聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第16回 「あなたの罪は赦された」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 詩篇103編1~13節
新約聖書 ルカによる福音書 5章17〜26節


ルカによる福音書連続講解説教 第16回
「あなたの罪は赦された」 ルカによる福音書5章17〜26節

主イエスのところに床に載せられて運ばれてきた中風を患っている人が、瓦を剥がして屋根から床ごと吊り降ろされて、癒され、立ち上がって、寝ていた寝台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った、この印象深い物語の中で、主イエスが問われた、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」というのと、どちらが易しいかという問いに対して、この物語を今日初めて読まれた方も、これまでなんども読んできた方も、何と答えるでしょうか。この問いを発された主イエスご自身、どちらが難しく、どちらが易しいと考えておられたのでしょうか。
普通の頭で考えるなら、「起きて歩け」という方が難しいと思われるでしょう。なぜなら、「あなたの罪が赦された」と言っても、本当に罪が赦されたかどうかは、目には見えないので確かめようがないのに対して、「起きて歩け」という命令は、本人が起き上がって、歩いたかどうかは、はっきり目で見て確かめることができるからです。

中風の人を運んできた人たち、また中風の人自身が、このとき主イエスに願っていたのは病気の癒しだったに違いありません。彼らは、それゆえに主イエスが「起きて歩け」と言ってくださることを期待したのであって、主イエスの口から「あなたの罪は赦された」と言っていただくことを願ってはいなかったと思います。

だとすれば、主イエスは、このとき、病気の癒しを求めてきた人たちに、彼らが願い求めた訳ではない「罪の赦し」をお与えになったということになります。主イエスはどうしてそのようなことをなさったのでしょうか。

ルカは今日の箇所の冒頭17節で、主イエスがこの中風の人の癒しをファリサイ派の人々や律法学者の座っているところで、いわば彼らが監視の目を光らせている面前で行われたと記しています。これらの人々は、もし、主イエスが中風の人に「起きて歩け」と言われただけなら、それを問題視することはなかったでしょう。しかし、主イエスの口から「あなたの罪は赦された」という言葉が発せられた瞬間、彼らの目の色も顔の色も急変したのでした。

主イエスがそれを予想しておいでにならなかったとは思えません。こう言えば、彼らがどう思うか、彼らがその言葉に躓いて、主イエスを攻撃してくることはわかっておられたはずです。では、それがわかっていながら、主イエスはなぜ、ファリサイ派の人々の躓きになるようなことを言われたのでしょうか。

主イエスはこのとき、中風の人を連れてきた人たち、また中風の人に与えようとなさったのは、彼らが求めて来たのではない、彼らがある意味、求めることを知らなかったものを与えようとされたということ、つまり、彼らは中風の人の癒しを主の御心として求めたのに対して、主の御心は、中風の人に罪の赦しをお与えになることでした。

「罪の赦し」、「罪が赦される」ことと、病が癒されることにどういう関係があるのでしょうか。先ほど読まれた旧約聖書の詩編103編3節に、「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。」とありました。病気の癒しは罪の赦しの結果であり、罪が赦されたことの現れとして、病気の癒しがあるという意味です。

ルカによる福音書の著者であるルカは医者であったと言います。ここで中風を患っていた人についてルカが用いている表現は、「力が入らない人」といった意味の言葉です。手にも足にも力が入らない。思うように行動できない人、周りの人に助けてもらうほかない人です。それゆえに、苛立ったり、こんな状態で生きていたくないと言って自分自身悲しみ、またそういって周囲を悲しませていたことでしょう。病気さえなければ、人としての誇りを持って生きられるのに、神さまと隣人を愛して生きることもできたでしょうに、病気があるばかりに、それができない、神さまに対しても、隣人に対しても何もできない、罪深い生き方をしている、そう言って自分を責めたのではないかと思います。

主イエスが中風の人に「あなたの罪は赦されている」という言葉は、あなたが病気のために自分を責めていたこと、何もできないと言って悲しんでいたこと、それはもう問題ではありません。大丈夫です。神さまはあなたを責めておいでになりません。あなたに対して怒ってもおられません。神さまはあなたの味方であられます。だから、あなたは弱くても、病気でも、神さまを愛して、隣人を愛して生きてゆけます。主イエスが中風の人に告げられた「あなたの罪は赦されている」とはそういう意味です。

この「罪の赦しの恵み」をいただいた人は、たとえ、病気を抱えたままであったとしてもそのままで、新しく生きるようになります。それによって、これまでその人と一緒に生きることができないことに苦しんでいた家族や周囲の人は救われ、その人ともに喜ぶことができます。

24節
最初に申しましたように、主イエスは、人々が「起きて歩け」ということは、ただ口で「罪が赦された」ということよりも難しいと思っているのを受け入れて、その難しいことをあえてして見せようとなさいます。それは、ファリサイ派の人々が躓き、反対することを知りつつ、敢えて、主イエスが罪を赦す権威を持っておられることが確かであることを、それによって示されるためでした。

主イエスは、わたしたちにも、病の癒しに先立って、まず罪の赦しをお与えくださいます。それが主イエスの御心なのです。罪の赦しは、別の言い方でたとえて言えば、入学試験の合格発表とか、会社の入社試験の採用通知に似ているかもしれません。合格か、不合格か、採用か、不採用かハラハラドキドキして知らせを待ちます。残念でした、不合格でしたという知らせを受けるかもしれない。どう考えても合格や採用の見込みがない。きっとダメに違いない。そう思っているところに、全く予想に反して、受かるはずのない合格通知、採用されるはずのない採用通知が届くようなものです。

先々週のペトロたち、ガリラヤの漁師たちが、主イエスによって人間をとる漁師にされた時、ペトロはなんと言ったでしょうか。「主よ、私から離れてください。わたしは罪深いものなのです」。
わたしたちは、神さまに対して、神さまにふさわしい人間として生きることができないものたちです。神さまを愛し、すべての人を愛して、ふさわしく生きてゆきたいと願っていても、それを阻む罪の力が私たちのうちにも、外にもあって、妨げています。神さまの国に入れていただく資格がなく、不合格、不採用と言われて退けられなければならない者たちです。

しかし、神の子が人として、人の子として罪を赦す権威を帯びて、この世に来てくださったのです。そして「恐れることはない」と言われ、「あなたの罪は赦されている、確かに父なる神はあなたの罪を赦してくださっている」と言われるのです。ファリサイ派の人々がその言葉に怒り狂って、神を冒涜していると糾弾しても、主イエスは一歩も退かれずに言われます。「あなたの罪は赦されている」。

わたしたちはその罪の赦しの福音を、昨日も、今日も、世の終わりまでわたしたちと共にいてくださる主イエスの語りかけとして聞きます。主はその約束の御言葉が確かであることを洗礼や、聖餐の印によって保証してくださいます。
主イエスによって罪を赦されるわたしたちは、心からお互いに罪を赦し合うものたちとされ、愛と真実に満ちた和解と平和のうちに生きられるようにしていただくのです。

26節
今日、驚くべきことを見た。この「驚くべきこと」という言葉は原文ではパラドックスという言葉です。辞書を引くとパラドックスとは、逆説、背理のこととあります。聖書のいうパラドックスは、ドクサ、すなわち人間の思い、考えに、パラ、反するものという意味です。
驚くべきパラドックスとは、人間の現実にも関わらず神が与えてくださる慈しみ、あわれみのことです。詩編103編の詩人は歌います。

「天が地を超えて高いように、東が西から遠いように。」

わたしたちの背きの罪が遠ざけられ、主の限りないあわれみと、赦しと、慈しみがわたしたちを包むのです。その赦しをいただいた私たちが、こうして神さまを賛美するものとされていることは、まさにパラドックスであり、罪の赦しの恵みによって現される神の栄光なのです。

父と子と聖霊の御名によって。