聖日礼拝 「ヨハネは福音を知らせた」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書 1章1~5節
新約聖書 ルカによる福音書 3章1〜20節  

 

1〜3節
マルコによる福音書は、最も古い、最初に書かれた福音書です。わたしたちが読んでいるルカによる福音書を著者のルカが書いたとき、彼の机の上にはマルコによる福音書が開かれたまま置かれていたと言われるくらい、ルカはマルコを下地としてその福音書を書いています。
今日、読む洗礼者ヨハネについての記事もまさにそうです。今、ご一緒にマルコによる福音書の1章を開いてみたいと思います。

二つを比べると、ルカがマルコには書かれていないことを付け加えていることがわかります。例えばルカによる福音書3章1、2節の、ヨハネが登場したのが歴史上いつのことだったかに関する記述はマルコにはありません。他にも、イザヤ書の引用で、3章5、6節が付け加えられていることや、7節以下に書かれているヨハネがどんな説教をしたかは、マルコには書かれていません。

ということは、マルコに書かれていることで、ルカがそのまま書いている部分は、ルカが大事だと考えているところであり、マルコが書かなかったことで、ルカが付け加えた部分は、ルカなりの理由があって書いているということだと思います。

ヨハネが宣べ伝えたのは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」だったと書かれています。これはマルコもルカも書いていることです。最初にヨハネが宣べ伝えた「罪の赦しを得させるための悔い改め」とは何だったかを考えたいと思います。

7〜9節
「我々の父はアブラハムだ」などという考えを起こすな。ヨハネはこう言っていますが、アブラハムの子、あるいは子孫であるとはどういうことでしょうか。イスラエルの先祖、信仰の父と呼ばれるアブラハムは、なかなかこどもを授かりませんでした。妻のサラはこどものできない石女(うまずめ)でした。こどもが授からないまま夫婦は高齢になり、アブラハムとサラに子が生まれることは、死人が復活し、無から有を呼び出すくらい、不可能に等しいことでした。「アブラハムの子」という表現はもともと緊張を孕む言葉なのです。
もし、自分が「アブラハムの子」であるとしたら、それは、奇跡であり、神が不可能を可能にされた驚くべき恵みによることなのです。ヨハネの宣べ伝えた「悔い改め」とは、そのことに気づき、そのことを思い起こすことでした。
さらにヨハネは群衆に向かって、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と迫っています。
悔い改めにふさわしい実とは何でしょうか。群衆もヨハネに問うています。(10節)ヨハネはそれに答えています。(11節)この箇所をスイスの聖書学者のシュヴァイツアーが次のように解き明かしていました。とても感動的でしたので紹介させていただきたいと思います。
「荒野の夜は寒く、隣接の地もまた遠い。それゆえ、ヨルダンに向けて出発する人は、夜の冷気から身体を守るために二枚の下着と十分な食料を持って行く。ところが、そこにこういう必要品を持たない人がいる。ヨハネは、人が悔い改めているなら、そのしるしとして、この隣人に同情するのは当然であると考える。」
悔い改めとは、自分が今、ここにこうして生きて存在しているのが、アブラハムの子として、神の奇跡的な恵みによっているのだということを思い起こすことであれば、悔い改めのしるしとして、二枚持っている下着を、一枚も持っていない人に与えることは、難しいことでも、特別なこととしてでもなく、当然のこととして、なされるのではないか。

12〜14節
7節以下に書かれているヨハネの説教は、マルコには書かれていませんが、ルカだけでなくマタイにも書かれています。でも、マタイではその説教がユダヤ人のファリサイ派やサドカイ派に向けられているのに対して、ルカでは説教の対象が群衆となっており、その中には徴税人や兵士が含まれています。これは当時のユダヤ人の主流であったファリサイ派の考えとは大きく違うことです。ファリサイ派の人々は、徴税人や兵士達が携わっている職業自体が罪深いゆえに、彼らは最初から相手にしえない人々だと見ていたからです。しかし、ヨハネは徴税人や兵士にもアブラハムの子としての悔い改めの実を求めています。でも、それは徴税人や兵士という職業や身分を放棄せよとの要求ではなくて、自分たちの与えられた身分、職業の中で正しいことをすることが求められているだけでした。

4〜6節
マルコやルカがここにイザヤ書の預言を引用するのは、バプテスマのヨハネの宣教活動がこの預言の成就として行われたという意味です。ここでもルカはマルコやマタイが引用していない5〜6節までイザヤ書の引用を広げています。そうすることでルカが言おうとしていることは何でしょうか。それは6節にある「すべての人が神の救いを仰ぎ見る」ことがここから始まろうとしているとルカが言おうとしているのだと思います。
これも先ほど引用した聖書学者シュヴァイツアーの言葉です。「神の救いが現れるとき、神の前でだれ一人自らを高くするものはないし、まただれひとり、低くされたままおかれることもない。」
すべての人が神の救いを仰ぎ見ます。だれ一人、自分を高しとして高ぶることはできません。ユダヤ人がアブラハムの子孫、神の選民イスラエルだと言って異邦人に対して自らを誇ったり、ファリサイ派の人々が、徴税人や兵士達を見下し、救いがたい罪人と言って非難することも間違いです。

19〜20節
こうして、バプテスマのヨハネの口を通して、神の救いを仰ぎ見ること、アブラハムの子としての悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが、すべての人に対して呼びかけられたのでした。その呼びかけを受けたすべての人の中に、領主ヘロデも入っていました。ヨハネの宣べ伝えた神の言葉を聞くべき存在として、彼も例外ではなかったのです。
自分がアブラハムの子であり、神から命と存在を許し与えられたものとして、それにふさわしい生き方は何か、それを自らに問えば、自分がして良いことと、してはいけないことは自ずと明らかなはずでした。

18節
ヨハネが荒野で宣べ伝えた神の言葉は、すべての人に向けられた福音だったのです。ルカはそのことを強調するかのように、ここで、はっきりとヨハネは福音を告げ知らせたと書いています。ヨハネが伝えたのが、他でもない福音であったとすれば、しかも、主イエスが宣べ伝えられた福音と同じ内容の福音だったとすれば、なぜヨハネは自分と主イエスを比べて、自分には何の価値もないと言うのでしょうか。

ヨハネは水で洗礼を授けるのに対して、主イエスは聖霊で洗礼を授けられると言われています。ヨハネはそれを自分と主イエスの最大の違いであると言っているかのようです。
ヨハネだけでなく、牧師であるわたしも洗礼を授けます。水を注いで洗礼を授けることは牧師としてのわたしにできますが、聖霊を授けることは、わたしにはできません。
パウロの有名な言葉に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは神である」という言葉があります。植物を育てるだけでなく、信仰の成長についても、人間である牧師や教師は御言葉を説教したり、教えたりすることはできます。でも、その人を神の子として生まれさせ、成長を与えることは、人間にはできません。それをされるのは神ご自身です。

ヨハネは、あなたは誰かと問われたとき、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」(ヨハネ1:23)と答えました。預言者は神の語られる言葉を聞いて、聞いた言葉を伝える「声」であり、風とともに消えてゆく「声」に過ぎないのです。それに対して主イエスは「言葉」でした。「初めに言葉があった、言葉は神と共にあった。言葉は神であった」と言われているように、主イエスは永遠に変わることのない、過ぎゆくことのない「言葉」そのものでした。

ヨハネは荒れ野で、群衆に向けて、身分の高い人もそうでない人もすべての人に向けて、神の言葉、喜ばしい福音を伝える「声」でした。今日、わたしたちもその福音の声に聞いて、悔い改め、神の救いを仰ぎ見ましょう。
父と子と聖霊の御名によって