聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第21回「「敵を愛しなさい」 説教 澤 正幸牧師
使徒書簡 ローマの信徒への手紙 5章6~11節
新約聖書 ルカによる福音書 6章27〜36節

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第21回
「敵を愛しなさい」 ルカによる福音書6章27〜36節

「敵を愛しなさい」。主イエスはこの箇所で、2度繰り返して、「敵を愛する」というとても重い誡めを弟子たちに与えておられます。
主イエスは、この重たい誡めをお与えるにあたって、27節で「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と、命令に前書きのような言葉を付け加えておられます。わたしたちは、まずこの言葉に注意を払いたいと思います。
ここで、主イエスは「敵を愛しなさい」という重要な掟を弟子たちにお与えになるにあたって、なぜ、この「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」という前書きを付け加えておられるのでしょうか。

それは、「敵を愛しなさい」と言うこの主イエスのお言葉は、広く一般に向けて語られているのではない、そうではなくて、主の弟子たち、すなわち「わたしの言葉を聞いているあなたがた」に向けられた言葉なのだということだと思います。

先週6章12節以下で読みましたように、主イエスは山に行き、たった一人で、夜を徹して神に祈られて、その祈りの中から、12人の使徒が他の多くの弟子たちの中から選び出されました。主イエスはそれらの12人の使徒とともに、山から下って平らなところに立たれたとあります。そこで、「貧しいものは幸いである」で始まる、マタイ福音書では山上の説教と呼ばれる説教が、ルカでは平原の説教として語られますが、その際、ルカはマタイとは異なって、この説教が12人の使徒たちだけでなく、その背後で耳を傾けている他の大勢の弟子たちとおびただしい群衆に向けて語られたさまを描いています。

ですから、主イエスはこの「敵を愛しなさい」と言う言葉を、まず弟子たちに語られますが、それを聞いた弟子たちからさらにおびただしい民衆に伝えられてゆくことを、視野に入れながら、主イエスはこの言葉を語られるのです。あるいは、言い方を変えると、大勢の民衆の中から、この言葉を聞いて、この言葉に従って、主イエスの弟子となって、「敵を愛するものとなりなさい」という招きの言葉として主イエスはこの言葉を語っておられると言えるでしょう。

わたしたちが、このことに注目したいと思う理由は、主イエスのこの「あなたがたは敵を愛しなさい」と言う言葉は、弟子たちにとって、周囲から、それに反対する様々な声が聞こえてくる中で聞く言葉だと思うからです。弟子たちは実に、様々な声が響きあっている世界の中で、この言葉を聞くことになります。主イエスの時代の弟子たちは、ローマ帝国の軍事的支配下に置かれていました。それは、別名、ローマの平和と呼ばれていました。ローマの平和のスローガンは、「平和を追い求めようとするなら戦争の備えをせよ」、強大な軍事力こそが平和をもたらすからだと言うものでした。
それは現代においても同じです。21世紀の東アジアに生きているわたしたちは、この主イエスの「敵を愛しなさい」と言う言葉を、真空の中で聞くのではなく、今、刻々と変化していっている国際情勢の中で、ウクライナで戦争が続き、それが東アジアに飛び火するのではないかと言う恐れがわたしたちの周囲に満ちている只中で聞くのです。

「あなたがたは敵を愛しなさい」と言う主イエスの言葉を聞く弟子たちの耳には、それに真っ向から反対する、この世の支配者や政治家の声だけでなく、ユダヤ人の律法学者の声も響いていたでしょう。
当時の律法学者たちは「隣人を愛し、敵を憎め」と教えていました。「あなたの隣人を愛しなさい」という戒めの、隣人とはだれかと言う、隣人の範囲は「友人、味方、同胞のユダヤ人」に限定されていたのです。しかし「隣人を愛し、敵を憎め」との周囲から聞こえてくる教えに対して、主イエスは「敵を愛しなさい」と言われたのです。愛すべき隣人の中に、友人、味方だけではなく、敵も含まれる、ユダヤ人だけが隣人なのではなく、サマリア人も異邦人もまた隣人なのだと、主イエスはあの有名な善きサマリア人の喩えで明らかになさいました。

善きサマリア人の喩えは、31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教え、これは黄金律と呼ばれる掟ですが、それを重ね合わせて読むと非常にはっきりと読み取れるのではないかと思います。
傷ついて倒れていた旅人が人にしてもらいたかったことは何だったでしょうか。同胞である祭司、レビ人からは当然、助けて欲しかったでしょう。32〜35節に、自分を愛してくれる人を愛する、自分によくしてくれる人に善いことをする、返してもらうことを当てにして貸すというということが書かれていますが、自分が愛した分、善いことをした分、貸した分をきっと相手が返してくれるに違いない、そうして欲しいと、傷ついた旅人は願ったでしょう。しかし、同胞であり、隣人であるはずの祭司も、レビびとも、助けてはくれませんでした。かえって、サマリア人、自分たちユダヤ人が敵だと思っていたサマリア人が、それゆえ自分に助けを与えてくれることを望んでも望み得ない相手であった人が助けてくれたのでした。人にしてもらいたいと思っても、望みえないことを人からしてもらえた、それにまさる恵みではなかったでしょうか。敵の立場にある人が、わたしに対して、到底してもらえないと思うことをしてくれる、これは驚くべきことです。それはまさに「恵み」としか呼びようのないものです。

みなさん、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と言う、「敵を愛しなさい」という命令の前書きとでもいうべき言葉は、「敵を愛しなさい」と言われる主イエスが、また主イエスをお遣わしになられる父なる神が、敵であるわたしたちを愛されるお方であること、その神の驚くべき「恵み」の中で、あなた方はこの言葉を聞いているのだということを意味しています。先ほど、使徒書簡としてローマの信徒への手紙5章が読まれましたが、「あなた方は敵を愛しなさい」との主イエスの戒めは、罪人であるわたしたち、神の敵であったわたしたちのためにキリストが死んでくださった、そのキリストの愛、神の愛が背景であり、支えであるような戒めなのです。

父なる神から恵みをいただく「あなたがた」と呼ばれる主イエスの弟子たちは、「貧しいものたちは幸いだ、神の国はあなたがたのものである」と呼びかけられている、貧しい者です。
わたしたちの貧しい姿は、あのたとえの中に出てくる傷ついた旅人が、隣人からの助けを期待しても、それが得られない、敵からの助けなど毛頭、期待できない、また自分も敵を助けようとは思わない、互いに憎み合って、お互いへの不信と敵意と対立から抜け出られない状態の中でがんじがらめになっている世界の姿そのものです。これがわたしたちの貧しさです。

しかし、その貧しい世界の中に住む貧しいわたしたちに対して、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言う、敵を愛し、あなたがたを憎む者のために祈りなさい」と主イエスは今日も語りかけておられます。貧しいものたちは幸いだからです。神がわたしたちを愛し、またわたしたちと敵対している人々をも愛し、この世界に平和をもたらそうとしていてくださるからです。それが神の国が来るということです。

わたしたちは、その神の国が地にも来ますようにと祈りなさいと教えられています。神の国を来らせてくださいという祈りの中に、敵のために祝福と赦しを祈る祈りが含まれています。敵のために祈った祈りの例を聖書においてわたしたちは二つ知っています。一つは主イエスが十字架上で祈られた祈りです。もう一つは、殉教者ステファノが自分を石で撃ち殺した人たちのために祈った最後の祈りです。その祈りを聞いていた人の中にサウロ、のちの使徒パウロがいました。

その頃、サウロは主イエスを信じる兄弟姉妹を迫害し、死においやっていた、教会にとって最大の敵でした。ステファノはそのサウロの罪を赦してくださるよう祈りました。敵であるサウロをステファノ自身には変える力はありませんでした。でも、少なくともステファノにとって、その罪の赦しのために祈ったサウロはもはや敵ではありませんでした。ステファノの祈りを聞いて、サウロを回心へと導かれたのは主イエスです。敵を愛しなさいとわたしたちにお命じになる主イエスは、主イエスに敵対していた罪人のわたしを赦してくださるだけでなく、わたしの敵を兄弟に変えてくださる生きたお方です。わたしたちはその主に対して、敵をもはや敵とは見なさず、兄弟として愛のうちにとりなして祈るのです。

憎しみと争いと流血を終わらせ、平和と愛をきたらせる道は、キリストのみ言葉に耳をかたむけ、さらにわたしたちに「敵を愛しなさい」と命令されるその平和の主であられるお方にみ国を来らせ給えと祈って、神がわたしたちとこの世界の貧しさを憐れみ、わたしたちに神の恵みをお与えくださる日、今、泣いている人たちが笑うようになる日を待ち望みながら、一歩、また一歩前に向かって歩む道なのです。

最後に、もう一度主の教えを心に刻みましょう。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(31節)この黄金律と呼ばれる教えの、黄金の輝きというのは主イエスの「敵を愛しなさい」という戒めにおいて、最大の輝きを発するのです。
敵として、憎まれても仕方がない、赦しを期待できない、ましてや親切や、善意を全く期待しえないと思う相手が、わたしたちに親切にしてくれ、わたしたちのために祈り、わたしたちを愛してくれること、それにまさる恵みはないでしょう。
人に望んでも望み得ない、まったく期待し得ない、そのような敵と思っていた人が、わたしたちを愛してくれたらどんなに嬉しいでしょう。主イエスは、あなたの敵があなたを愛してくれることを望むのであれば、あなたも、あなたの敵を愛しなさいと言われます。
主イエスご自身がそうなさるお方だからです。そして、主イエスをわたしたちにお与えくださった父なる神が、そう言うお方なのです。

わたしたちは、主イエスに聞き従い、主イエスの弟子となることによって、いと高きお方の子たちとしていただけるのです。

父と子と聖霊の御名によって。