聖日礼拝「私に従いなさい」
説  教    崔 炳一 牧師
旧約聖書  民数記27章 15~17節
新約聖書  ヨハネによる福音書 21章15〜19節

敬愛する兄弟姉妹の皆さん。

今朝、私たちは再び神さまの御前に集い、ともに礼拝をささげています。これは毎週のことですが、私たちにとっては大切なひとときです。このときが与えられるのは、すぐる1週間の歩みが守られたからに他なりません。その神さまのお守りとお導きを神さまの愛に言い換えることができると思います。一見、当たり前のように見えますが、実はそうではないこと、ともに神さまの愛を覚えつつ、御ことばに聴いていきたいと願います。

そこで、皆さんに問いかけたいのです。私たちは、本当に神さまを愛しているでしょうか。神さまを愛するとは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。今、心の底から私は神さまを愛していますと言い切ることができるでしょうか。もし言えるのだとしたら、その確信はどこから来るのでしょうか。反対に、もし今、神さまの愛を見失っていると感じたり、自分の中の愛が冷え切って薄れているように思えたりするなら、その愛はいったい、どのようにして回復されるのでしょうか。このようなことを、立ち止まって深く考えてみたことがあるでしょうか。

私たちは「神さまは愛である」と聞き、当然自分は「神さまに愛されるべきだ」と考えます。でも、もしかしたら、その思いに押しつぶされそうになったり、悩んだりしているかもしれません。なぜならば、復活の主イエスは「あなたは私を愛しているのか」と問うているからです。欧米人は、妻や夫、そして子供など、家族に対してよく「愛しているよ」と言います。それに比べると、私たちは「愛している」の代わりに「大切に思っている」や「いつもありがとう」という言葉をもっと好みます。「愛」を口にすることを恥ずかしいと感じる傾向があるようです。「愛しているよ」と急にそんなことを言うと、「今さら何を言ってるの?」と驚かれてしまうかもしれませんね。あるいは怒られるかもしれません。

でも、復活のキリストは「あなたは私を愛しているのか」と問うています。阿吽の呼吸とも言えますが、言葉にしなくても伝わる、いわゆる「察する文化」が根底にあるため、直接的言わなくても、神さま、あなたは分かるのでしょうとお答えるのでしょうか。「はい、私はあなたを愛しています」と軽々しい言い方ではなく、神さまに大切にされていることへの感謝の告白だと思います。そしてこれは私たちが神さまを本当に愛しているのか。それを確かめることができます。それゆえ、「あなたは私を愛しているのか」は、今日、聴くべき神さまの「福音」であります。

今日、与えられておりますヨハネによる福音書21:15-19には、主イエスとペトロとの私的な対話が記されています。この物語は21:1-14の続きです。1-3節です。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」。

主イエスが弟子たちの前に御自身を現されたのは、このときが3度目になります。その後、主イエスは弟子たちのために朝の食事を用意し、ともにパンと魚を食べます。5000人への給食のこと、また主イエスがまことの命のパンであることを、弟子たちはおそらく思い起こしていたに違いないと思います。復活の主と共にパンを囲んだあの食卓のように、私たちもまた、礼拝や聖餐のひとときを通して主と出会います。そこで十字架と復活の深い結びつきを悟り、自分自身に永遠の命が与えられているという確信へと導かれます。この恵みこそが、私たちの神への愛をよりいっそう確かなものにしてくれるのではないでしょうか。

食事が終わると、主イエスはペトロに「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と問われました。ここで主が言われた「この人たち以上に」とは、いったい誰(あるいは何)を指しているのでしょうか。一つは、ペトロと共に苦楽を共にしてきた同僚の弟子たちです。共にガリラヤで漁をし、共にキリストに従ってきた仲間への想いを指していると考えられます。もう一つは、「世の人々すべて」を指しているという解釈です。「世の人々がわたしを愛するよりも、あなたはもっと深くわたしを愛するか」という問いかけです。これを現代的なイメージに置き換えるなら、「あなたは、自分の仕事やこれまでの人間関係よりも、何よりもまずわたしを愛するか」という問いとして受け止めることもできるでしょう。しかし、主がここで愛の深さを問うたのは、決して誰かと比べて序列をつけるためではありません。むしろ、三度、主を拒んだペトロの痛みに寄り添い、彼との関係を根底から回復させるための、愛に満ちた招きだったのです。

キリストはペトロに、三度「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われますが、これはペトロの三度の否認と対応しています。私は決して主を捨てることはしない。主のためには自分の命さえもさえも捨てる(ヨハネ13:37)と言い張ったペトロです。ところが、ペトロは弱い人間でした。死の恐怖の前で、彼は主のために信仰を貫くことはできませんでした。キリストとの関係を自らが切ってしまった。主イエスは三度「この人たち以上にわたしを愛しているか」と彼に言いましたが、これは罪の清算ではありません。愛の告白を通してペトロを回復へと導く恵みに満ちた配慮です。

私たちはペトロという人物をよく知っています。ルカによる福音書5章によれば、彼は網が破れんばかりの奇跡を体験し、主イエスの圧倒的な聖さを前に「私は罪人です」とひれ伏した人でした。ペトロは主に対し「あなたは生ける神の御子です」と確かな信仰を告白し、主イエスから「ペトロ(岩)」という名を授かりました。彼は主の変容の山にも同行し、復活の朝には、空になった墓を目撃しています。まさに彼の歩みは、常に主イエスと共にありました。主イエスとの出会いによって、ペトロの人生は「特別なもの」へと変えられたのです。ペトロの人生は、主イエスの愛の中に置かれていたのです。もし主への信仰がなかったならば、彼は大勢いる漁師の一人として、その生涯を終えていたに違いありません。

主の愛によって「特別な人生」を与えられたペトロでしたが、主が苦難の中にあるとき、彼は三度も主を拒みました。それは、単に自分の過去を否定しただけではありません。キリストの愛によって積み上げられてきた人生そのものを、自ら否定してしまったのです。主イエスと共に歩んだ三年間、注がれ続けてきた主の愛をはかることはできません。ペトロはその愛を、まるで一瞬にして崩れ去る「砂の城」に変えてしまいました。このペトロの姿は、私たち自身の姿でもあります。罪は私たちにキリストの愛を忘れさせ、主を「自分とは無関係な存在」へと変えてしまいます。神さまとの絆を自ら断ち切るよう、罪は密やかに働きかけるのです。その断絶は一瞬で成されますが、同時に私たちの人生もまた、砂の城のように崩れ落ちてしまいます。そして、その崩れた人生を、自分自身の力で修復することは不可能なのです。「この人たち以上にわたしを愛しているか」とは、主イエスとの関係の回復ですが、と同時に主に従っていくペトロの人生を砂の上に立てられたものではなく、岩の上に建て替えようとするキリストのお招きです。

主イエスは、「私はあなたを愛しているよ」とは言いませんでした。そうではなく、「あなた自身が私を愛しているのか」と言われます。これはこれまでの歩みを肯定したうえでのキリストの問いです。最初のときには「あなたを愛しているよ」と言われたかもしれません。しかし、ペトロのように一度、躓いたときは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われます。神さまを愛することは、自分を愛すること。そして自分を愛せるようになった心から、隣人への愛が流れ出していきます。ペトロが自分の命を、守るために主イエスを知らないと言ったのは、自分を愛してないことです。でも、キリストの問いの背後にずっと流れているのは、ペトロをはじめ、つまずきの中にいる私たちへの決して変わらない愛です。

主イエスは、まずペトロに15節と16節、17節において「私を愛しているか」と言われます。15節と16節においては神の愛を意味するアガペーが用いられました。おそらく一度くらいは説教や聖書研究で聞いたことのあることばだと思います。これは、「見返りを求めない愛」つまり無償の愛です。また、意思によって選び取る愛と言います。他者の幸せを願い、自己犠牲的な愛です。これが神さまの愛です。それに対してペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロの言う愛は「フィレイン」です。これは人間相互の友情といった意味で用いられることばです。こう言いますと、アガペーとフィレインは大きな差があると思われるかもしれませんが、聖書では必ずしもそうではないのです。

もちろん、言葉のニュアンスには確かな違いがあります。例えば、マタイによる福音書18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」を思い出してください。王から「一万タラントン」という途方もない借金を免除された家来が、わずか「百デナリ」を貸していた仲間を赦さず、牢に入れてしまう物語です。主イエスはここで、「神さまの圧倒的な赦しを受けた者は、同じように他者を赦すべきである」という真理を説かれました。少し飛躍した捉え方かもしれませんが、この「赦し」を「愛」に入れ替えて考えてみましょう。すると、アガペー(神さまの圧倒的な愛)と、フィレイン(人間的な親愛)の違いが、よりはっきりと見えてくるのではないでしょうか。

ところが、三度目に主イエスはペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われます。このとき主が使われたのは、「フィレイン(友愛)」という言葉でした。人間的な限界の中で、精一杯にしか愛することのできない私たちの次元まで、キリストは自ら降りてきてくださいました。そして、「今のあなたの愛でいいのだよ」と、その不完全な愛をそのまま受け入れてくださったのです。これを先ほど取り上げた「仲間を赦さない家来のたとえ」から言うと、自分に少額の借金がある仲間を許すこと、言い換えれば愛すること、その存在と人生を大切にしてあげることがキリストは神さまの愛だと容認してくださることです。キリストから三度に渡って「私を愛しているか」と言われたペトロに、キリストはご自身の羊を養い(飼うこと)、導き、守ること(牧すること)を委ねてくださいました。つまり、食べ物を与え、育てることをまず、主イエスは命じられたのです。そして世話することは、正しい方向へと導くことです。これらは主イエスを愛することです。

説教の冒頭において日本的な美学としての「阿吽の呼吸」のことを取り上げました。私たちは、以心伝心を美徳としています。多くを語らずとも分かり合える関係は、確かに尊いものです。そのため、全知全能の神さまが私たちのすべてを知っているなら、愛の告白も、信仰の再確認も、今さら必要ないはずだと考えてしまいがちです。けれども、聖書が描いているキリストは違います。すべてをご存じである主イエスが、「あなたは、わたしを愛しているか」とあえて言葉にして問われます。この問いは、私たちの過去を裁くためのものではありません。沈黙の中に隠れてしまった私たちの信仰を、もう一度、光の中に引き出すための問いです。復活の主イエス・キリストは、傷ついた私たちが本来の姿を取り戻し、新しく歩み出すために、愛の確認を求めておられるのです。

主イエスの愛は、決して変わることがありません。私たちが躓き、立ち止まっていた時でさえ、主は変わらぬ愛と赦しをもって私たちを養い、導いてくださいました。なぜなら、主イエスご自身が私たちの「まことの牧者」だからです。私たちは、主の尊い贖いによって、常に守られ、育まれてきました。その主が私たちに求めておられるのは、決して完璧な愛ではありません。たとえそれが不完全な、人間的な愛であったとしても、「その愛をもって、互いに養い合いなさい」と仰るのです。私たちがその小さな愛の一歩を踏み出すとき、主イエスはそこに「まことの牧者」として現れ、私たちを導いてくださいます。

そうであるならば、私たちの問いは、このように変わっていくはずです。「私たちと教会は今、果たして主イエスを愛しているだろうか」。そして、「その愛は、人々をまことの牧者へと導く愛であろうか」と。この問い、否、この「福音」に導かれるとき、私たちは主から委ねられた場所で、新しく歩み出すことができます。まことの牧者に守られつつ、主が託してくださった使命を共に果たしていきましょう。父と子と聖霊の祝福が、皆さんの上に豊かにありますように。