聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第11回「荒野の試み」 説教 澤 正幸牧師
福  音  書 ルカによる福音書 4章1〜13節
使  徒  書 ヘブライ人への手紙 12章4〜17節  

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第11回「荒野の試み」

4章1〜2a 節
今日、わたしたちは主イエスが受けられた荒れ野の誘惑について読もうとしています。
これまでも繰り返し申し上げておりますように、わたしたちが読んでいるルカによる福音書を著者のルカが書いたとき、彼はマルコによる福音書を机の上に開いていただろうと言われるほど、ルカによる福音書は、マルコによる福音書を下敷きとして記されています。
今日、わたしたちが読む荒れ野の誘惑についても、マルコによる福音書が記しています。そこを開いてみますと、マルコは主イエスの受けた荒れ野の誘惑については、たった2節しか記していないことがわかります。
それはルカによる福音書で言えば、先ほど読んだ1〜2節前半と、13節だけです。マルコによる福音書には主イエスが悪魔から受けた3つの誘惑の内容についてはまったく書かれていません。それを記すのはマタイによる福音書です。

わたしたちは、この箇所を読むにあたって、それゆえにマルコが書いていること、それはマルコがこれだけは重要なので、書き残さなければならないと考えて書いているということでしょうから、それにまず注目したいと思います。

マルコもルカも、共通して強調していることがあります。聖霊のことです。誘惑というとき、私たちの心にまず浮かぶのは、サタン、悪魔ではないでしょうか。エデンの園でエヴァが蛇にそそのかされましたが、誘惑するのは悪魔であり、サタンです。誘惑の場面に神の霊、聖霊は登場しないように思われるのではないかと思うのです。
ところが、サタンから誘惑を受けた荒れ野に主イエスを送り出したのは、「霊」だと書かれています。

ルカは主イエスが「霊によって引き回された」と言います。「引き回される」という言葉は、別の聖書では「導かれる」とおとなしい言葉で翻訳されていますが、要するに引っ張って行かれる、自分の意思ではなく、意思に反してでも連れてゆかれるという含みがあります。
ここで「引き回される」と訳されているのと原語で同じ言葉が出てくる印象的な聖句はルカによる福音書12章11節です。(131ページ)
主イエスの仲間、主イエスの弟子であるゆえに裁判にかけられる場面です。これは場所こそ荒れ野ではありませんが、試みに遭うことです。その際、聖霊が言うべき言葉を教えてくださいます。権力者を前にした法廷で、「イエスは主なり」と告白させてくださるのは聖霊なのです。

主イエスが荒野の試練に遭われたと言うとき、その試練へと主イエスを導いた、あるいは連れて行った、主イエスの意思に反してでも引き回すように拉致して行ったのは、聖霊だったとルカもマルコも異口同音に語っています。そして、ルカは試みに遭われた主イエスは「聖霊に満ちておられた」と言うのです。サタンの誘惑に際して、神の霊、聖霊が主イエスとともにおられたと言うのです。サタンの誘惑と聖霊は一見したところ、結びつかないように思われるかもしれません。しかし、聖書がはっきりここで語っていることは、誘惑や試練に遭遇させられるとき、聖霊が主イエスと共におられたし、わたしたちとも共にいてくださると言うことなのです。

先週、主イエスの受けられた洗礼について読みました。そこで洗礼に際して、主イエスの上に聖霊が鳩のように見える姿で降ったと言うことを見ました。そして、天からの声が「あなたはわたしの愛する子である」と語りかけるのを聞きました。聖霊は人を神の子とする霊であり、わたしたちに神に向かって「アバ、父よ」と呼びかけさせる霊です。

主イエスがこのとき、受けられた聖霊は、神の子たる身分を授ける霊でした。でも、主イエスは洗礼を受けられて初めて神の子となったわけではありませんし、このとき初めて聖霊を受けたのでもなかったのです。母マリは聖霊によって主イエスを身ごもりました。聖霊は主イエスが母の胎におられるときから、主イエスと共におられたからです。

聖霊が主イエスの洗礼に際して、初めて主イエスのところに来られた訳ではないと言うことは、主イエスの神の子としての身分についても言えることです。
わたしたちでも、同じです。自分が両親から生まれた子であると言うことは、嬰児のとき、そのことを自覚しない時から、子でした。やがてそれを自覚するようになりますが、自覚して初めて子になったのではありません。自覚前も、自覚後も、親元を離れた後も、それこそ老人になっても、死ぬまで、わたしたちは両親に対しては子であり続けます。
主イエスもまた、父なる神の子であられることは、永遠から永遠に変わることのないことです。

そうだとすれば、永遠から永遠まで変わることのない主イエスの神の子としての身分について、なぜここで試みられたのでしょうか。サタンは繰り返し言います。「神の子なら、もし、あなたが本当に神の子であるなら。」と。ヘブライ人への手紙の5章8節に「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と書かれています。そして、それは主イエスがわたしたちの偉大な大祭司として「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」ることにより、「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになる」ようになるためだったと語っています。
ここで、わたしたちが受ける試みについて、聖書が記している典型的場面を読んでおきましょう。それはイスラエルが荒れ野で経験した試練です。出エジプト記17章に、エジプトを脱出したイスラエルの民がモーセに逆らい、主を試みたことが書かれています。飢えと渇きの中で、また将来への不安を抱いて、民は「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、主を試したと言います。

「果たして、主は我々の間に、我々とともにおられるのか。」
荒野においても、イスラエルの民と共におられた主、昼は雲の柱、夜は火の柱として、民を離れることなく、民の只中におられた主は、これを聞かれてどう思われたことでしょうか。イスラエルと共におられた主の霊は悲しまれなかったでしょうか。

主なる神は試練へと敢えてわたしたちを導かれます。そうです、主イエスをこのとき、荒れ野に連れて行ったのが聖霊であったように、聖霊がわたしたちを試練へと導かれるのです。それによって、聖霊は、ご自身がわたしたちとともにいてくださることをわたしたちが知り、信じ、わたしたちがどんな状況においても、どれほどおおきな試練と困難に遭遇させられたとしても、聖霊に信頼して歩む訓練を受け、神の子として自信を持って、確信に満ちて生きてゆくようにしてくださるのです。

先ほど読んだヘブライ人への手紙で神はわたしたちの霊なる父として、わたしたちを訓練されると書かれていました。そこに「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」(12章11節)と書かれていました。鍛錬が悲しいものと思われるのはなぜでしょうか。それは、最初はうまくできなくて、失敗するからではないでしょうか。どんなことでも、失敗は落胆させ、自信を失わせ、悲しみをもたらします。

ペトロがサタンの試みを受けて、主イエスを三度知らないと言ってしまったとき、彼は悲しんで号泣しました。それは彼自身の悲しみでしたが、主イエスを悲しませたことを悲しんで主イエスの悲しみを思って泣いたのだと思います。しかし、ペトロの罪を悲しまれる主イエスは、ペトロのために祈ってくださる主であり、彼を立ち直らせてくださる愛の主でした。試練の中で、サタンに試みられるとき、わたしたちのために祈ってくださる主イエスがおられ、聖霊がわたしたちを離れることはないのです。聖霊の執り成しの祈りがわたしたちを悲しみの中から悔い改めへと立ち返らせてくださるのです。

主イエスの受けられた3つの試みにおいて、主イエスはサタンに勝利してゆかれます。主イエスがサタンの誘惑を退けられたのは、繰り返し、神の言葉をもって、サタンを退けられることによってでした。それは、洗礼に際して、主イエスが聞かれたあの神の声に立ち戻られたということだと言えます。
第一の、主イエスが神の子なら、パンを石に変えよという誘惑にたいしては、「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉を引かれました。人はただ、食べて行くためだけに生きているのではありません。人生には目的があります。わたしたちは神の子たちとして、神の御心に適う生き方をするために、神に喜んでいただくために、父なる神を喜ばせるために生きるのです。
第二の誘惑で、悪魔は「この国々の一切の権力と繁栄は、自分に任されていて、自分が与えようと思う人に与えることができる」と言っています。「自分を拝むなら、それをお前に与えよう」と言います。これは本当でしょうか。主イエスは悪魔を偽りの父と呼ばれます。これも真っ赤な嘘ではないでしょうか。わたしたちが主の祈りの最後に唱えるように、「国と力と栄光は、永遠に父なる神」のものだからです。神は悪魔にそれらを任せてなどおられません。それを誰に委ねるかをお決めになるのは神さまです。パウロがローマ書13章で「神によらない権威はない」と言うように、地上の権威は神の僕として、神に仕えるために立てられているのです。
第三の誘惑で、神の子なら高いところから飛び降りろと、悪魔は言いました。それは主イエスの最後の十字架でも繰り返された誘惑でした。「神の子なら、十字架から飛び降りて、自分を救え」。主イエスはその誘惑を退けて、ご自分を救わずに死んでゆかれました。一見したところサタンが勝ったように見えました。しかし、それはサタンの最終的敗北だったのです。主イエスは自分を救うことをなさらずに、自分を救うことのできない犯罪人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたように、自分で自分を救えない罪人であるわたしたちを救う救い主となられました。

主イエスは、ここでわたしたちの代表として、わたしたちのために試みに遭われ、わたしたちのために試みに勝利してゆかれます。わたしたちにとって大事なことは、私たちに求められ、許し与えられているのは、試みに勝利された、わたしたちのかしらなる主イエスに倣って、聖霊に導かれて生きることです。そうして、わたしたちと共にいてくださる聖霊を悲しませず、主イエスのように試みに打ち勝ってゆくものとなってゆくことです。

今週の火曜日に橋谷英徳先生を迎えて講演会がもたれようとしています。
先生は以前された講演の最後をアウグスチヌスの言葉を引いてこう締めくくられました。
「悪い時代、困難な時代、このように人は言うのです。しかし、良く生きましょう。そうすれば時代も良くなるでしょう。わたしたちの有り様が、時代の有り様なのです。」
この悪い時代、困難な時代のただ中に、わたしたちを神の子としてくださる聖霊が、わたしたち共に、わたしたちの中にいてくださいます。そのことを喜び、感謝しながら、神の子として歩むものとしていただきましょう。

父と子と聖霊の御名によって