新年礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第6回「急いで行った」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 歴代誌下 6章18節
新約聖書 ルカによる福音書 2章8~20節  

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第6回「急いで行った」

8節 9節 今日読んでいるクリスマスの夜の物語の主人公は誰でしょうか。天使でしょうか。マリアとヨセフでしょうか。飼い葉桶に寝かされている乳飲み子の主イエスでしょうか。いいえ、それは天使でも、マリアたちでも、乳飲み子の主イエスでさえなくて、羊飼いだと思います。羊飼いは、この物語の最初と真ん中に登場し、最後の場面も羊飼いの姿で締めくくられています。
ある人は、羊飼いを主人公とするこの物語は、神の言葉を聞いて、神を賛美した最初の礼拝者の群れの物語であると言いました。
天使のみ告げを聞いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせくださった出来事を見ようではないか」と互いに言って、「急いで」ベツレヘムを目指して出かけてゆきます。その姿は、天使ガブリエルのみ告げを受けたマリアが、ガリラヤのナザレからエリサベトの住むユダヤの山地を目指して、道を急いだ姿に重なります。神の言葉を聞いた者が、神からの呼びかけに応えようとして道を「急いで行く」こと、それはパウロが信仰と呼んだ生き方、姿勢です。そして、それが神さまを礼拝する礼拝者の姿であり、生き方であると思います。

この夜、神さまが、救い主の誕生の知らせを告げる相手として選ばれたのは、そして神さまを礼拝する礼拝者として招かれたのは、ベツレヘムの野辺で、野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いは生き物を相手にしています。この仕事には一年を通じて休める日はありません。農夫には農作業を休む農閑期があります。しかし、牧畜の仕事にはそれがないのです。北海道の教会にゆくと、牧畜に携わっている教会員の方がおられます。その方達が日曜日の礼拝を守るのには困難が伴います。主イエスの時代の羊飼いの仕事に相当する現代の職業は、老人介護施設や病院で、夜、当直にあたりながら、入居者、入院患者の世話をしている方々の仕事がそれに近いと思います。世話をしなければならない人々を抱えて、自分の持ち場を離れられない人たちが今もおられます。しかし、そのような中で、神さまが礼拝者として召されたのは、かつても、今も、世話をしなければならない相手を抱えて持ち場を離れられないような人々だったということ、そのような人たちが、神さまの言葉を聞き、神様を賛美する礼拝者として、神さまから招かれたということを、羊飼いの物語を通して覚えたいと思います。

10〜12節 ここに記されている天使のみ告げについて、二つのことに注目したいと思います。一つは、天使が救い主の誕生を告げたとき、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げましたが、そのときの「あなたがた」というのは、他でもない、羊飼いであるあなたがたのためにという意味合いが込められているということです。生き物を相手としているために、仕事から手を離せない、持ち場を自由に離れることのできないような羊飼いたちのために、救い主がお生まれになられたという意味です。

もう一つは、10節、11節に書かれている天使のみ告げに用いられている用語、表現が当時、全世界を統治していたローマ帝国の、新しい皇帝の誕生や即位を告げる告知の言葉と用語や言葉つかいが完全に重なっているということです。原文では10節に「ユーアンゲリゾマイ」というギリシャ語が用いられているのですが、福音とも訳されるそのギリシャ語は、当時の世界では、まさにローマ皇帝の誕生や即位を伝える知らせるときに用いる言葉でした。また、「救い主」と言えば、帝国に平和と秩序をもたらすローマ皇帝のことを指し、「ローマ帝国の「主」キュリオスとは皇帝のことに他なりませんでした。

しかし、ここではローマ皇帝の誕生が告げられているのではありません。貧しく、平凡な羊飼いのために生まれて来られる救い主の誕生が、天使によってローマから遠く離れたベツレヘムの野辺にいた羊飼いに告げられるのです。天使は羊飼いたちにその救い主のしるしは、「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」であると告げます。

その際にも、天使はそれが「あなたがたへのしるし」だと言ったのでした。「布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子」が、だれにとっても「しるし」となるような「しるし」でなく、取り分けて「あなたがた」羊飼いにとって、そうです、ローマ帝国の支配となんの関わりもない貧しく、無力な民衆である羊飼いにとっての「しるし」となると言われているのだと思います。これはどういうことなのでしょうか。

13節 14節 天使に天の大軍が加わって神を賛美しました。天の大軍というのは、このクリスマスの夜、ベツレヘムの夜空に満天の星が輝いていたかどうかわかりませんが、数え切れない、夜空の星は天の大軍を象徴していると言って良いと思います。そして、満天の星が輝かしている神の栄光の輝きは、それとともに響き渡る、天の大軍が歌う神の栄光の賛美の歌声を想像させます。しかし、ここで天使の大軍が神を賛美するのは、神の創造のみわざのゆえではありません。神が人間を救われる、その救いのみわざの栄光のゆえの賛美です。

先ほど旧約聖書朗読で読まれたのは、ソロモン王がエルサレム神殿を奉献した時の祈りです。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません」と言われていました。その通り、神ご自身が天にも、天の天にも、納め切れないお方であるように、神の栄光も、天よりも、天の天よりも、はるかに高く及びます。
しかし、いま、その神が地上の、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子として、この世に来られ、人間と共に住まわれているのです。そして、小さな乳飲み子を救われるのです。ここに表されている救いの神の栄光を、天使たちは声を揃えて歌うのです。

天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌います。「御心に適う人」とは、神が御心にとめて、愛される人のことであり、それは、乳飲み子のことであり、乳飲み子のように小さく、取るにたらない、小さなものたちのことです。「飼い葉桶に寝かしてある乳飲み子」があなたがたへのしるしだと言われたとき、羊飼いたちもまた、布にくるまった乳飲み子と同様、貧しく、小さい、取るに足りない自分たちが、神が御心をとめて、愛してくださる者の一人であることを、そのしるしを通して知るのです。

15節 天使が天に戻って行ったとき、羊飼いたちは、天使から聞いたみ告げを確かめようと、その「しるし」を見るために急いで出かけてゆきます。
16節〜18節 20節 羊飼いたちのしたこと、これが最初の礼拝者の群れとして彼らのささげた礼拝でした。彼らは、神の言葉を、天使を通して聞きました。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。彼らは聞いた御言葉を、与えられた「しるし」を通して確かめるために出かけてゆきました。そして、それを見て神さまの御言葉を信じ、神様を崇め、賛美しました。こうして自分の生活の場へ、持ち場へと帰って行ったのです。
わたしたちの守る礼拝もまた、羊飼いが捧げた礼拝とまったく同じものだと思います。彼らが受けたしるしが、「布にくるまって飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子」だったように、わたしたちにとっての御言葉のしるしも、なんの代わり映えもしない、見る人によっては何のしるしにもなり得ないものなのだと思います。

わたしたちは先週、幼子の洗礼式を与えられました。幼子の洗礼は、救い主が貧しくなって「布にくるまって飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子」としてこの世に来てくださり、わたしたちを、貧しく小さな幼子をも救う救い主となってくださった、そのしるしでした。わたしたちはそれを見て、神様が与えてくださった平和、わたしたちを御心にかなうものたちとして愛し、受け入れてくださっている平和を心から喜び、感謝し、神さまを賛美したいと思います。地上で羊飼いたちが歌う神への賛美は、小さな歌声でしかなかったでしょう。貧しい、みすぼらしい羊飼いたちが歌う賛美の声に耳をかたむける人は少なかったかも知れません。でも、地上で羊飼いが歌う賛美の声は、天において天使が神を賛美する賛美に合わせられていました。天使たちが天で神の栄光を賛美する賛美は、地上で人間が賛美を歌わなかったとしても、たとえようもなく荘厳で、栄光に満ちた賛美として神様に捧げられるかもしれません。しかし、天使の天における賛美は、貧しいわたしたちが神を賛美するがゆえに、いよいよ大きな賛美となるのです。

父と子と聖霊の御名によって。