聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第23回「世界という家」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エゼキエル書 3章16~21節
新約聖書 ルカによる福音書 6章43〜49節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第23回
「世界という家」 ルカによる福音書6章43〜49節

今日、わたしたちが読んでいます、岩の上に家を建てる賢い人と、砂の上に家を建てる愚かな人のたとえで締めくくられる主イエスのお言葉、それはルカによる福音書では6章20節から書き出されていましたが、ここに記されている言葉はマタイによる福音書では5章から7章に書かれており「山上の説教」と呼ばれていますが、ルカによる福音書の一連の説教は、マタイの山上の説教に対して、平原の説教と呼ばれています。

主イエスは、その山上の説教、また平原の説教と呼ぶ、これらの教えを締めくくるのに、この家を建てる人の喩えをお語りになるのです。それはまことにふさわしいと言えるでしょう。ここでそれぞれに家を建てる人になぞらえられているのは、47節で「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞く」人たちと書かれていますが、主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞く」人たちの中に、一方に、聞いたことを行う人がおり、もう一方に、聞いても行わない人がいると言われるのです。

たとえが語られる直前の46節には、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあります。
教えを語られる主イエスに向かって、主よ、と呼びかけるとき、わたしたちはみ言葉を語っておられる主イエスの権威に従うと告白しているはずなのです。それゆえ、主イエスから聞いた言葉を行わずにしますことは、本来、考えられないことだと思われます。来週、7章を読もうとしていますが、そこに出てまいります百人隊長は、7章8節でこう言っています。
「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人にゆけといえば行きますし、他の一人に来いといえば来ます。また部下に「これをしろ」といえば、その通りにします」。
これは、御使ガブリエルからみつげを聞いたマリアが「わたしは主の婢女です。お言葉通りこの身になりますように」と告白したように、わたしたちはイエス・キリストに対して「主よ」と呼びかけることによって、それによって、わたしたちは自分の身と心を捧げて、神の言葉に聞き従いますという決意を表明しているはずなのです。

ところが、「主よ、主よ」と口先では言いながら、そのように主の名を呼んでおきながらも、主に聞き従う訳ではなく、心がかたくなで、主の命令に聞き従おうとしない人が実際にいると言うのです。
それは、今、こうして主イエスの言葉を聞こうとしてここに集まっているわたしたちもまた例外ではありません。

この二種類の人、主イエスの言葉を聞き、それを行う人と、聞いても行わない人は、一見、目で見たところは見分けがつきません。しかし、やがてその違いがはっきり明らかにわかる時が来ます。
岩という土台の上に基礎を据えて建てられている建物と、そうでない土台なしに建っている建物では、見ただけでは違いがわかりません。しかし、一旦洪水が押し寄せると、違いは一目瞭然となります。
また、43節の良い木と悪い木は、実を結んでみないと、どう言う木か見分けられません。甘柿と渋柿の木では、木を見て違いがわかるでしょうか。しかし、その木が甘柿か渋柿かは、実を食べてみれば、否定しようもなくはっきりとわかります。
44節の、いばらとイチジクの木は、パレスチナでは見分けがつきにくいそうです。野ばらとぶどうも同じツル科で、見分けがつきにくいでしょう。でも、いばらや野ばらをいくら探しても実を見つけることはできないのに対して、イチジクの木やブドウからはたわわに実ったイチジクやブドウの実を取ることができます。
45節の善い人と悪い人も、外見だけではわからない。しかし、その人の口から出る言葉で、その人の善し悪しが決まってきます。心の中は見えませんが、心から溢れ出る言葉が、悪い人もあるし、善い人もいます。

主イエスのもとに来て、主イエスの言葉を聞いている人たちが、もし、主イエスの語られる通り、敵を愛し、人を裁かず、人を罪に定めず、人を赦し、心から人に与えるなら、それらは良い実を結ぶ、良い木にたとえられる人たちです。しかし、主イエスのもとに来て、主イエスの言葉を聞いていながらも、人を憎み、人を裁き、人を罪に定め、人の悪口を言うならば、その人たちは、悪い実を結ぶ悪い木です。

ところで、最後の締めくくりの「家と土台」のたとえで、家は何をたとえているのでしょうか。主イエスの言葉に聞き従う者たちが、主イエスの言葉という土台の上に築き上げる家とはなんでしょうか。

わたし自身、このたとえに出てくる家は教会のことであるという風に長い間ここを読んできました。しかし、今日の説教の題を「世界という家」にしましたのは、主イエスの言葉を岩の土台として、その上にしっかりと建てられるべきなのは教会よりも、むしろ世界だと思ったからです。なぜ、この家は教会というよりも世界と受け取るべきだと思ったのか、その理由は二つあります。

一つは、マタイによる福音書の5章以下に書かれている、いわゆる山上の説教と呼ばれる主イエスの説教が、ルカによる福音書では、内容はほぼ同じですが、平原の説教と呼ばれていることを最初に申し上げました。しかし、マタイとルカでは単に山上と平原という場所の違いにとどまらず、説教が向けられている対象に違いが認められます。マタイの山上の説教はみもとに集まってきた弟子たちに向けて主イエスが語られているのに対して、ルカでは、主イエスは弟子たちを超えた、その背後にいる民衆に向けて語っておられる点に違いを見出すのです。
それゆえ、47節の「わたしの言葉を聞き、それを行う人」には、まず、弟子たちが想定されますが、弟子たちにとどまらず、弟子たちの背後にいる民衆を主イエスは対象に含めながら、語っておられると思うのです。
たとえば、「敵を愛しなさい」とのお言葉は、弟子たちだけでなく、広くこの世に向けて語られるべき言葉ではないでしょうか。そして、この言葉を聞いて、聞くだけでなく、この言葉を行う人が人々の間に増えてゆくとき、世界に平和がくるのではないでしょうか。

このたとえに出てくる家を教会というより、世界と受け止めることを考えたもう一つの理由は、先の大戦のとき、長崎の浦上に原爆が落とされて、浦上天主堂が破壊されてしまいましたが、そのとき、教会堂が跡形もなく崩されてしまっただけでなく、長崎のまちが焦土と化してしまいました。長崎の街と日本の国が滅んだとき、街や国もろとも教会もまた滅んだのでした。

もし、教会とその建物だけが奇跡的に助かって、あとの市街地は破壊し尽くされたとなったとしたら、それで果たして良かったと言えたでしょうか。

教会が建物だけでなく神の教会、神の民として、激しい時代の嵐に耐えて、洪水にも微動だにせず、主イエスの御言葉という土台、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われた主イエスの御言葉の上にしっかりと立ち続けるとすれば、それは、教会が建てられている町の人々にとっては、町全体が立ち続けることの象徴であり、街全体の救いの希望、平和の基礎が揺るがないことであるはずだと思うのです。

教会は主イエスの言葉を聞き、その言葉を行うように召されますが、それによって、その言葉が広く民衆の間に伝えられてゆき、聞かれてゆき、行われてゆくために、そうして最終的にこの世界が建てられてゆき、時代の嵐の中でも揺るがずに世界が立ち続けるためにこそ、教会は建てられているのだと思います。

反対に、教会がその使命を果たさないなら、倒れるのは世界です。教会が土台のない家になってしまうだけではありません。世界からその土台が失われます。教会がその土台の上に建てられている主イエスの言葉は、世界の礎であり、世界を支える土台なのです。

最後に、二人の歴史の証人のことを紹介します。

一人はボンヘッファーというヒトラーとナチスに抵抗して殉教していったドイツの神学者です。
ボンヘッファーは自分たちの抵抗と戦いは敗れたとしても、その戦いがなければ、やがてドイツが敗戦の中から復興するときに、若者たちは何の上に築くことができるだろうか、この抵抗の戦いは次の世代がその上に新しい国を築き上げてゆく基礎となりうるのだと言いました。

もう一人は矢内原忠雄という無教会の指導者です。矢内原は彼の信仰の戦友である藤井武を記念する講演会で語った「神よ、この国を一旦葬ってください」という一言が原因で、東大教授の座を追われ、戦後、東大に復帰するまで、戦争中は独立伝道者として「嘉信」という雑誌を出し続けました。戦争末期、配給物資が逼迫して、雑誌を印刷する紙の配給が得られなくなりそうになったとき、彼は担当者にこう言いました。
「この雑誌に日本の命運がかかっています。この雑誌を廃刊にすれば日本は滅亡します。あなたはそれでも良いのですか。」

わたしたち信仰者は自分の幸せや、教会の栄枯盛衰を超えて、すべての人々の幸いと、国家と世界の救い、まさに神の国の到来に向けて、主イエスの言葉に聞き従い、自らがそれを行う人々になるとともに、そのような人々が広く増し加えられてゆくために召されています。神がそのことのためにわたしたちを用いてくださいますように。

父と子と聖霊の御名によって