「すべての者を弟子にする」との務めを果たしていきたいと願うのであります。