聖日礼拝「信じる者に与えられる幸い」
説 教 崔 炳一 牧師
旧約聖書 詩篇 29篇 11節
新約聖書 ヨハネによる福音書 20章 19〜29節
今日は、イースター後の第二の聖日です。私たちは、主イエス・キリストの復活を信じる者として、今ここに集められています。このこと自体が、主が今も生きておられることの証しです。この恵みを覚え、感謝をもって神さまの御ことばに聞いてまいりましょう。
主イエスは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」(19節)と仰せになります。その日は主イエスが復活した日の夕方でした。また、主イエスは八日後に再び現れ、弟子たちの証言を信じることを恐れていたトマスにも同じく、「あなたがたに平和があるように」(26節)と言われます。ヨハネによる福音書20:19-29に描かれている弟子たちの姿は、復活の証人と呼ぶには程遠いものでした。彼らはキリストが死から復活されたと、また証言と証拠があったにもかかわらず、喜ぶよりむしろ恐れに包まれたのです。
弟子たちが恐れていたのは、自分たちも主イエスと同じように迫害され、命を狙われるかもしれないという現実的な恐怖だったと思います。一つは、当時の指導層から自分たちが標的になるのではないかという不安だと思います。もう一つは、主イエスの復活を伝えることは、当時の指導層の決定を公然と否定する行為であり、それは政治的にも・宗教的にも危険な行為です。彼らは四面楚歌の状態でした。弟子たちは迫り来る死への恐れにとらわれ、家の戸に鍵をかけたのです。そこには平和はありませんでした。それは復活によって与えられるはずの平和を理解できなかったことに起因していたと言えるでしょう。
外側の扉と心の扉に鍵をかけて震えていた弟子たちに、主イエスはまず「あなたがたに平和があるように」と語られました。これは単なる挨拶ではないのです。ましてや彼らが主イエスを裏切り、逃げ出したことの責め立てることばでもありません。弟子たちを包み込んでいるすべての不安と自責から解放されるようにとの、主イエスの慈しみに満ちた言葉であります。これは、愛と赦しに満ちた主イエスの御心そのものであると言ってよいでしょう。
平和は神の賜物です。私たちはどういうときに神から平和が与えられたと感じられるのでしょうか。それは、自らの罪が赦されたと知らされるときではないでしょうか。他人から自分の過ちが赦されたとき、心は穏やかになり、神さまの平和に包まれ感謝するのです。また、主の赦しによって、すべての疑いから解き放たれるときに、神さまの平和を心から深く覚えるのです。20節に「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。主イエスはご自身の「手とわき腹」を見せることで、十字架で死なれたお方と、いま目の前におられる復活の主が同一であることを証しされました。主イエスは死をもって死に勝利されたその姿を通して、死の不安を取り除くまことの平和をお示しになったのです。
主イエスの赦しの宣言と、その慈しみによって弟子たちを疑いの淵から解放したといえるでしょう。また、主イエスはさらに疑い深いトマスにも「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と励まし、信仰へと導いたのです。疑いは時として非常に頑ななものであり、神さまの存在をさえ拒絶してしまうかのような力を持ちます。しかし、主イエスはその頑なな疑いの壁を、ご自身の傷跡をもって優しく打ち砕いてくださるのです。断絶されたすべての関係を主は、こうして回復へと導いたのです。これがキリストの平和です。
私たちの世界が考えている平和は、力による平和です。しかし、戦争や分断が絶えないのが現実です。力による平和はいつも不安定な平和のみを作り出すのです。それはまことの平和ではありません。世界に求められているのは、復活の主がもたらす平和です。主イエスが復活の後、恐れの中にいた弟子たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と語られたのは、罪と死に打ち勝った命の平和を与えるためでした。この平和は単なる争いの不在ではなく、神さまの赦しによる和解から与えられる新たな命の状態です。
主イエスは「あなたがたに平和があるように」と仰せになりました。これは弟子たちにとどまるものではありません。主は弟子たちを平和のために、この世に送り出しました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。弟子たちが赴くべき世は、自分たちが標的になるのではないかという不安を持たせた世です。神さまとの平和は、自己との平和へと導き、さらに世界の平和のため送り出されるものです。しかし、主は人間を一人にして送り出しません。「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい」(22節)とあるように、心の不安を取り除く主の平和は、聖霊の導きによって世界へと広がるのです。
復活の主は、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)と仰せになりました。私たちが罪を赦すから、人の罪が赦されるわけではないのです。私たちには赦す権能がありません。主イエスが私たちに委ねられた罪の赦しとは、神さまが赦しておられることを、人々に宣言することです。あなたがたが赦せば、つまり福音を伝え、悔い改めを促せば、その人は神さまの赦しの中に招かれます。もし、赦さなければ、つまり福音を拒めば、あるいは悔い改めを促さなければ、その人は罪の中に留まることになります。それを宣べ伝える務めが私たちに委ねられています。
では、人の罪を赦せない者が、果たして福音-主イエスの死と復活-を宣べ伝えることができるのでしょうか。また、救われることを願うことができるのでしょうか。神さまから罪を赦されたものとして、人の罪や過ちを赦すことは、すでにその人が平和に置かれていることです。だから、赦された者の集いである教会は、この世に主の平和を証しする務めが委ねられているのではないでしょうか。使徒パウロは次のように勧めています。コロサイの信徒への手紙3:13-15です。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、完成に至らせる絆です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずかるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」。
弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と仰せになったキリストは、復活した主との確かな出会いを求めたトマスに現れました。私たちは彼を「疑い深いトマス」と呼び、他の弟子たちと比べて不信仰な人物のように見なしがちです。しかし、この理解は本当に正しいのでしょうか。主イエスの復活の喜びをすぐには受け入れられず、恐れのゆえに家と心の扉を固く閉ざしていたという点では、他の弟子たちとトマスとの間に本質的な違いはなかったのではないかと考えられます。
トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(25節)と言いました。愛する先生を十字架に追いやった痛み、そしてあの時、主を一人にして逃げ出してしまったという深い悔恨がトマスの中で渦巻いていたと思います。彼は、自分の理性を納得させるような確かな出会いを切実に求めていたのです。この有名な言葉は、主イエス・キリストとの関係を真正面から取り戻そうとする、トマスの真摯な魂の叫びでもあったと言えるでしょう。人の証言を通して、キリストの復活の確かさを信じることはできない。そういう自分を主イエスが顧みてくださることへの願いであって、キリストともう一度向き合いたいという主の愛を求めた真実な祈りです。
八日後、すでに弟子たちは主イエスの復活を経験したのに、主イエスは再び現れたのです。それは「わざわざ」トマス、たった一人のために現れたのです。驚くべきことに、復活の主イエスは、そのトマスの要求に丁寧に応えてくださいました。主イエスは、トマスが触れたいと願った釘の跡を、あえてその身体に残したまま現れたのです。主はトマスに言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と。これは主イエスの復活を否定したトマスへの赦しの宣言であり、断絶された関係の回復という平和の宣言であります。主の御前で、トマスは心の奥底まで見通され、裸の人間のように無防備にさらされましたが、キリストの赦しによって、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したのです。そして不信仰から解放され、キリストの平和へと導かれました。
先ほど朗読した詩編29:11にこう記されています。「主は御自分の民に力を与え、平和をもって民を祝福される」。この約束は主イエス・キリストの死と復活において成就されました。わたしたちを罪から贖われた主は、かつても今も、変わることなくわたしたちの内に平和を注ぎ続けておられるのです。私たちが信仰の弱さのため、神さまの存在さえ疑ってしまうような深い闇や苦しみの中にいても、主は赦しを通して、私たちを真の平和へと導いてくださるのです。しかも主は、全体に向けて語るだけではありません。トマスに対してそうされたように、一人ひとりが抱える疑いの深さや、それぞれの弱さのあり方に応じて、まさにその人のために、あえてわざわざ現れ、語り続けられるお方です。
疑いの中にいても、人生の扉にどんなに固い鍵がかかっていても、それがたとえ、皆さんが自分自身でかけた鍵であっても、あるいは、他人の過ちによって不本意に閉ざされてしまった鍵であっても、そしてそれによって不信仰や、疑い、恐れの中に置かれても、そのすべてを包み込んでくれるものが、主イエス・キリストの平和であることを覚えていきましょう。そしてキリストは、弟子たちに現れたのですが、今、ここに、そして今日から始まる皆さんの歩みと、遣わされる場所に現れてくださるのです。「あなたがたに平和があるように」。この福音を胸に刻みながら、キリストの贖いによる平和を伝える務めを果たすことを祈り求めていきたいと思います。今週の歩みのうえに父と子と聖霊の祝福が豊かにありますように。
