聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第17回「健康な人に医者は必要ない」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇103編1~22節
新約聖書 ルカによる福音書 5章27〜32節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第17回
「健康な人に医者は必要ない」 ルカによる福音書5章27〜32節

27、28節
5章27節に「その後、イエスは出て行って」と書き出されていますが、そのところを、ここの並行箇所であるマルコによる福音書2章13節は、「イエスは、再び湖のほとりに出てゆかれた」と記しています。湖のほとりに出てゆかれた主イエスが、そこで通りがかりに収税所に座っているレビを見かけられたとマルコが記すのは、レビの仕事場である収税所が、たまたま湖のほとりにあったということかも知れません。でも、それ以上に、このときの徴税人レビが主の弟子として主イエスに従うようになった出来事が、先にペトロを始め、四人のガリラヤの漁師たちが、人間をとる漁師とされたのと同じ出来事であったことを示唆しているように思えるのです。

29節
ルカは徴税人のレビが、ペトロたちがしたように、何もかも捨てて主イエスに従うようになってから、最初にしたことをここに記しています。それは、彼の家で主イエスのために盛大な宴会を催すことでした。そして、彼はそこに仕事仲間である徴税人たちを招きました。彼は、そのほかにも大勢の人を招きました。その人々は、ファリサイ派の人々や律法学者から「罪人」と呼ばれて蔑まれていた人たちでした。レビは自分と同じ、徴税人や罪人を生け捕りにして、主イエスのところに連れてきたのです。レビが人間をとる漁師になったというのは、まさに31節に記されているように、医者を必要とする病人であったレビ、その罪人レビを招いてくださった主イエスのもとに、彼と同じ病人たち、罪人たちを招くことでした。

30節
「人はだれと食事をとるのか」。これはとても重要な問題です。もしかしたら、わたしたちの人生において最も重要な問題の一つかもしれません。戦争と平和は世界における最重要課題ですが、互いに戦争をする敵同士は一緒に食事をすることがありません。プーチンとゼレンスキーは同じ食卓につかないでしょう。共に食卓を囲むところに平和があります。
ルカによる福音書は主イエスがだれと食事を共にしたかというところに、他の福音書と比べて重きを置いていると言われます。
食事は自分が人を招くこともありますし、人から招かれることもあります。主イエスもそうでした。主イエスが弟子たちを招かれた食事として、最後の晩餐や、復活された主がガリラヤ湖畔でなさった朝の食事を思い起こします。また、主イエスがだれかから食事に招かれることもありました。ここでは主イエスは徴税人のレビに招かれています。また、主イエスは、ここで主イエスの弟子たちに呟いたファリサイ派の人やその律法学者からも食事に招かれ、その招きに応じて一緒に食事をされることがありました。それはルカによる福音書では7章や、14章に出てきます。
そこを読むと興味ふかい場面に遭遇します。その食事の場に、いわゆる招かれざる客ともいうべき人が姿をあらわすことです。7章では罪深い女性でした。14章では水腫を患う人でした。今日読んでいるレビの家での食事の席にも、ファリサイ派の人や律法学者からは「招かれざる客」である人々、一緒に同席したくない人たちがいたのです。徴税人や彼らが罪人と呼ぶ人たちがそうでした。それらの人たちは彼らが食事を催すときには絶対に呼ばない種類の人たちでした。
ファリサイ派の人や律法学者は、主イエスであれば食事に招き、一緒に食事をしたいと思うのです。しかし、徴税人や罪人と食事を一緒にするのはお断りする。それゆえに、もし、主イエスが徴税人や罪人とも食事を一緒にするというのであれば、主イエスとも一緒には食事ができない。なぜ、あんな連中と食事を共にするのかと言って呟くのです。

31、32節
主イエスはシモン・ペトロにも、徴税人レビにも、わたしに従いなさいと言って、彼らを招かれました。32節にあるように、主イエスが招かれるのは罪人なのです。
今日読んでいるルカによる福音書5章における「罪人」とは、今日的言葉を使えば「アンタッチャブル」である人々をさします。まさに、一緒に食事をすることのできないような人々です。それは病気のためであることもありました。先々週読んだ「らい病」の人がそうでした。医学的な病気のために一緒に食事ができない場合です。しかし、それだけでなく、徴税人の場合は社会的・経済的な理由でした。徴税人は当時の政治情勢から、ユダヤがローマ帝国の植民地として、ローマに納税する義務を負っており、そのローマにユダヤ人が納める税金をローマの肩代わりをして徴収する仕事を請け負っていたのが徴税人でした。彼らはユダヤ人から見れば、律法を守らない異邦人であるローマ人と日常的に交際を続けているいかがわしい人々でした。
しかし、主イエスは、医学的な理由からであれ、社会的理由からであれ、人々から一緒に食卓につくことを拒まれ、食卓の交わりから締め出されている「らい病人」に触れ、徴税人を招いて、共に食卓につかれたのでした。
それはなぜでしょうか。主イエスはなぜそうなさったのでしょうか。それは、それこそが父なる神の御心だったからです。神が主イエスを地上に遣わされたのは、神から遠く離れている人々を父なる神のもとに呼び返し、その罪を赦し、父の食卓に招くためだったからです。
主イエスは父なる神から与えられた罪を赦す権威をもって、中風の人にも、らい病の人にも、徴税人のレビにも「人よ、あなたの罪は赦された」と言われます。

もし、自分には罪の赦しは必要ない、罪を赦すために来られた主イエスを自分は必要としない、なぜなら自分は正しい人間だからだという人がいるとすれば、その人は主イエスに従う人にはなれないでしょう。
主イエスの招きに応えて主イエスに従う人は、何もかも捨てて立ち上がって、主イエスに従います。何もかも捨てるということは、主イエスが自分の全てになるということです。

最後に、主イエスに従うということについて、もう一度申し上げたいと思います。
主イエスが招かれる人、その招きに応えて主イエスに従うようになる人は、正しい人ではなく、罪人だということは、そこに回心、悔い改めがあるということです。今日読んでいるレビがどのように回心したのか、どのように罪を悔い改めたのか、それについては何も書かれていません。でもレビが主イエスに従ったのは、先にペトロが主イエスに従うようになったのと同じだったと思います。

ペトロの回心、悔い改めについて、スイスの聖書学者のエドワルト・シュヴァイツアーが書いている文章を紹介したいと思います。少し長い引用になりますがお聞きください。

「ペトロの回心は、宗教的な言葉を用いないで、具体的な出来事として書かれています。神はシモンに一歩一歩近づかれます。彼は姑の癒しにおいて主イエスの力を経験します。主イエスの小さな頼みを聞いて、舟を出します。そこで神の御言葉を聞きました。彼の側からの求めとか、反発とか、主イエスに対して抱いた印象については何も言われていません。すべてが日常の普通の出来事でした。決定的な瞬間は、純粋に世俗的な領域において訪れました。信仰は、信ずべき信仰箇条への同意としてではなく、ペトロがやっても無駄だと思っていたことを、主イエスがもう一度やってみなさいと言われた、その主イエスへの信頼という形でやってきました。ごく実際的な問題を、それゆえ天地がひっくり返るような大げさなことではないにしても、しかし、予想をはるかに超えた仕方で主イエスが彼を助けてくれたことの中に、ペトロは主イエスがどういうお方であるかをありのままに見たのです。そのとき、彼は自分自身が罪深い者であることに気づきます。それは道徳的な意味においてではありません。そうではなくて、神が本来、彼の人生において占めるべき場所において、場所を占めて来られなかったという認識と、その場所を今や神の方から占拠されたという認識でした。主イエスは彼に罪とその赦しについて語られる必要はありませんでした。たが、彼の将来の奉仕について語られました。救いは神がシモンの人生に場所を勝ち取られるときに訪れます。」

ペトロの回心、罪の悔い改めが、どのようなことであったかを語ったあとで、シュヴァイツアーは最後にこう付け加えます。

「しかし、ペトロの回心について、それが彼の信仰と感謝ということで終わったとしたら、それはまったくの誤解になります。彼において起こったことの意味は、彼の中にではなく、彼が人間の漁師として生け捕りにする人々の中にこそあるのです。一人の人物においておきた出来事は、神がすべての人々に関わろうとなさる、その御心の光の中で無限の重要性を持つのです。」

神が私たちの人生の中に本来占めるべき場所を、神が占めてくださること、そのように神が私の人生の中に入ってきてくださることを喜び、感謝し、自分を明け渡すこと、それが私たちの回心、悔い改めであり、主イエスに従うことだと思います。

そして、主がわたしたちを招いてくださる食卓につくとき、その食卓には、あの人とは食事を一緒にできないという人はいないのです。主イエスがすべての人を受け入れ、招かれるからです。主イエスが受け入れている人を、わたしたちは受け入れることを拒むことはできないからです。わたしたち自身、主イエスによって罪を赦され、無条件に受け入れていただいている罪人であるからです。

父なる神は失われた人々を限りない愛をもって愛し、わたしたちをご自身の子どもたちとして、わたしたちを同じ父に連なる兄弟姉妹として、心から喜び合い、愛し合うように招いてくださいます。その招きは、生涯のすべての日々、最後に至るまで変わることがないのです。

父と子と聖霊の御名によって