聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第24回「一言おっしゃってください」 説教 澤 正幸牧師
使徒書簡 ペトロの手紙(1)1章3~9節
新約聖書 ルカによる福音書 7章1〜10節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第24回
「一言おっしゃってください」 ルカによる福音書7章1〜10節

「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。」(2節)今日読んでいる物語は、瀕死の病にかかっている部下を抱えた百人隊長が、主イエスによってその部下の病気を癒していただいたという話です。この物語の主人公は百人隊長であり、この物語の主題は百人隊長の信仰です。

ところが、この物語において、主人公であるはずの百人隊長は主イエスに直接会うことはなかったのでした。主人公である百人隊長が舞台の中央に立つ場面もないのです。

百人隊長は主イエスのことを聞きます。すると、ユダヤ人の長老たちに頼んで、主イエスのところに行って、部下を助けにきてくださるよう頼んだのでした。
長老たちは、この百人隊長のために、主イエスに熱心に願いました。

主イエスも、その願いに応えて一緒に、百人隊長の家に向かって出かけられます。
ところが、一行が家から遠からぬ所まで来たときに、再度、百人隊長は人を遣わしました。今度は、彼の友人たちでした。

彼は友人たちにこう言わせます。
「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7節)

百人隊長はこう続けます。(8節)

「わたしも権威の下に置かれている者です」。百人隊長の上には千人隊長をはじめ、一番上には皇帝が君臨する、そのヒエラルキーの一番下の方に位置する、いわば下っ端でしかない下級将校でしたが、そのような彼の下にも、彼の命令に忠実に聞き従う兵隊たちがいました。そうであれば、自分のような者が、主イエスのみ言葉の権威に聞き従うのは当然ですと言ったのでした。

主イエスは友人たちの口を通して伝えられた百人隊長の言葉を聞いて感心し、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。そして、百人隊長が信じた通り、彼の僕は主イエスのみ言葉によって癒されたのでした。(10節)

この間、主イエスと百人隊長の間には、二度、彼から遣わされた人々、最初はユダヤ人の長老たち、二度目は友人たちが立っていて、主イエスと百人隊長は距離を隔てて互いに顔と顔を合わせて直接あってはいないのです。

みなさん、この百人隊長という人物は一体誰なのでしょうか。
まず、この人はユダヤ人ではありませんでした。ユダヤ人ではない異邦人、外国人だったということは、ユダヤ人である主イエスを異邦人である自分の家に招きれることが、双方にとってためらわれるような、社会的な壁がお互いの間にあった人だったということを意味しています。

しかし、異邦人であるこの人には愛がありました。外国人でありながらユダヤ人を愛していました。また彼は部下の兵隊の命を心から心配する、同胞に対する深い愛情をも持っている人でした。

ルカは今日の百人隊長の話を、「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」と7章1節で書き出しています。

主イエスが前の6章までに記されている平原の説教を語られたのは、弟子たちに対してではなかったのでしょうか。いいえ、ルカはここではっきりと、主イエスがこれらの言葉を語られたのは民衆に向けてだったと記しています。主イエスは、弟子たちを超えて、弟子たちの背後で耳を傾けている大勢の民衆に向けて、平原の説教の言葉をすべて語られたのです。

では、そのとき、この百人隊長はどこに立っていたでしょうか。彼は、主イエスが平原の説教をお語りになったとき、そこにはおりませんでした。
主イエスが平原の説教を語られたとき、そこには主イエスを囲むようにして弟子たちがいました。そして、その弟子たちの外側に、ユダヤ人の民衆がいました。しかし、この百人隊長は、ユダヤ人の民衆のさらに外側にいた人だと言わなければなりません。その民衆の輪に近づくこともできない、いわば一番遠くに立っていた人でした。そこで、百人隊長は人づてに主イエスのことを聞いたのでした。

でも、その一番遠くに立っていた外国人の百人隊長が、主イエスの言葉を求めたのです。彼は間に立った友人を通して、主イエスにひと言おっしゃってくださいと願いました。しかも、この人は、イスラエルの中でさえ見たことがないほどの信仰をもって、主イエスのそのお言葉を聞き、受け入れ、従ったのです。

先週の説教で、岩という土台の上に家を建てる人の喩えについて、この家とは何かということを申し上げました。この家をわたし自身、長い間、教会のことだと思って読んできましたが、教会よりも、むしろ世界ととるべきではないか思うようになったということを先週の説教で申しました。

そのことを、今日の百人隊長の話に即して、もう一度次のように言い換えたいと思います。
主イエスの言葉を聞いて、それを行う人、主イエスの御言葉の権威に服従する人はだれでしょうか。弟子だけでしょうか。いいえ、主イエスは弟子のサークルの外にいる民衆が主イエスの言葉を聞いて、それを行うことを願われました。では、その民衆というのはユダヤ人だけだったでしょうか。いいえ、ユダヤ人の外にいた外国人、異邦人もまた、主イエスの言葉を聞いて行う人になったのです。主イエスに会うこともない、遠くにいる異邦人が主イエスの言葉を聞く人になり、行う人になってゆきました。

この異邦人である百人隊長はだれを象徴しているでしょうか。この直接主イエスのお会いできない異邦人である百人隊長は、まさにわたしたちだと思います。わたしたちも、主イエスに直接お会いできないものたちです。21世紀のヨーロッパからは極東と言われる日本に生きている者たちです。わたしたちにとって主イエスははるか昔の、遠いユダヤにおられたお方です。でも、時間的に、また空間的にはるかに隔たっている主イエスが、ひと言おっしゃってくだされば、その御言葉にはわたしたちの罪を赦す権威があります。わたしたちを立ち上がらせ、新しく歩ませる力があります。

百人隊長が自分は主イエスを屋根の下にお迎えできるような者ではありません、自分の方から主イエスのところにお伺いするのさえ、ふさわしくない者ですと言いましたが、わたしたちもそうです。わたしたちも、主イエスをお迎えするにふさわしい、ふさわしさを全く持たない者たちです。しかし、そのようなとるに足らない、貧しいわたしたちを、主イエスが貧しいものは幸いだと言ってくださり、神の国はあなた方のような者たちのものであると言ってくださる、その御言葉をわたしたちが信じるとき、主イエスはその信仰を良しとしてくださると信じます。
わたしたちは、ふさわしくないものを、憐れんでくださる主イエス、罪ある者を赦してくださる主イエス、死にゆく者に復活の命を与えてくださる主イエスに信頼し、その御言葉を信じる者にしていただきたいと願います。

主イエスの御言葉を聞いて、行う者たち、こうして主イエスの御言葉という岩の上に家を建てる人々は、地の果てに到るまで、世の終わりに至るまで、全世界から召し出されるのです。

父と子と聖霊の御名によって。