聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第12回「故郷で歓迎されない預言者」 説教 澤 正幸牧師
福  音  書 ルカによる福音書 4章14〜30節
使  徒  書 コリントの信徒への手紙(2) 8章9節  

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第12回「故郷で歓迎されない預言者」

14、15節
わたしたちが読んでいるルカによる福音書は、マルコによる福音書の順序を忠実に追って書かれています。前にも申し上げましたが、ある人はそれを次のような言い方で表現しました。ルカが福音書を書いたとき、彼の机の上にはマルコによる福音書が開かれていたと。
今日、わたしたちが読む、主イエスのガリラヤ伝道の開始についても、マルコによる福音書1章を開いて見ると、ルカがマルコに従っていることがわかります。
マルコは主イエスのヨルダン川での洗礼、それに続く荒れ野の試み、そしてガリラヤ宣教の開始という順序で書いていますが、ルカも同じです。
しかし、また、マルコとルカの間に歴然とした違いもあります。今日のところでは、ルカではガリラヤ伝道の開始のすぐ後に、主イエスが故郷のナザレに行かれたときに、ナザレで受け入れられなかったことが書かれています。それについてはマルコの1章にはまったく出てきません。それが記されるのはマルコではもっと後の、6章に入ってからです。
ルカはなぜ、マルコがもっと後に記すナザレの会堂での話を、主イエスのガリラヤ伝道の始めにもってきたのでしょうか。

改めて14、15節を読むと、そこでは、主イエスの評判がガリラヤ地方一帯で高く、主イエスは人々から尊敬を受けられたとあります。それが16節、特に22節以下に調子が変わって、主イエスが受け入れられなかったという話になります。これによって、ルカは何を言おうとしているのでしょうか。ガリラヤの中でも、一箇所、ナザレだけは例外だったと言おうとしているのでしょうか。主イエスの故郷ナザレでは、昔から、預言者は故郷では歓迎されないと言われてきたように、主イエスは尊敬を受けられなかったと言うことを言いたいために、ナザレでの出来事をここに記したのでしょうか。
ガリラヤの他の地域では主イエスの伝道は成功した、けれども、故郷のナザレだけは例外的に失敗したと言うことなのでしょうか。果たしてそうなのでしょうか。

14節を注意深く読めば、ルカが言おうとしているのはそういうことではないということがわかってくるように思います。14節は4章の1節とよく似た文章です。ここに書かれている「聖霊に満ちて」と言う言葉は、前回、荒れ野の試みについて学んだとき、試みと結びつくのは普通、サタンであって、聖霊ではない、わたしたちを罪に誘い、わたしたちの信仰を躓かせる試みの場面に登場するのは悪魔であって、聖霊はそこには出てこないと思われそうなのに、ルカはそうではなく、聖霊こそ、わたしたちが受ける試みにおいて、わたしたちと共にいてくださるお方だと言うことをはっきりと語っているということを見ました。試みの場面の主人公はサタンではない、悪魔ではなくて聖霊だということです。
主イエスのガリラヤ伝道においても、同様なのです。主イエスの伝道において主人公は、主イエスと共にいてくださった聖霊なのであり、ナザレでの伝道においてもそれは変わらなかったとルカは語ろうとしているように思います。そうです!故郷の人々が主イエスを受け入れようとしなかったあの場面でも、伝道が失敗しているかに見える場面でも、主人公は変わることなく聖霊であったということです。

16〜21節
主イエスのナザレでの伝道を詳しくみてゆきましょう。主イエスが育たれた時代、会堂で聖書朗読に当たったのは、普通の村人たちでした。特別な資格のある人だけにそれが許されたと言うのではありませんでした。主イエスの父大工だったヨセフも立って聖書を読んだでしょう。文字が読める人なら、だれでも聖書朗読を担当することができました。ですから、主イエスがナザレの会堂で聖書を朗読したのも、この時が初めてではなかったでしょう。13歳になれば一人前とみなされましたから、主イエスもかつてしたことがあったその聖書朗読を、ナザレに戻った主イエスが、この時もう一度したと言う風に受け止めて良いと思います。
ここで主イエスが読まれたイザヤの預言の聖句で注目したい言葉が二つあります。一つは「主の霊」であり、もう一つは「貧しい人への福音」です。

貧しい人への福音と言うときの、貧しさとはどういう貧しさでしょうか。経済的な貧しさでしょうか、心の貧しさでしょうか。すぐ後に、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人と言う言葉が出てきます。自分の負っている苦しみ、抱えている悲しみを自分の力ではどうしても解決できないでいる人たち、そのような人たちを貧しい人たちと言っているとみて良いかと思います。
先ほど、聖書朗読でコリントの信徒への手紙(2)8章9節の御言葉を読んでいただきましたが、そこでパウロが語った「主イエスはあなたがたのために貧しくなられた」と言うときの「貧しさ」とは何でしょうか。神の子主イエスが貧しいわたしたちのために貧しくなったその貧しさとは、究極的には死であると言えるように思います。死は私たちにとっての絶対的な貧しさではないでしょうか。

主イエスがナザレの会堂でお読みになった「主の霊がわたしに注がれ、貧しい人に福音が告げ知らされる」と言う言葉、そして、その言葉はあなたがたが耳にした今日という日に実現したと主イエスが宣言なさった、その言葉とは、洗礼に際して、聖霊の注ぎとともに天から響き渡ったあの「あなたはわたしの愛する子」という父なる神からの語りかけの言葉であると言えるでしょう。
この言葉は洗礼に際して語られ、聞かれる言葉です。そして、洗礼の水はわたしたちの貧しさそのものである死を象徴しています。そして、その死にゆく貧しさの中にあるわたしたちの上に、ヨルダン川の水の上に降った聖霊が、わたしたちを新しい命へと生れさせる神の霊として注がれるのです。
死にゆく貧しさの中にあるわたしたちが、聖霊によって神の愛される子とされ、わたしたちに主の恵みの時が訪れる、それは、主イエスとともに、主イエスのおられるところで、今日という日に実現している。聖霊に満たされた主イエスが宣べ伝えた福音を聞かされた、ナザレの人々にとっても、この恵みの時が、今日という日に等しく訪れたのでした。
主イエスはナザレで福音を語られなかったのではありませんでした。主イエスの伝道が不十分だったとか、失敗したと言ったことでもなかったのです。語られるべき福音は確かに、十分に語られ、それが喜びをもって聞かれることはできたはずだったのでした。では一体何が起こったのでしょうか。

22〜30節
ナザレの人々は、最後には怒りに満ちて、主イエスを崖の上から突き落とし、上から石を投げつけて殺そうとするまでになりました。
23節の「医者よ、自分自身を治せ」という言葉は、主イエスが十字架にかけられたときに、メシアなら自分を救え、人を救いながら、自分を救えないと嘲られた、あの嘲りの言葉と通じています。医者は人を癒し、人を救います。人を救うことができても、医者には自分を癒すこと、救うことはできないのです。自分の病気が癒せない。医者であっても自分を死から救うことはできません。それが人間の貧しさです。「医者よ、自分自身を治せ」という言葉には人間の貧しさを受け入れようとしない、高慢さがあります。
主イエスは自分自身を救うことのできないわたしたちのために、自分自身を救うことをなさいませんでした。これが、主イエスがわたしたちのために貧しくなられたということです。先日の説教で語ったことをもう一度引用します。
「神の子なら、十字架から飛び降りて、自分を救え」。主イエスはその誘惑を退けて、ご自分を救わずに死んでゆかれました。一見したところサタンが勝ったように見えました。しかし、それはサタンの最終的敗北だったのです。主イエスは自分を救うことをなさらずに、自分を救うことのできない犯罪人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたように、自分で自分を救えない罪人であるわたしたちを救う救い主となられました。
これが貧しい人、貧しいわたしたちが聞かされている福音なのです。
主イエスはナザレで伝道に失敗したとは言えないと思います。わたしたちが自分の貧しさを知り、その貧しいわたしたちの中に、主イエスが貧しくなってきてくださったことを知ること、そしてその主がわたしたちと共にいてくださることがわたしたちの救いなのです。わたしたちは、主イエスのゆえに神様を賛美するものたちとされるのです。

父と子と聖霊の御名によって。